画像サイズ: 800×600 (68kB)> 国立民族学博物館は大阪府吹田市の万博記念公園にあります。>民族学・文化人類学を中心とした研究・展示を行っていますが、さまざまな研究スタッフがいて、それらの研究者の著書は多いです。>略称は民博(みんぱく)です。 さて前回残した写真を紹介します。民博は世界の民族の文化を紹介していますが当然、日本の文化も展示されています。青森のネブタなぜか、この部屋は一般公開されていません。柵がしてあって、中には入られませんでした。
ワルツさん(東京)は介護でお忙しい毎日を過ごしておられます。その合間のわずかな時間を使って思いついたことを川柳にものして書き留めておられるそうです。それを送ってこられましたので、お許しを得て、その中の句をいくつかGRUEから代理で紹介させていただきます。 御嶽の 神も心肺 停止かも 世界中 隣国喧嘩は 当たり前 法人税 下げたお返し 献金か おばさんに 静かにしてと 言う勇気 大臣の 椅子を割り当て 口封じ 目で刺すな 鳴るケータイは 隣だぞ順不同ですがいかがでしょう。世相を鋭く見ておられるのが清々しい。折々の川柳もいいですね。これからが楽しみです。
あやさん > 電車やバスの中では、携帯電話の禁止や遠慮が放送されています。周りに迷惑を> かける、電波を受けてはいけない病人に悪い、ということでと思いますが、平気> で話している人もまだまだいます。 せんだってのこと、重大な話ではないのに、> 大きな声で話していました。若い女性です。私は肩をつつき、禁止車両のビラを> 指差しました。すぐにやめましたが、あやまりはありませんでした。いますね。男でも女でも。いい年をした人も若い人も。> その少し前のこと、友人に、電話をかけるためのお金を借りました。お金を貸し> てくれながら「携帯でかければいいのに」と言われたのです。確かですね。持って> いるのを忘れてしまうときもあるけれど、長電話のときなど、携帯では聞きにく> く話しにくいのです。携帯電話は聞きにくいです。そして操作がよくわからない私はできれば公衆電話を使います。だからまだテレフォンカード数枚もって歩いています。この頃は公衆電話も少なくなってきました。街角にあったはずの公衆電話がいつのまにか撤去されています。 さびしい。
最後はイラクのクルド人です。これについて触れないとクルド人問題について終わらせることはできないようです。しかし、実は、私はイラクを訪問する機会を逸した。シルクロードをたどる旅には、実はイラクの訪問は不可欠であります。又、この地域は、ご存じのように、チグリス・ユーフラテス河の中下流域にあり、メソポタミア文明を理解する上でなくてはならない場所でもあります。しかも、あの大義なきイラク戦争(2003年)以降、この地域は混乱を続けており(パンドラの箱を開けてしまったと言う人もいる)、今では更に一層混迷を深めてきて、一般外国人の訪問がいつ可能になるかは全く見通しが立ちません。従って、イラクのクルド人のことを語るには、どこかに書かれたニュースや報告や本などを通しての情報になってしまう。つまり伝聞情報のみになるのだが致し方ないでしょう。お許しください。イラクの一般的な情報、イラン・イラク戦争(1980-1988年)、湾岸戦争(1991年、イラクがクェートに侵攻して敗北)、イラク戦争(2003年、サダム・フセイン政権崩壊)、米国イラク撤退(2011年)などは既知として話を進めます。現在の混迷の状況はよくご存知でしょう。イラクのクルド問題は他の3国(トルコ、イラン、シリア)とは大変違っていると思います。イラク北部にクルド自治政府(クルディスタン地域政府ともいう)を確保していることです。イラクのクルド人は約500万人、イラクの2割弱を占める。第二次大戦後、イラク中央政府と戦争(いわゆるイラク・クルド戦争)を重ねて来て、1970年に、バース党政権との間での協定でクルド人自治区が北部に設けられた。