私の郷里である草津温泉について言えば、戦前と戦後で日本人の温泉利用方法が一変してしまいまいた。
私が子供の頃…………昭和初期から15,6年まで…………は、温泉場へ来る人は短かくても1週間〜10日間、長ければ1ヶ月乃至2ヶ月も滞在していました。今のように団体で来て、宴会をして翌日は帰ってしまうと言う様なことはありませんでした。 短期滞在の人は、夏ならば避暑を目的として(まだ冷房装置などなく、一方、草津は標高1200mの高原で真夏の最高気温も25℃位でしたから)、家族で来てゆっくり温泉と爽快な高原の空気を楽しむという類の人達、そして長期滞在の人は、温泉による持病の治療や体力増進を目的とする人達でした。この人達の多くは、日に4回、決められた時間に湯長の指示により、有名な湯もみをして入湯する、「時間湯」と呼ばれる町の共同風呂へ通っていました。(時間湯のことはまて別の機会にお話ししたいとおもいます。)
旅館の方もこういうお客さんに対して、今のように食べきれないほどの料理を出すこともなく、謂わば一汁一菜の料理しか出さず、もっと料理の欲しい人に対しては、町のお総菜屋が各部屋を回って注文を取り、料理を届ける様にもなっていました。
長期滞在のお客さんには、毎年決まってくる人もいました。今でも忘れられないのは、眼の不自由な御婦人で、毎年付き添いの人と一緒に来て同じ部屋に泊まり夏中を過ごしていましたが、とても三味線の巧い人で、小雨の降る日など、この人の弾く新内など嫋々たる三味線の音を聞くと、子供ながらもうっとりと聴き惚れ、時には涙ぐむほどの感動を覚えました。
旅館側はまた長期滞在者の無聊を慰めるため、時々、義太夫大会や浪花節大会を開きました。部屋続きの襖を取り払って30畳くらいの広間を作り、そこが会場になりました。色々な温泉場を回って歩く芸人さんもいたのでしょう。
各客室の構造は、襖で仕切られ、廊下側は障子です。テレビの水戸黄門などに出てくる旅籠屋そのままでした。今にして思えば、よくこんな、開けっぴろげの部屋で何も問題も起こさず、長期滞在が出来たものだと感心してしまいます。
こんな温泉利用方法の変化に限らず、戦前と戦後の日本人の生活様式の変化の大きさには驚かされます。
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