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[No.737] 終戦直後 投稿者:   投稿日:2008/09/09(Tue) 08:55
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 友人がお孫さんに、厚木に到着したマッカーサー元帥の写真を見せたら「えっ。この人、本当に元帥だったの」といったーーーという話を聞きました。

 私も、当時、まずあの「いでたち」に違和感を覚えました。

 元帥が作業服みたいな服装で、勲章もつけないで、剣もつらずに、ヘンな帽子をかぶり、パイプを咥えているのですから。

 戦争直後のこと、1945年8−9月のこと、いろいろ教えてください。


[No.738] Re: 終戦直後 投稿者:   投稿日:2008/09/11(Thu) 06:19
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>  戦争直後のこと、1945年8−9月のこと、いろいろ教えてください。

之は是非知り度いと思います。 勿論日本内地の様子。

外地では本当の戦時が始まった日でせう。

私の場合、南京駅で御詔勅のあった事を知りましたが、軍隊は休む間も無く
北満の対蘇戦闘に加わるべく揚子江を渡った日でした。

                                   変蝠林(1917-)


[No.739] Re: 終戦直後 投稿者:Pan  投稿日:2008/09/11(Thu) 12:33
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マーチャン、みなさん こんにちは。

 昨夜パソコンに向かいながら背後のテレビの音を聞いていました。

 「その時 歴史が動いた」です。

 日本では8月15日が終戦記念日ですが、アメリカでは9月2日の日本降伏調印
の日が祝賀の日だそうですね。
 終戦が8月15日、降伏が9月2日です。
 
 その半月余りの間、日本国内での込み入った動きが明らかにされていました。
 殆ど知らなかったことばかりです。

 日本語の条約文書の「降伏」の『伏』の字は犬と人との関係を示すものなので、
職務に服す意味の「降服」に替えようとの動きもあったようですが、結果的に
『伏』になりました。

 この間、私は何をしていただろうかと思い返しましたが、もはや朦朧とした記憶
の霧の中です。 前後関係も曖昧です。

 やっと動員の重労働から解放されたものの、何をすると言うほどの目的はなく、
中学校へは毎日通っていました。 その頃にはもちろん進駐軍も見ていません。

 運動場には夥しい設計図や文書が持ち出され数日間に渡って焼却されました。
 我々の動員の指揮者でもあった陸軍造兵廠の若い幹部達は泣きながら図面を千切
っては投げ込んでいましたが、我々は大きなトンド焼きの気分ではしゃぎながらそ
れを手伝いました。

 当時の幹部で名前を覚えているのは、われわれ生徒が一番尊敬していた小柄な土
田上等兵です。

 何日か後、思いもしなかった給料が支払われました。4月から8月まで日給1円
で、合計120円程度書き込んだ郵便貯金通帳を貰いました。

 重要な工作機械や測定器は大きなハンマーで叩き壊されました。
 その部品を持って帰って何かにしようという欲もありませんでした。

 近くの国鉄駅構内にはいろいろな建設資材や鉄や銅の資材から工作機械まで放置
してありましたが、誰も咎める者の無いことから、さっさと持ち帰って蓄財に励ん
だ人もありました。

 私と隣の上級生は、近くの山腹にあった変電所へ行き、大型トランスの油を抜い
て一升瓶に詰めて持って帰り、靴クリームの空き瓶で作ったランプを灯しました。

 昭和元年生まれの叔父は技術者として飛行機工場に勤務していたため、兵役を免
れながらも近付く本土決戦に備えて日の丸に寄せ書きを終えて壁に貼っていました。
 持って行く荷物もキッチリ揃えてありました。

 工場が閉鎖されて自由解散になっため郷里へ戻ってきたのです。
 私は見るなり、「戦争に行かなくなってよかったね」と言うと血相を変えて怒り
出しました。
 その後どんな会話を交わしたかは覚えていませんが、後になって何度も笑い話に
なります。