しかし、バース党政権とは常に緊張関係にある。自治区の首府はアルビール。独自の軍隊を持つ。イラン・イラク戦争(1980-1988年)では、イランと手を結び、その結果末期にバース党政権に化学兵器を使用されたとされている。で、湾岸戦争(1991年)では、欧米、湾岸諸国6国(サウジ、クエェート、カタール、バーレイン、首長国連邦、オマーン)側に付いて、特に米国との関係を強めた。イラク戦争(2003年)でも、連合国側に付いてバース党政権に抵抗して戦った。連合国側に付いて、自治区(クルディスタン地域)の独立やモースル、キルクーク(油田地域)への拡大を求めているが、イラク国内のアラブ人や、隣国トルコ(国内に深刻なクルド人問題あり)の反対で、先行きは分からない。ただ、現在、自治政府は外交権以外の権限を持ち、独自の大統領(議長ともいう)を持っている。イラクでは少なくともクルド人の存在が無視できなくなっているように見えるが、どうなるかは分からない。自国内で解決できず、不確定要素が多すぎる。(おわり)
懐中電話 2000.12昨日の神奈川新聞の一面に、「ケータイを越えて」という特集が掲載されていた。イラストには、2人の女の子の歩いている姿があり、1人はストラップつきの懐中電話なるもので話をしている。もう1人は首から下げたものを、胸ポケットに入れている。後ろには家の遠景があり、窓から母親が電話で話している姿がある。女の子たちの横には、「歩きながらお母さんとおはなし」と書かれていた。13 懐中電話 振り出しへ戻る。ともある。これは75年前の、大正時代の絵師・河目悌二が描いた「大東京復興双六」のなかのものだという。その半生を移動体通信の研究・開発にささげ、今は松下通信工業で、次世代以降の開発の陣頭指揮している倉本さんは、「そんな昔に今と変わらない携帯電話を予測した人がいたことは、驚き」と、言ったそうだ。私もその絵を見たときの驚きといったらなかった。現代の服装ではなく、なんとなくなつかしい明治、大正時代の女の子の姿だったから。昔に描かれたものと思い記事を読んだのだ。この絵がなかったら読まない記事だった。 電車やバスの中では、携帯電話の禁止や遠慮が放送されています。周りに迷惑をかける、電波を受けてはいけない病人に悪い、ということでと思いますが、平気で話している人もまだまだいます。 せんだってのこと、重大な話ではないのに、大きな声で話していました。若い女性です。私は肩をつつき、禁止車両のビラを指差しました。すぐにやめましたが、あやまりはありませんでした。と同時に電車は駅につき、私も彼女も降りたのです、そのときは一瞬ドキッとしましたが、何もありませんでした。 その少し前のこと、友人に、電話をかけるためのお金を借りました。お金を貸してくれながら「携帯でかければいいのに」と言われたのです。確かですね。持っているのを忘れてしまうときもあるけれど、長電話のときなど、携帯では聞きにくく話しにくいのです。現在、私の「ケータイ」は、夫との連絡用のみです。それもたまにでしかありません。家にいるときはスイッチを切っておき、外出時にだけスイッチを入れるのです。私にとって必要といえば必要、なくてもいいものにも思えます。 2003年2月下手ですが、文章を綴ることが好きな私、携帯電話のことも、1999年9月・2000年3月・2000年10月・2000年12月と書き綴り、こうして2003年2月にまとめているなんてと我ながら感心しています。私にとって、このころは携帯電話が物珍しかったのでしょうか。その後、携帯電話のことを書いてある記録が見つかりません。(おわり)
