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[No.469] ダンスが流行った? 投稿者:七君  投稿日:2011/01/17(Mon) 10:12
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みなさん こんにちは

私が体験した事ではないのですが、、、、
戦後すぐのころ、ダンスが流行ったそうです。
京都大学理学部の化学でも、職員などが集まってダンスをしたそうです。
それも、何もないときですから、いろんな色の瓶を輪切りにして(化学では、自分でガラス細工をする技術もあります)コップ状のものを作り、蝋、あるいは、研究室にあるパラフィンなどをとかし込み、電灯を消した中で、蝋燭として、青い灯、赤い灯を作って雰囲気を盛り上げてダンス(の練習?)をしたそうです。
大先生たちが楽しそうに話してくれました。
でも、私が入学して、先生方と話を出来るようになるころには廃れていたようで、残念です。


[No.472] Re: ダンスが流行った? 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/17(Mon) 20:34
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七君さん こんばんは

> 戦後すぐのころ、ダンスが流行ったそうです。
> 京都大学理学部の化学でも、職員などが集まってダンスをしたそうです。

> でも、私が入学して、先生方と話を出来るようになるころには廃れていたようで、残念です。

ダンスがとりもつ縁で結婚したというカップルは
私のまわりに少なからずありました。

ある結婚披露宴のとき
女子大の先生が祝辞で言っていました。
「ほんとうは女子大ではダンスパーティに出席することは禁止なのですが、
今日の幸せな二人を見ていると、この規則は見直したほうがいいかもしれません」

私の知っている、こういうカップルはふた組とも幸せです。


[No.477] Re: ダンスが流行った? 投稿者:   投稿日:2011/01/18(Tue) 08:48
[関連記事URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/

七君さん、男爵さん、お早う御座います。

> 私が体験した事ではないのですが、、、、
> 戦後すぐのころ、ダンスが流行ったそうです。

昭和二十年代前半、私の社でも猛烈に流行していました。
たまたま(郷里(大牟田市)の三池港岸にあった分工場に
出向すると、そこの工場長が熱心で、お昼休みになると
分工場全体が盛り上がって、コンソール型電蓄をガンガン
鳴らして全員で踊っていました。

そして鳴らしているのが、何故か古関裕而作曲、藤山一郎歌の
「三日月娘」耳にタコでとうとう歌を覚えてしまいましたヨ(爆笑)


             瀬里恵


[No.481] 古関裕而 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/19(Wed) 10:31
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七君さん、瀬里恵さん、  こんにちは

> そして鳴らしているのが、何故か古関裕而作曲、藤山一郎歌の
> 「三日月娘」耳にタコでとうとう歌を覚えて島しましたヨ(爆笑)

 三日月娘
作詩 藪田義雄  作曲 古関裕而
昭和22年 
  幾夜重ねて 沙漠を越えて
    ........

古関裕而といえば、歌謡曲のイメージが強いが、国際的な評価を受けた作曲家です。
1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールに入選しています。
この入賞の報道が縁で愛知県の声楽家志望内山金子(きんこ)が裕而にファンレターを送り、熱烈な文通を経て二人は結婚します。正式な音楽教育を受けていなかった裕而にとっては得がたい妻で、裕而はみんなの認める愛妻家でした。

古関裕而は家業を継ぐため、福島商業学校(福島商業高等学校)に入学したが
音楽好きで、妹尾楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強をしました。

卒業後、川俣銀行に勤務。
学生時代から憧れていた山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っています。つまり実質的に山田耕筰の指導を受けているのです。
福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局に記念番組に出演し
リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していた金須嘉之進に師事した。
古関は自分がリムスキー=コルサコフの孫弟子にあたることを誇りとしていた。

山田耕筰の推薦で、コロムビア専属となります。

歌謡曲、早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」、 全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの応援歌大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲颪」)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」などの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけました。

詩にあわせて丁寧に作曲したことは彼の音楽の特徴といっていいでしょう。