 その時点では彼は本気だったのです。また、そう言わなければならない空気でも
あったのです。

 その叔父は今も元気で写真に凝っていて、屡々入選しています。


           ***** Pan *****


[No.740] Re: 終戦直後 投稿者:   投稿日:2008/09/11(Thu) 17:01
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Panさん

>  日本では8月15日が終戦記念日ですが、アメリカでは9月2日の日本降伏調印
> の日が祝賀の日だそうですね。
>  終戦が8月15日、降伏が9月2日です。

 マッカーサー元帥は、8月30日に日本に乗り込んできたわけですね。

>  日本語の条約文書の「降伏」の『伏』の字は犬と人との関係を示すものなので、
> 職務に服す意味の「降服」に替えようとの動きもあったようですが、結果的に
> 『伏』になりました。

 えっ。そんなこともあったのですか。

>  やっと動員の重労働から解放されたものの、何をすると言うほどの目的はなく、
> 中学校へは毎日通っていました。 その頃にはもちろん進駐軍も見ていません。

 そうですね。来た早々は「進駐軍」といっていたのに、それがいつの間にか「駐留軍」と改名したようですね。

>  運動場には夥しい設計図や文書が持ち出され数日間に渡って焼却されました。
>  我々の動員の指揮者でもあった陸軍造兵廠の若い幹部達は泣きながら図面を千切
> っては投げ込んでいましたが、我々は大きなトンド焼きの気分ではしゃぎながらそ
> れを手伝いました。

 そういうことがあったのですか。
 もし、設計図などが残っていれば、米軍は欲しかったでしょうね。

>  何日か後、思いもしなかった給料が支払われました。4月から8月まで日給1円
> で、合計120円程度書き込んだ郵便貯金通帳を貰いました。

 ええっ。日給一円ですか。闇市で卵がいくつ買えたのでしょう。
 でも、ただ働き ではなかったのですね。

 いろいろ貴重なお話を、ありがとうございました。

 また、いろいろ教えてくださいませ。


[No.744] Re: 終戦直後 投稿者:   投稿日:2008/09/22(Mon) 06:16
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みなさん

>  えっ。そんなこともあったのですか。
>  ええっ。日給一円ですか。闇市で卵がいくつ買えたのでしょう。
>  でも、ただ働き ではなかったのですね。
>  いろいろ貴重なお話を、ありがとうございました。
>  また、いろいろ教えてくださいませ。

御詔勅を南京で聞いてから北満に転戦した戦地の兵隊共には終戦直後の
故国の事情が全然欠けて居るのです。翌年凱旋?と直ぐ再建に盲進でした。

宮城前で割腹した方の事は聞いてます。 然し、
当時未成年であった方々からもっともっと伺い度いのです。

 今頃になって参戦証明書を総理大臣から戴くらしい元帝国軍人:
                                 変蝠林(1917-) より


[No.745] Re: 終戦直後 投稿者:BUP  投稿日:2008/09/22(Mon) 16:10
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Re: 終戦直後
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変蝠林(1917-) 大兄殿
>  今頃になって参戦証明書を総理大臣から戴くらしい元帝国軍人:
←このようなA4版の参戦証明書が届きますよ。
景品はいろいろでしたが、小生の選択は五万円の商品券。
(家内が娘と温泉に行くのに使うらしい)
以上  報告終り!


[No.746] Re: 終戦直後 投稿者:   投稿日:2008/09/24(Wed) 09:05
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BUPさん、変蝠林(1917-)さん

> >  今頃になって参戦証明書を総理大臣から戴くらしい元帝国軍人:
> ←このようなA4版の参戦証明書が届きますよ。
> 景品はいろいろでしたが、小生の選択は五万円の商品券。
> (家内が娘と温泉に行くのに使うらしい)
> 以上  報告終り!

 わあ、今頃ですか。
 存じませんでした。
 ありがとうございました。