携帯電話見つかる 2000.10夫が買ったばかりの携帯電話をなくしてきた。塩原へ同年会に出かけ、日光見物のときらしい。その場ですぐ警察と電話局に連絡して電話を止めてもらったと言う。前から携帯に縁がないよ、と言っていた。1台目は落として壊れ、2台目も落としてきた。でもこれは、家の下の駐車場で車から降りるときらしく、誰かが、植え込みのところへ置いてくれたのを見つけることができた。でもそのあとすぐ前面が壊れて使えなくなった。そして、3台目をなくしてきたのだ。暑かったので上着を着ないでいて、ベストの浅いポケットに入れていたらしい。半分ほども頭を出すポケットだもの、ストラップで止めておかなければ落ちるに決まっている。呑気な人なのである。夫が旅行に出た朝、携帯の箱と説明書を片づけようとしたら、携帯を止めるピンが出てきた。2つ入っていたのだろうと思って、そのままにしておいたのだが、夫はそれが入っていないと思ってつけなかったと言う。おっちょこちょいでもある。会社へ出かけた夫から電話が入った。「携帯が見つかったよ。日光警察から電話があってさ。女の人が届けてくれたんだって。警察官もていねいで感じのいい人だよ。観光地だからかな」と感激が伝わってきた。よかった。
評論家の林達夫さんの旅行記を見つけたので、図書館から借りて読んだが、イタリアを旅行しながら珍しくナポリに足跡を残していない。旅行の目的がイタリアに限られていたわけでなく、あとスペインにも回っている。ホントウに見たかったのは、むしろ後者だったのかもしれない。(事実、林さんがスペインのフェリペ2世に、並々ならぬ関心を持っていたという証言がある。) あっしがこの本を手に取った理由の一つは、発行所が神田の「イタリア書房」であり、ここは若い頃よく立ち寄った書店であり、この本を読んで知ったのだが、経営者も、あっしの知っている初代はすでに他界し、代替わりをしていた。この本の変わった点は、書名が「林達夫・回想のイタリア旅行」でありながら、著者が田之倉稔氏になっていることだ。著者の田之倉氏は、旅行当時、フランス・イタリアで林さんらのドライバーの役を務めた。現在は演劇評論家として有名であり、著作では、マルコポーロ賞、蘆原英了賞などを受賞している。変わっているといえば、この旅のメンバーはごく私的な人選で、林達夫夫妻のほかは、この本の発行所である出版社、旧知の「イタリア書房」伊藤社長、同書店の大家さんの松本さんと、本を書いた、この田之倉さんの3人だった。始めから、大出版社には声を掛けなかったらしい。 本題からはずれるが、こういう旅もあると云うことで、とくに書き加えた。なお、林氏はその翌年、ふたたびヨーロッパを旅行しているようだが、あっしは、その行先をしらない。あるいは、その内にはイタリアも含まれていたのか。そして、 さすが大学者の旅は変わっている。フィレンツェのどこへ行ったかというに、これが薬草園。同書ではこの薬草園に、2章30ページ近くを費やしている。ここで驚くのは、イタリア語の専門家で、この本を書いている田之倉さんでさえ知らなかった、センプリチェ、つまり薬草園のイタリア語だが、これを林さんがすでに知っていたことである。また、同地の古書店で、これまた専門でもないのに、田之倉さんの欲しそうな演劇関係の本を、先に見つけて、田之倉さんに教えたりもしている。 ここでまた。お得意の脱線。逆にかの地で日本、日本人がどう映っているかも、なかなか興味あるテーマである。深くは立ち入らないが、きのうイタリア映画のラブコメディー「踊れトスカーナ!」を見ていて感じたこと。主人公の若い会計士。このひとの着ていたTシャツをみてビックリ。なんとそこには、漢字で「癇癪持ち」。思わず笑ってしまった。この監督は、はたして、漢字の意味を知っていてやっているのか。 それと、もうひとつ。この映画を注意してみていたら、こんなのがあった。「百武すい星」。で、調べてみると、彗星発見が1996年。映画の製作年も同じ1996年。ということは、当時としては超新しい話題を取り入れているということか。◎いずれにしても、日本がらみのものが一作に二つも出て来るというのは、やはりピエトラッチョーニ監督は、かなりの知日派だったのかも。 