画像サイズ: 804×954 (96kB) | 皆様 ご無沙汰を致しております、此処に書き込むには適当かどうか分かりませんが、トシがトシだし難しい話は出来ないんです。 此の部屋、変蝠林大兄のご入院以来、お書き込みも少なく、寂しいので、景気づけに、無理やりの書き込みです。 ヒマツブシに昔話でもやらせてください。 終戦時はインドネシアの爪哇島(Java)に居ました。 気候も良く(暑いけれどシベリアより益し)、食糧も潤沢で敗残兵としては恵まれた方でしょう。 終戦後は、いろいろな曲折を経てジャカルタの港(Tg.Priok)で、港湾荷役の重労働をやってました。 ニュースは共同通信のガリ版刷りを時々見てましたが、船が無いので、帰国出来るのは数年先とか、脱走兵が一挙に増えました。 インドネシア独立軍に行けば二階級特進とか、イロイロな噂が飛び交いました。 私もインドネシア語には不自由しなかったので、行こうかなと思ったことは事実ですが、行きたいセレベス島はジャワ海を渡らなければ・・・、思案しているうちに戦友が1人脱走してしまいました。 スラバヤ(爪哇島東部の都市)に恋人が居たし、彼女が妊娠中と言うのは知ってましたが、行き先は分かってました。 連れ帰れの命令が出て、夜行列車に乗って、スラバヤへ、別に危険は無く、スラバヤに着き居場所は分かっておりましたので、説得、連れ帰りました。 そいつとは戦後数十年も同じ仕事で、20年ほど前、病死、葬式まで付き合いました。 当時の仲間の戦友会(?)も残り4名、年に一度、メシを食ってますが、来年は出来るかどうか?。 終戦の翌年(S21)の九月頃、体の弱い順に復員船に乗せてくれるとか。 頑丈で元気なヤツまで軍医の前に整列、仮病を使い、弱弱しく咳などして、なんとかして復員船に乗りたくて、皆懸命に努力しました、(俺も同じく)。 努力の甲斐があったかどうか、入港してきた復員船、米軍が貸してくれたリバティ型貨物船(やく7千トンくらい)に乗ることが出来ることになりました。 岸壁に着いた復員船のタラップに行く前に、岸壁に設営された天幕で、英軍の持ち物検査などが御座いました。 官等氏名を名乗れ、手荷物を広げろ,etc. 、荷物は褌二、三枚と薄い毛布1枚だけ。 乗船許可書みたいな紙切れを貰って、船のタラップを駆け上がりました。 数人前に並んでいた大尉さんは、此処でストップを掛けられて、グルカ兵に囲まれて、何処かに連れて行かれましたが、あとで聞いた話では、捕虜収容所関連だったらしいです(顔面蒼白になってました)。 永い航海が終わって潮岬の灯台が見えたときは、皆、泣いてました。 名古屋港に上陸の際、DDTの粉末を体中に、持ち物にも、吹き付けられました。 数百円(幾らだったか、どうしても思い出せない)のお金と、日本全国何処にでも行ける切符を貰い、東京大森の焼け残りの家に帰ることが出来ました。 私より数ヶ月前にニューブリティンより復員した兄貴が、栄養失調で、やせ細って寝てました。 庭の蛙を食うってお袋が嘆いてました。 布団に蚤が居て、痒くて眠れないのです、持ち帰ったDDTを吹き付けの毛布をひいて寝たら快適でした。 それ以降、生き残る為に、職と食を求めて焼け跡、闇市を徘徊する、所謂、復員崩れの生活が始まりました。 アレから63年か・・・、イロイロありましたが、追って。 戦争経験者で最も若い私たちでも既に八十ン歳、先日、”言わずに死ねるか”と言うサイトに触発され、想い出話も書かせて頂こうと、ノコノコと出て参りました。 ボケも相当進行してますので、思い違いや、記憶違いも多々在ると思いますが、勘弁してやって下さい。 戦地(セレベス島)に着いたのは、昭和17年秋、私は9月生まれですので、満17歳になる頃でした。 其のガキのような兵隊が、どんな戦争をやったのか、少しづつ、”ヒマツブシ”で書かせて頂ければ幸甚です。 不謹慎なオハナシも出てきますが、怒られたらすぐに止めますので、よろしくです。 変蝠林大兄のその後のご様子など、宜しかったら、書ける範囲内でお知らせ頂ければ有難いのですが。 |