[掲示板へもどる]
一括表示

[No.692] 『絶対矛盾的自己同一』 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/10/29(Wed) 13:30
[関連記事

題記は私が社会に出て二番目に神戸元町の本屋で求めた本です。
三頁ほど読んで其の後、数十年間未だに書棚に眠って居ります。

>http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html

みなさま、若し御解かりでしたらレスを御願い致します。
若い時には変な向学心に燃えたものですね。

                          変蝠林(1917-)


[No.699] Re: 『絶対矛盾的自己同一』 投稿者:   投稿日:2008/11/11(Tue) 01:10
[関連記事

> 題記は私が社会に出て二番目に神戸元町の本屋で求めた本です。
> 三頁ほど読んで其の後、数十年間未だに書棚に眠って居ります。
>
> >http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
>
> みなさま、若し御解かりでしたらレスを御願い致します。
> 若い時には変な向学心に燃えたものですね。

ちょっと読みかけて見ましたが
 難解で読み進めません

 ざっと斜めに読んだ感じでは 以下の内容に
 通じるところがあるような気がしますが
 これとて 私にはなんのことか・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 @)統一新羅仏教の性格 
韓国古代国家において、仏教は高等宗教として既存の土着信仰や意識世界を吸収した後、王権強化に精神的背景となった。特に中古時代に法空(法興王)や法雲(眞興王)のような仏教式王名や眞平王とその王妃名が釈迦の父母名(白浄、摩耶)を採用した事実はこれを証明している。すでに仏教受容時に見られた王室と貴族間の妥協の中で、★368 王権を強化した観念形態である仏教は国家統一政策へも基盤となったのは事実である。★369
その上仏教の護国的な性格は圓光の乞師表や、★370 百座講会のような仏教集会を通じて、その理念的基盤を提供し、元暁が統一戦争で金庾信を助けた事実は、★371 まさに仏教と王権(国家)との関連を端的に説明している。従って巡幸時に高僧(僧統)が必ず王の先頭となって随行するのが見られる。★372 皇龍寺九層塔を建立すれば‘隣国が降伏し新羅が永遠に太平となる’と言う意味は、矢張り同じことと見ることが出来る。★374
それゆえ理想的な君主観が転輪聖王であり、仏教は現実的に国家権力の存在を認定するようになったようである。★375 ここに我々は眞興王と皇龍寺、文武王と四天王寺、神文王と感恩寺、聖徳王と奉徳寺、そして景徳王と仏国寺との関係のような王室寺院(成典寺院)の存在を見ることが出来るのである。★376
このような護国信仰としての仏教は、それが帯びる現実求福的性格から出発した。元暁が王妃の治病のために行った説法は、仏教が帯びる超人的能力と威力による幸福の追求と現実的要求の表現となり得た。 従って華厳宗で代表される統一新羅の仏教が初めは王室仏教であったが、漸次国家仏教になったと言う見解は、仏教の発展過程に対する説明にはなるが、★377 王室と国家を区分し難い古代社会においては両者の区別は難しいと言えよう。★378 従って華厳宗自体が直接王室と関連がないと言う見解よりは、★379 むしろ華厳宗が専制王権の思想的背景や関連は当然であると言える。★380 それゆえ金大城の個人的目的で作られた仏国寺を、国家で完成させることが出来たのである。
 このように統一新羅の仏教は国家の保護と王室の勧奨で隆盛し、それにつれて多くの宗派が成立した。いわゆる5教(教宗)の成立がそれである。しかしこのような宗派の成立は、その対立の意味よりは仏教教理とその解析の差異から来る新羅仏教の隆盛を示したものと言えよう。★381 特に統一直後の圓測(613〜696)の新唯識学は玄奘・竅基で代表される中国の慈恩学派に対抗する、いわゆる西明学派の思想体系で、道證を経て太賢によって集大成され、法相宗へとつながって行った。★382 この新唯識學は一乗的立場で大・小乗 複数の宗派の幅広い包容と融合を目指したので、★383 元暁(617〜686)と義湘(625〜702)へと受け継がれた。
 統一新羅の仏教は、その後義湘の華厳宗と、★384 元暁の和諍・浄土信仰で★385 新たな仏教哲学の段階に成長して行った。特に義湘の「華厳一乗法界図」の‘一つが即ち全部であり、瞬時が永遠である’は、ひとつと全部が相互依存的(相入相即)である共生を意味するものであろう。従ってひとつの範疇の中から階層と差別を抜け出て、融合の依支で統合と調和を期すのは、結局専制王権の性格を支えることが出来ると言う説明が可能である。このような見解は仏教の源泉的教理からではなく、それが帯びる宗教的意味と社会的要求の反映となり得るからである。このような相互依存的立場は、元暁の和諍や浄土信仰も結局は統一後民族と文化の統合と言う時代精神と相通ずると言えよう。