チョット不謹慎だが、この映画で、旅回りのフラメンコ一座のマネジャーが、トスカーナの片田舎で、車を降りて同乗の若い女10名を待たしておいてひとり悠々と道端で立ち小便をするシーンがあった。立ちなんとかは日本人の特権と心得ていたあっしは、ここでかれらに非常な親近感を覚えた。イタリア人と日本人、もしかしたら、どこかで繋がっているのではないか、と。(^^♪◎ 登場人物の一人が、テレビでこの彗星の存在を知ったと語っている。ただ、さすが、イタリア人らしく、監督はこれを実にうまく映画に取り入れている。主人公が首ったけのスペイン女が、興行上の理由で急遽帰国したので、ついに行ってしまったと嘆くが、それを聞いた相手が、即座に、心配するな、7万年後にはまた、きっと逢えるよと答える。ところで、 『文は人なり』ではないが、やはり映画作品でも、文学作品でも、作家や監督のひととなりが作品にばっちり反映されるのではないか、と。たとえば、同じ国の作家、アルベルト・モラヴィアの小説では、「ウタマロ」が出てきた。あっしは讀んでいて、日本人全体が好色なのではなく、書いている本人が、もともとそうではなかったかと思った。 ファッション界に材を取ったある娯楽小説では、たしか、「ヤマモト」というファッションデザイナーが登場していた。これなど、明らかに、山本寛斎をイメージしたものに間違いない。 選択は自由だが、もし日本、日本人を登場させるなら、なるべく良い役回りを切に願いたいものである。(^^♪○ 正確には、Giardino dei Sempliciというらしいが。 (終わり)
ケータイ電話は嫌い 2000.3体操が終わってから、仲間と食事をし、ビールも飲んだ。その帰り道、ほろ酔いの耳に、「○○が浮気してさー。………。電話番号消したよ。……。 土曜日… 」と聞こえてきました。対面から自転車でやって来た少年が携帯電話に向かっていたのです。自転車に乗りながらの電話は危ないこともさりながら、高校生に見えるのに、友だちの彼女の浮気を、声高に話しをすることに驚きを覚えました。 また、新横浜の改札口で後ろから、「もしもし、もしもし」と大きな声がしたときのことでした。何か落としたかな、と一瞬ドキッとしながら振り向いたのです。何とそこには携帯電話に向かって若い女性が、「もしもし、もしもし」と声をかぎりに叫んでいたのです。どのくらい言っていたでしょうか。やがてあきらめてエスカレーターを駆け上がっていきました。早く外へ出てもう一度かけ直す様子が見えました。よほど、「立ち止まって端へ寄り、かけたらどお。迷惑ですよ」と声をかけようと思ったのを止めました。面倒くさくなったのです。(つづく)
2003年に発行した「私の歳時記3」をめくっていたらこのような文章が載っていました。今は携帯電話などでなく、もっと最新型を使用している人が多いですが、私はまだまだそれらには目が向かないのです。1999年9月に書いたものです。そのつもりでお読みくださいませ。こんな時代があったことも思い出してください。。 ケータイは便利 1999.9突然声が聞こえました。『わたし』と思って振り仰ぐと、そこには「ケータイ」を耳に当てた若者が、3階の窓から身を乗り出していました。「もう少しまっすぐ歩いてきて、窓から手を振っているのが見えるから」と聞こえました。友人が訪ねてきて、歩きながら電話しているのでしょう。3階にいる若者からは、歩いている人が見えるようです。 2年ほど前のことでした。違和感を感じたのを覚えています。そして便利な時代になったと思う反面、むなしさも覚えました。最近は、道を歩きながら「ケータイ」で話している姿をよく見かけます。待ち合わせに使用して、かけあっていた2人がお互いに振り向いたら待ち人だった、なんていう光景にも出会ったことがあります。また、びっくりするような話をしているときもあります。若いころ、駅まで迎えに出て、チンチンと鳴る踏切りを越えてくる電車に乗った友人を待って、道々おしゃべりしながら我が部屋に迎え入れたこと。