画像サイズ: 250×293 (15kB) | 変蝠林さん satyan768 さん ツリーの皆様 コンニチハ 今日もヒマ > 何時か集って思い出話を交わしませう。 此処数年の間に難聴になりました、 殆どツンボで会話も出来なくなってしまいました。 補聴器を付けてますが、一対一でゆっくり喋って貰うと、何とか通じるのですが、多人数、数人との会話は殆ど(全くと言っていいほど)成立しませんよ。 (高い補聴器を両耳に付ければと言われてますが、パソコンより高いし、面倒くさいので、無視してます、従って思い出話もネットでしか出来ないのが残念です)。 satyan768 さん シンガポールに居られたそうですが、シンガポール(当時は照南)での思い出話を少しだけ。 昭和20年になり、比島戦、沖縄戦も始まり、上空は飛べなくなり、南方と内地の飛行は大陸経由になりました。 南西方面艦隊の受け持ちは爪哇島を中心に東は西ニューギニアまで、因みに山本元帥を運んだのは南東方面艦隊でした。 爪哇島を離陸すると、照南、サイゴン、海南島の三亜又は広東(今の広州)、上海経由、鹿屋と言う危ないコースになりました。 シンガポールも空襲されるようになりましたが目標はセレターの軍事基地方面で、中国系の市民の多い市街地には爆弾は落ちなかったようでした。(小生が居たときのこと) スラバヤで配給になったスマンガットと言うタバコを持って行くとシンガポールでは喜ばれました。 宿泊先の宿舎の受付に中国系の可愛いお嬢さんが居りました。 日本語、マレー語、英語 何語で会話をしたのか憶えていませんが、僕たちと会話を楽しんでおりました(実は、俺はマカッサルの御蔭でインドネシア語はバイリンガルでした)当時、照南には”新世界”とか(大世界かも?)言う、屋台や娯楽設備がある遊園地みたいな施設が在りました、僕たち数人が彼女を誘い遊びに行くことになりましたが、危険だと言われましたが、皆、拳銃を持ってるし、と言うわけで、彼女を連れて、楽しく遊びに行きました。 帰途、何故か、彼女の御機嫌が悪くなり、ベソをかいたり、怒ったりしてるんです。 何事も無く宿舎に帰り、翌日サイゴンに向け飛び立ちました。 機上で、彼女と特に仲の良かった航法担当の兵隊に、昨夜、彼女どうして泣いたのかって聞いたら、”私たちこんなに仲が良いのに、どうして戦争しているのか”って怒っていたとのことでした。 一ヵ月後、そいつもニューギニアで戦死、俺も南シナ海で海蛇と一緒に泳いでました。 これから近所のプールで、オバサン連中と一緒に猛泳のつもり。 (くだらない想い出話でゴメンネ m(__)m ) http://www.youtube.com/watch?v=R3ejffl6zQM |