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[No.19] 輸送船勝鬨丸の最後 投稿者:   投稿日:2011/08/11(Thu) 08:26
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 この記録は、高崎 廣様のご家族のご承諾を得て転載させていただくものです。

 「勝鬨丸」は、
  1920年 米国で進水、
  1924年 西回り世界一周航路に就航 するなど栄光の日々を過ごしたあと
  1941年 日本軍に拿捕された
  1942年 上海で日本郵船に貸下
  1944年 9月:海南島東方海域の南シナ海で米潜水艦パンパニトによって
        撃沈され、連合国捕虜431人を含む500人近い犠牲者を出し
  とその歴史を閉じました。

  「敵国アメリカ」から拿捕した船であり、アメリカによって轟沈された、
  しかも、轟沈によって多数の連合軍側の捕虜を道連れにしてしまった
  ーーーという「日米戦争」そのもののような船です。

  終戦から66年、その時代に生きた人間も、戦争に翻弄されましたが
  「船」だって、やはりこんな運命をたどったのですね。


  轟沈させられたときに、この船に乗っておられた高崎様の臨場感あふれる貴重な記録です。
  どうぞ、お読みください。


[No.20] こういうことも、あったのですね 投稿者:   投稿日:2011/08/12(Fri) 08:21
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 今日、掲載させていただいたなかに、こんなことが書かれています。

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  捕虜のオーストラリア兵も流れて来る
  彼等は救命胴衣は着けて居ない
  手を差し伸べてくるのを助け上げてやる。
  後から来た日本兵が上がれずにおこる、ゴボー剣で刺せと云うものも居る、
  面と向かった彼等を殺すことも出来ず、
  彼等は一かたまりになって浮かんで居る。
  元気付けの為に停虜連は歌を歌い始める、
  我々は今や原隊を離れた烏合の衆でそれを感心して聞いて居る。

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 竹山道雄氏の「ビルマの竪琴」の、オーストラリア版のようですね。
 どんな歌を歌ったのでしょうか。

 しかし、救助されたのは、ほんの一部で、
 大部分の捕虜は救命胴衣を与えられずに
 地下の船艙に居て犠牲になりました。