道路へ身を乗り出すようにして、バスで帰っていく弟夫婦を見送ったことなどを、なつかしく思い出しました。今は駅や、バス停まで出ずに、「ケータイ」で、「そうそう、○○○コンビニあるだろ、そこを右に入って、一つ目の角のマンション。上から見てるからさ。見上げて」なんて案内しているのでしょうか。味気ないと思います。とは言っても、私も「PHS」なるものは持っているのです。購入して3か月になりますが、あまり使用していません。使い方も完全にマスターしていないのには困ったものです。友人が何度か試しにかけてきてくれましたが、なかなか慣れずに、鳴っていても気がつかないことさえあって、「何してたの」なんてこともありました。その友人は「今、どこ。立ち止まって話して」とマナーの一から教えてくれました。 弟も仕事の関係から使用していますが、この人も友人と同様、マナーは絶対守るタイプなので、「電車に乗るからあとで」などと、断られてしまうときが多々あります。また私にとってワープロは便利なものです。FAXも役に立っています。「ケータイ」も便利といえるものになるでしょうか。次はパソコンです。 (つづく)
イタリア人についてどう書かれているか(もちろん、あっしの狭い見聞の範囲に留まるが、)。外国の文学作品では、イタリア人の評判が、すこぶる悪い。たとえば、ドイツ作家のホフマン☆彡は、その「砂男」の中で、登場人物にコッペリウスという怪しげな人物を使っているがそのあと、コッポラというのも出てくる。コッポラは実は、コッペリウスのイタリア語読みなのだ。更にご丁寧にも、誰がみてもイタリア人と思われるスパランツィーニという名前の、胡散臭い男まで、登場させている。☆彡チャイコの作曲で有名な「くるみわり」や、漱石が「猫」を書くとき参考にしたのではといわれている「牡猫ムル」も、彼の作品である。 アメリカのナサニエル・ホーソーンの「ラパチーニの娘」では、イタリア人に如何にもありそうなラパチーニという名の大学教授が、薬草の研究のため、じぶんの娘を実験台にし、最後には愛娘を死に追いやるという酷さだ。 アメリカの作家で毒舌家のマーク・トゥエインにいたっては、丸でボロクソだ。日本人旅行者だったら、恐らく誰でもが、一度は乗りたがる筈のあのゴンドラも、その色が気に食わなかったのか、立ちどころに縁起の悪い霊柩車に仕立てられてしまうし。ま、そう云われてみれば、満更似ていないこともないが…。(-.-) 日本の大作家の野上弥生子は、イタリアをどう書いているだろうか。彼女の旅行記「欧米の旅」をチョット覗いてみよう。 野上弥生子も昭和13年、夫の豊一郎に付いてイタリアへ行った、これはむしろ受動的な旅なのに、さすが大作家だけあって実によく観察しているのには驚かされる。 もちろん、この時はイタリアに留学中の息子の素一(本文では、単にSとなっている★)が案内に立ってくれたらしいので、おそらく説明が行き届いていたのか、弥栄子自身イタリアに興味が湧いたのか、同書☆の、半分までがイタリアの見聞で埋まっている。 ナポリでは、カステル・オーヴォ(卵城)のことが書いてあるが、当時は兵舎代わりに使われていたようだ。ヴェスヴィオを見た時には、故国の浅間山を思い出している。ポンペイでは、およそ2000年前の売春宿についての記述がある。この頃は「おんな読むべからず」というか、「見るべからず」の時代だったらしく、ご婦人連は外人を含め、外で紋句も云わずに旦那方の見物が終わるまで、外で辛抱強く、待ち続けていたらしい。 現在では、婦人でも遠慮なく室内に入って、自由に見物している筈だ。弥生子は、さらに別の家の番人から、およそ2000年前の、焼け残りの小麦と称する代物を買わされたらしいが、あっしの見たところ、これはどう考えても完全な偽物で、おそらく番人の臨時収入になったに違いない。このあと弥栄子は「そのイタリアは、ムッソリーニとファシズムですっかり大掃除が出来た」と、ファシズムを手放しで礼賛している。