A)元暁と義湘
 新羅仏教哲学史上いちばん大きな業績と影響を残した高僧は元暁と義湘である。元暁は義湘とともに入唐求法を目指したが、遼東地方でスパイと間違えられて失敗し、66年に再度試みた。しかし元暁は古墳内で飲んだ水を通じて‘すべての世界と存在は心識から始まる’(三界唯心 萬法唯識)ことを悟り、留学を放棄した。その後彼は破戒(瑤石宮の寡公主と結合)と無碍行を通じて仏教界の大きな変化を先導した。

 衣服を繕うときは短い針が必要であり(縫衣之時 短針為要)
 長い槍では役に立たない(雖有長戟 而無所用)
 雨を避けるには小さな傘でよく(避雨之日 小蓋是用)
 全天を覆うものがあっても仕方がない(普天雖覆 而無所救)
 ゆえに小さいとて軽く見るのではなく(是故不可以 小為軽)
 本性に従えば大小すべて重要である(随其根性 大小皆珍者也)
                     (弥勒上生経宗要) 

 この詩は元暁の思想を表した象徴的なものである。この平凡な真理は貴族から平民に至るまで浄土信仰を通じて西方浄土に往生することを祈願する仏教教理を提示し、人間が普遍的に持っている仏性を強調して阿弥陀仏に帰依出来る仏教の大衆化に寄与した。★386 特に民衆に現実の辛さ(苦海)を逃れて浄土に帰依すると言う未来像を提示することで、仏教の大衆化と来世化に大きな契機となった。
 また元暁は当時の戦争と葛藤を体験したので、平和と和解の時代精神を先導し、分裂と葛藤を包容して和解しようとする和諍の思想を強調した。人間は根本的に平等であると言う基本原則に忠実な彼は、人間の仏性を通じて極楽往生出来ると言う希望を提示したのである。

 統合して論ずれば一観であり、展開して説けば十門である
 展開しても一は増えず、統合しても十が減りはしない★387
 展開したとてわずらわしくは無く、合わせたとて狭くはならない★388

として、統合と展開、受容と批判、肯定と否定を超えて和合と調和の和諍を提示したのである。従って元暁の考えは‘世間の位置は一つではないが、だからと言って互いに違うものでもない’言うならば非一非異である。ゆえに彼の和諍思想は仏教の統合や調和だけでなく、世俗的な価値と宗教的価値間の葛藤と摩擦までも和解させようと言うものである。従って元暁は仏教での眞諦と俗諦間の障壁を葬り、圓融無碍の実践倫理を提示したのである。★389

 邪悪と善良、罪と福を見定めるのは難しい。内心は良くなくても外見は良く見えることがあり、表面上汚れていても心は美しい場合もある。ある行為が小さな福を招んだとしても却って大きな憂患を招来することがあり、考えと行動が深く遠大のようであっても、浅薄で近視眼的なところへ反れる場合がある。★390

