最近読んだ本で、著者が書きたいことが 出版社から拒絶されたことをとりあげて,書いてあった本です。
これを読んで思ったのは、戦時中に山本有三が「路傍の石」を書いていて 当局から何度も指導を受け、ついに絶筆してしまったことを思い出す。
戦後に自由にものが書けるようになって しかし、山本有三は「路傍の石」の続きが書ける状況になったのに もはや書く意欲がなくなったことを告白している。
あの緊張した状況の中で、書かねば,書きたいと思っていたが もはやそういう束縛がなくなったら、書く意欲も、書く意義もなくなったということだろうか。
戦争中は政府や軍部の協力記事を書いたA新聞は、戦後になって 意識的に反政府的な記事を書くようになったと言われている。
中国人留学生の某事件がある。 T大の留学生で、自分の民族の歴史書を日本に持ち帰ろうとして 出国直前に掴まり、いまだ中国に拘留中。 妻子は長い間日本で待っている。
しかし、この事件を日本の新聞はどこも取りあげなかったという。 中国に配慮して。
要するに中国に特派員を置いたりすることを拒絶されるから 自社の保身というところなのだろう。
全てのマスコミもスポンサーとか圧力団体の存在は無視できないのだろう。
日本はまだ自由にものがいえ、自由にものが書ける国だろう。
ロシアや中国には、そういう自由がない。 アメリカにはそういう自由がある。
曽野綾子:人生の選択 海竜社
著者の本の「まえがき」だけ集めた本
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「私日記」の連載は初めは気持ちよく仕事が進んでいたのだが、「サンデー毎日」の編集長の交代があってから空気も変わったのだろう。一九九八年五月十九日の部分は、どうしても載せられない、ということで、連載は中止された。
私は一九五四年から小説を書いてきているのだが、戦後の新聞が言論の自由を守ったなどというのは全くの嘘だということを体験として言うことができる。今またひとつ、ここに実例ができただけのことだ。
中国に関するいかなる批判もいけない、という姿勢は今から二十年前くらいまでははっきりと続いていた。産経新聞を除く全国紙から私が「干されて」いた期間はけっこう長い間だった。その間、社会主義に非人間的な匂いを感じていた私のような作家をどうにか書かせつづけてくれたのは、文藝春秋や新潮社などの、雑誌社系の出版物だった。
中国報道の偏向は突然止(や)まったが、その後も続いたのは差別語ないしは差別に関することがらに対する極端な「自粛」という名の圧迫である。
作家はいいことだけ書くのではない。私のように残る人生の時間を、「悪人」や、世間が「悪だという事柄」を書くことに当てたいと決心している作家は、そんなことを言われたら、文字(文学ではない)を書くことができなくなる。作家は悪魔を書く必要もあるのだ。
ただ私は、興味で悪を書くのではない。印象派の技法で言えば、光そのものを描くことはできないから、深い闇を描くことで、光を描きたいのである。
(このあと著者は、自費出版も考えて知っている出版社に相談した)
(結局、この棄てられた日記は、海竜社は「原稿の内容は、すべて書いた人の責任である」という判断で、「海竜社」から出された)
「サンデー毎日」が中断された後、私のところに「どういう原稿が拒否されたのか」という何人かからの問い合わせがあった。この本が出ると,私はやっとその報告もできるようになる。この日記の最後の章の、五月十九日の部分がそれである。載せられなくて当然と思う人と、こんな程度のものが載らないのかと思われる人と、どちらも自由に考えていただきたい。
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