他の箇所でも、畑がよく整備されているのは、ムッソリーニのお蔭だと書いている。 また、イタリアの駅弁は、あっしらもミラノ駅で買ったことがあるが、この頃からもう既にあったようだ。その内容も、パンとハムとオレンジ、それにワインの小瓶。あっしらのと、寸分、変わってはいない。レストランで食事をするときも、店の人が客の顏を覗き込んでは絶えず「味はどうか、美味しいか」としつこく聞いてくるのも、あっしらの体験したことだし、突然店内の電気が消えてソルプレーザ(サプライズ)が始まったりするのも、何度も体験した懐かしい光景だ。 イタリア=ビンボーの公式でいえば、弥栄子はポンペイの項で、こんなことも、書いている。夏休みを利用してこの廃墟を、金持ちぞろいのアメリカ人に高額で貸出し、別荘代わりに使わせたらどうだろう、と。新しもの好きのアメリカ人のこと、きっとこの話に乗るに違いない。そうなれば、お互いの利益になるというが、この名所をアメリカ人に独占されては、方々から抗議の声が上がるだろう。また、家賃を払っていることを盾に、いわゆるアメリカ式に改築されたりしたら、もうポンペイの価値はなくなってしまうだろう。もちろん、イタリアではこの遺跡の維持管理に頭を痛めていることは事実だ。予算の足りないせいか、数か所で崩落が起こったという話をだいぶ前に聞いたことがある。 ナポリの話はたったの20ページ足らずなのに、その一方、ローマの記事になると、124ページ近くにも及んでいる。なぜこうも違うかといえば、それはローマが首都であること、古代ローマ時代の遺跡に富むことに尽きるわけだが、息子の留学先がローマ大学であったことも大きかったのだろう。☆ 欧米の旅(上)のこと。★ 素一は野上豊一郎と弥栄子の子で、イタリア文学者。ダンテや、ボッカチョの研究、翻訳で名高い。弟子に小松左京などがいる。2001年没。 また、芸術は爆発の岡本太郎の父、一平はどうとらえているか。それはかれの著「紙上世界漫画漫遊」に詳しい。一平は「婦女界」を主宰する都河氏の依頼で、記事を送信掲載することを条件に、世界一周の旅に出た。米英仏などの記事も面白いが、イタリアはスイスから、鉄道で、サンゴタール峠を越えて、ミラノから入って、ローマ、ベニス、ナポリ、ポンペイと歩いている。 彼の場合、記事はそれぞれ非常に短いが、もともと絵描きなので*、処々方々に挟んだ挿絵がまた、愉しい。 弥生子もそうだが、一平も旅行前、イタリアはドロボーの国という注意情報を、だいぶ聞かされていたらしい。ドロボーでは、食堂車へ行く客が、他の客に自分の荷物を預けていく。一平も預けられるが、外人の場合、受け取りに来た人物があずけた人と同一人物かの判定が付きにくい。同行の京都の縮緬屋さんに助けを求めると、縮緬屋さんも困って「さっきの人のようでもあり、泥棒のようにもおます」という答えがまた、何となく可笑しく、自然に笑えてくる。 一平のゴンドラについての感想。ベニスの代名詞のようなゴンドラにすんなり乗れて「一同にこにこする。」と正直だ。 ナポリでは、感想は短いが、まるで色の交響楽でも聴く思いで、夢見心地のような感想を述べている。ベスビオ山では、噴火口覗きも敢行。ポンペイでは、『小便無用』の掲示に祖国を思い、むかしのパン屋や、ガイドの案内で「ちょっと人前では話せぬ彫刻や絵画」まで、ちゃっかり鑑賞している。*自分自身、どこかに「画は最も判りよいエスペラント語である」と書いているくらいだ。かれのお手柄をひとつ紹介する。シスコで大ホテルのレストランに案内され、いざ注文となったが、生憎と通訳氏が他の客の世話で手が離せない。そこで一平さん、よおし、わっちが引き受けた、というわけで、ボーイを呼び、メニュー裏に蟹の絵を描き、ジス、ジスとやると、ボーイは一遍で客の注文を理解し、すぐさま旨そうな蟹料理を持って現れたという。さすがである。あっしの絵じゃあ、よくて貧弱なザリガニ、悪くすると、マムシかなんぞを、オッつけられるかも。(-.-) (つづく)