として、元暁は外形的な言葉ではなく、心の姿勢を、正当な理論ではなく正しい行動を要求した。従って彼は自ら破戒の実践を通じて、★391 俗世の束縛を難なく抜け出て‘一切の拘束を拒否する’(元暁不覊)行動の実践者として、修行者として積極的な求道の姿を見せたのである。このような彼のドンキホーテ的な行動様式から大衆の支持を得たようである。
 これに対して義湘は元暁と違い、ひたすら華厳學に重きを置いた融圓思想を通じて‘長い話をせず、ただ、ひとつだけ言えばすむことだ’★392 に見るように、その中に実践修行を求めたようである。同時に義湘も元暁のように浄土信仰に立脚してその具体的信仰体系として観音信仰を定着させ、弥勒の現実浄土と弥陀の西方浄土を折衷することで大衆に近く迫って行くことが出来た。★393
 義湘の思想は彼の「一乗法界図記」に現れているように、‘ひとつの中に一切を融摂してその間の差異をなくす’強力な融合思想であり、実践的修行の意味を帯びている。★394 その中で法界図印は210字の詩で四面四角の図印で、真ん中から読み始めて次々右に方向を変えながら読み進み最後にまた真ん中で終わるが、全体的に一筋の道を成している。その内容は高僧と弟子の問答で意味を解析するが、大体において一つに通じると言う圓融の智理と四摂法と四無量心の意味を見せている。★395 そして「一乗法界図」は彼の基本思想である圓融と中道の意味を表したもので、なによりも因縁に従う‘縁起の本体’と、一と全体が相互依存する、言わば相入相即する無障碍の世界を描いている。従って個体間の絶対平等とつながっている。★396   
 このような思想は統一前後の新羅社会が要求した思想的潮流であり、元暁の場合にも見ることが出来る。しかし義湘は唐高宗の新羅侵攻を新羅政府に知らせながら、中国を往来する時は中国の公式使節と同乗した。★397 同時に金春秋一派(舎輪系)の願刹が皇福寺であったのに合わせ、★398 華厳思想が持っている全体としての調和と均形は一の内にすべての階層と体制を統合することで全体構成員の平等と養和を意味すると言う考え方で新羅専制王権の政治的基盤となったのは事実である。★399 しかし、一を国王に比喩し、多を一般人全体として、国王に全ての力が集まっていると言う理論にはつなげられないと言う指摘もある。★400
 元暁と義湘は同じ融合と調和を強調した永遠な道伴であったが、修行方法や実践過程で差異を見せもした。しかし元暁は和諍思想で、義湘は圓融思想で浄土信仰を実践したことでは、同じ道を歩んでいた。ただ元暁は二品で★401 身分的限界と矛盾を持っていたので、自ら王室との破戒的な婚姻を通じて、それを克服した実践者である。これに対して義湘は眞骨出身であるが、卑しい身分であったので金春秋一派と結束することで王室と関連を持つこととなった。★402 これから見て前者は地方出身の6頭品であるが後者は王室と関連した王京人であり、両人の活動に影響を及ぼすこととなった。
 それゆえ元暁は自ら一切の拘束を抜け出し投げ捨て、妨げるもののない言動を通じて聖俗を超えた積極的な行動者となったのである。

 元暁は千村万落を歌い踊りながら歩き回ったが、樵の子や大工まで仏陀の名を知り、南無の称号を唱えるようになったのは、元暁の功績であった。★403

これで見られる元暁の行状は、闊達無碍な自由人としての強い自信感と、自由奔放な言行を駆使する一面を持っていた。
 これに対し義湘は、厳格な修行と徹底した修道者の本分を外れず、無所有の内面性と本文を守って行く内省的な性品を帯びていた。無論眞骨出身として、多くの制約から解放され得た義湘は、現世利益よりは清浄な修道者的な態度で圓融思想を実践した求道者であった。★404 元暁が求道の方法と悟りの姿勢を心の内に求めようとした反面、義湘はそれを心外の普遍的法に求めようとしたので、★405 中国留学を決心したようである。義湘の圓融思想は‘一の内に一切を融摂し、その間の差別をなくすこと’であり、その方法として実践修行を通じての観音信仰と弥陀浄土信仰を強調した。対する元暁は全ての分別と葛藤を包容する和諍を通じて世俗的価値と宗教的価値間の摩擦を解消する開合の論理であった。★406
 このような両者の視角差は教化活動においても比較される。元暁は千村万落を巡り、‘簡単な念仏・偈頌・歌’などで布教した。義湘の方は厳格な規則と終始一貫乱れない姿勢で現実・具体的教化を強調した。このような義湘の精神は統一新羅の政治的安定と繁栄を反映したもので、統一の熱気を冷まし浮き立った心を鎮静させると同時に、百済・高句麗の残民をひとつの枠内に包み込んで、観音と弥陀信仰を浮き彫りにしたものである。ゆえに、ある程度規制と原則が要求されたようである。★407 これによって仏教は王京中心から地方へ、また民衆の手で拡大され得たのである。ここに我々は、元暁が積極的なドンキホーテ型であるとすれば、義湘は消極的で内省的なハムレット型であると言えるようである。同時に朝鮮王朝の退渓と栗谷の関係とも比較することが出来るであろう。


[No.700] Re: 『絶対矛盾的自己同一』 投稿者:   投稿日:2008/11/11(Tue) 07:28
[関連記事


>> みなさま、若し御解かりでしたらレスを御願い致します。
>> 若い時には変な向学心に燃えたものですね。

>  ざっと斜めに読んだ感じでは 以下の内容に
>  通じるところがあるような気がしますが
>  これとて 私にはなんのことか・・・

現存の我々が生きた時代に時間の長短が如何に変転したかを
端的に表明する一事ですね。