20年ほど前に書いた一文から再録してみます。
明治天皇が崩御されたのは1912年7月30日のことであるが、西園寺公望首相は、「非常ニ非礼ノコトダガ、万一手抜カリガアッテハ………」と懸念し、元号勧進の内案作成を下命した。内案作成担当者は、股野内大臣秘書官長、多田宮内省御用係、岡田学習院教授、高島宮内省図書助、国府内閣書記官室・事務嘱託の5名であった。これらの担当者は、第一回内案「永安」、「乾徳」を、第二回内案「昭徳」、「天興」を提出したが、西園寺首相は一覧するや直ちに『「永安」ハ蜀ノ大主ガ崩ジタ時ノ宮殿ノ名デアリ、「乾徳」ハ宋ノ太祖ノ年号、「昭徳」ハ唐ノ昭徳王后ノ名前、「天興」ハ興ノ字繁画ニシテ児童ヲ苦シマシムル虞アリ、カツ、拓抜氏ノ元号ナリ』との理由を挙げ、これらを否決した。
結局、第三回内案として「大正」、「天興」、「興化」の順位を定め、枢密顧問会議が「大正」を最善として上奏し、決定されたと伝えられている。西園寺公の古典、故事に精通していること驚くべきものがあり、とても現在の政治家にはのぞむべくもないが、それでもなお、森鴎外は友人に充てた書簡で、「大正ハ安南人ノ立テタ越トイウ国 ノ年号デアリ、又何モ御幣ヲカツグニハ及バネド支那ニテハ大イニ正ノ字ノ年号ヲ嫌候、『一而止』ト申候。正ノ字ヲツケ滅ビタ例ヲ一々揚ゲテ居リ候。不調ベノ至ト存候」と言っている。大正の出典は、周易の「大イニ亨(とお)リ以テ正シキハ、天ノ道ナリ」からである。(易経「………賢を尚び、能く健なるを止めしむるは大正也」に由来するとも言われているが、……………)
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