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[No.7337] 習志野ドイツフェアへ行く〜5 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/10/22(Thu) 23:00
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習志野ドイツフェアへ行く〜5
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 ドイツ人捕虜関係の展示は、自分で見つけました。それはステージのあるモリシア広場の前のモリシアビルの中でした。ここにもやはり、ステージがあり、そこで第九の合唱などがありました。その脇に、第一次大戦時の習志野俘虜収容所の、詳しい様子が、数十枚の写真パネルで展示されていました。

 よくもこんな古い写真が残っていたと、ビックリです。この収容所のドイツ軍兵士の数にも驚きます。説明板によれば、およそ1000人いたという話です。1000人もいれば、いろいろな技能を持った人たちが大勢いたとしても、べつにフシギではありません。

 で、捕虜の中に、ソーセージを作る技術を持った、職人がいることに目を付けた日本の農商務省によって、カール・ヤーン他の兵士が、日本人に作り方を伝授し、さらに同省が講習会などを通じて、普及に努めたので、それが次第に日本全国に広まったとあります。

それが、今からちょうど100年も前のことだと聞くとまた、ビックリです。

 それで、習志野市では同市を「日本ソーセージ発祥の地」と決め、声高らかに宣言したのであります。

当市ではさらに、広場の屋台で販売しているソーセージが、当時のレシピで作ったなどと宣伝し、屋台の幟旗にも、でかでかと書く紋だから、これが売れに売れて、本場のソーセージに負けず劣らず、ついに完売したということです。

 
 あっしは専ら、ドイツの屋台のものしか、食べませんでしたが…。(^^♪

 「習志野ソーセージ」の屋台は、習志野青年会議所が取り仕切っていたようです。

 なお、こうした日本国内の収容所には、捕虜を虐待したところもあったでしょうが、同収容所の所長の西郷寅太郎は、西郷隆盛の嫡子で、この人は独逸に留学経験があったので捕虜のことを、非常によく理解していたといいます。


[No.7338] Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/10/23(Fri) 21:47
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Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5
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当時、習志野俘虜収容所にいたハンス・ミリエスは、捕虜だけで男声合唱団や、交響楽団を作り、しばしば同所で演奏会を催した。

 ドイツの音楽学校を出た同氏は、第一次大戦で応召し、中国の青島(チンタオ)で日本軍の捕虜になった。その後上海交響楽団の指揮者兼コンマスをやったこともある。

 ミリエスは習志野にいた間に、作曲も手掛けたが、その頃の資料は長らく所在不明になっていた。ところが、およそ80年後の平成13年、偶然子孫の家で、ミリエス作曲の楽譜が見つかった。

「閉じておくれ 僕の目を」と云う曲☆で、これは伊地知元子編曲で、鮫島由美子さんが、習志野文化ホールのステージで歌った。これをNHKが取り上げ、全国放送したことから、全国で感動の渦が巻き起こった。

 写真。真ん中の台の上に立っているのがその、ハンス・ミリエスである。演奏者の服装はまちまちだが、中には水兵服を着ているものもある。ところで

 当時、この収容所内には、ヴァイオリンやギターを作る工房まであったという。これも、驚くべきことの一つである。(つづく)

☆10月17日「モリシア」センターコートで行われた、ドイツ音楽の調べでは、プログラムによると「第九」やドイツ民謡「別れ」などとともに、ミリエスのこの曲も演奏された模様である。


[No.7340] Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/10/24(Sat) 09:19
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Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5
画像サイズ: 322×430 (62kB)
上述したように、この捕虜収容所には(当時は俘虜と云ったが)、各方面の専門家が蝟集し、いわば多士済々の状況であった。

 その一例として、例えばこの絵、千葉の稲毛海岸の漁師の娘と云うことだが、実に上手に描いてある。顔は100年前にしては、すこしモダンな感じもするが、服装など、風俗資料としても立派だと思う。

 一見版画のようにも見えるが、謄写版かも知れない。当時は版画などの道具も手に入りにくかっただろうから。

 収容所の宿舎は、今から見れば、バラックのようなものだったが、意外なことに、東屋(かれらはLaubeと呼んでいた)とか、酒保などもあったという。


[No.7341] Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/10/24(Sat) 09:44
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Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5
画像サイズ: 327×450 (85kB)
モリシアビルのステージの脇、写真パネルの陰に隠れて、細長い机が二つほど出ていて、そこに年配のひとが二、三人いた。何だろうと近寄ると、机上に、こんなパンフレットが置いてあった。

 いきなりこんなものを出されれば、ドイツ語アレルギーのものは、途端に烈しい発作を起こすかもしれない。あっしとて、御同様である。


[No.7342] Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/10/24(Sat) 10:14
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Re: 習志野ドイツフェアへ行く〜5
画像サイズ: 297×410 (67kB)
発作の起きた方々も、今度の写真をみれば、どんなに激しい発作も、たちどころに止まること必至である。これは、千葉県は船橋市にある『千葉県日独協会』のちらしであった。この会は日独友好を旗印とし、大戦時の独逸人捕虜などの調査研究、ドイツ語の普及など、そのほか、さまざまな活動を行っている。

 あっしも、入会や、ドイツ語の学習を強く勧められたが、なにせこの歳ではと、尻込みするあっしに、われわれも学習者にも、年配のものが多いという説明を受けた。

 船橋、津田沼のご近所の方、ぜひ入会して、日独の友好にご活躍下さい。協会に成り代わって、お願い申し上げます。

 ドイツはいま、移民問題や、VWの不祥事に揺れ動いていますが、腐っても鯛であります。世界に冠たるドイチュラントとの友好は、今後とも欠かすことが出来ないと、あっしは愚考する次第であります。中途半端ではありますが、

 以上をもちまして、習志野ドイツフェア瞥見記を終わります。(完)

 (つけたり)

 なぜ、習志野市の話に船橋市が出てくるか。習志野というのは当時、現在の習志野市、船橋市、八千代市にまたがる広大な地域だったからです。