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[No.7692] ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/07/31(Sun) 12:28
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 6月の旅行でドロミテ方面(イタリア領)へ行ったとき、ドッビアーコ鉄道駅で写した写真です。

 これはよくある「ようこそ!」の看板ですが、3番目はおそらくラディン語でしょう。しかしラディン語と一口に言うのは簡単ですが、専門的になると、タイヘンのようです。あるサイトには、10の小さい集落と思われるところで話される、ラディン語の10の文例が挙げてありましたが、一つ一つが違っています。この辺りはおそらく深い谷が多いので、谷ごとに、異なる言葉が派生したのではないでしょうか。ところで、

 話者が極端に少ないのに、この言葉をわざわざ駅の構内に記すのには、一体どんな意味があるのでしょうかね。いや、むしろ、だからこそきちんと、記録する必要があるのかも。

 数年前に行われた調査では、ラディン語の話者は、ほとんどゼロに近いという報告もあります。


[No.7693] Re: ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/07/31(Sun) 12:50
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Re: ドッビアーコについて
画像サイズ: 427×570 (66kB)
ドッビアーコ駅の開業は1871年、日本では明治3年。ちょうど、わが国の鉄道開業とほぼ同じころだ。しかし、なぜここドッビアーコ駅の構内にマクシミリアン大帝の絵があるのか、あっしには分からない。

 ただこの絵は、アルブレヒト・デュ―ラーの描いた絵とそっくりなので大帝の絵とすぐ分かった。もっとも、彼はウィーン少年合唱団(のもと)を作ったり、結婚政策によって領土を拡大した功績だけでなく、wikiによれば、他民族の文化を尊重したり、言語の統一などに手を付けなかったというから、地方の山間の村でも、あるいは、絶大な人気があったのかも知れない。


[No.7694] Re: ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/07/31(Sun) 16:26
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Re: ドッビアーコについて
画像サイズ: 560×420 (70kB)
>  6月の旅行でドロミテ方面(イタリア領)へ行ったとき、ドッビアーコ鉄道駅で写した写真です。

肝心の写真を忘れました。(-_-;)歓迎光臨の下にあるのは、駅のベンチです。


[No.7699] Re: ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/08/01(Mon) 22:36
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Re: ドッビアーコについて
画像サイズ: 590×442 (82kB)
#7693にドッビアーコ駅は1871年に開業したと書いたが、この日(トレ・チーメ2999メートル)を見物して、バスで駅へ戻ると、駅構内にむかしの駅のモノクロ写真が展示してあった。まだ足場が掛かっているので、建築はまだ完全には終わっていないようだ。

 しかし線路は完成しているらしく、旧式の蒸気機関車が駅舎の前でけむを吹き出しているように見える。


[No.7708] Re: ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/08/03(Wed) 12:03
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Re: ドッビアーコについて
画像サイズ: 570×426 (84kB)
28年後のドッビアーコ駅。おそらく改築の駅舎のお披露目ではないか。近郷近在の村長や地元の名士などが、駅舎の前に、勢ぞろいしているように見受けられる。


[No.7709] Re: ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/08/03(Wed) 13:19
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Re: ドッビアーコについて
画像サイズ: 610×455 (70kB)
1910年(明治43年)には、石積みの駅舎は、ますます立派になった。前景の6頭立ての馬車は、中を窺い知ることはできないが、屋根付きの立派な車がつないである。窓はないので、人は乗ってないように思うが、一体何が、かくしてあるのか。農産物、ワイン?う〜ん、

 もう少し写真が鮮明なら、書いてある文字も判読できるのだが…。惜しい。

 駅名は「トーブラッハ」とドイツ語になっている。


[No.7710] Re: ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/08/03(Wed) 14:30
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Re: ドッビアーコについて
画像サイズ: 610×457 (78kB)
イタリアは第一次大戦時、最初はオーストリア=ハンガリー帝国と同盟していたが、その後、協商國側へと鞍替えし、1915年オーストリアに宣戦を布告した。

 不幸にしてドッビアーコは国境の町だったので、早速空爆の対象になった。それは1916年2月に始まった。しかも、オーストリア側の第一目標は鉄道の駅だった。従って写真に見る通りのことが起こった。もちろん、墓地や教会なども忘れられたわけではなく、7月の初めには、手りゅう弾によって破壊された。その後戦線は村外へ移ったが、オーストリア軍兵士が、そこら中大きな穴だらけで、木々もそこら中で、数え切れないほど、なぎ倒され、根こそぎになっていたと、記している。


[No.7711] Re: ドッビアーコについて 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2016/08/03(Wed) 14:56
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Re: ドッビアーコについて
画像サイズ: 590×442 (79kB)
日本で電化が終了し、SLが姿を消したのは、70年代と思うが、これは1960年(昭和でいえば、35年だ)。けむを出していないのでただ、置いてあるだけかもしれない。背景に街の建物が見えるので、撮影場所はドッビアーコ駅の付近と見られる。

 この写真はまだ鮮明で問題はないが、一番困ったのは、展示といってもおざなりで、文字による説明が全くなく、あっしの説明はすべて、ネットから苦労してかき集めた次第。折角やるなら、もうすこし親切にやってほしい。

  ドッビアーコ駅の説明は、以上で終わりです。