> 中岡洋編:「嵐が丘」を読む > http://www.kaibunsha.co.jp/books/view/80
この本を読むと 作者エミリ・ブロンテはキリスト教や聖書を否定しているように思われる。 ジョウゼフじいさんの口を借りて、キリスト教を皮肉っているようだ。
ロックウッドがネリーから聞いた話として物語は展開する。 つまり、ネリーという語り手が物語りを述べているのである。 ネリーが見たこと、感じたことを話しているので 真実とのギャップがあるのかもしれない。
しかし、話の中の重要な人物ヒースクリフが直接ロックウッドの前に現れて ネリーの話と矛盾がないことがロックウッドにもわかる。 もしかすると、ロックウッドはネリーの話す物語の中に 後から加わる登場人物になるかもしれないのだ。 話の展開で、ロックウッドは自分は傍観者のままで終わったことを知り、この地から去っていくことになるのだが。
話の導入部では ロックウッドが悪天候のため、ネリーの配慮で 樫の木のベッドのある部屋で偶然キャサリンの日記を見つけて 本文に関係のない書き込みが記憶のすみに残り その後に怖い夢(亡霊キャサリンの手)にうなされる。 この意外な展開は、この物語が大部分はネリーの語りからなっているが その物語と現実のロックウッドの体験、さらには ロックウッドの怖い話を聞いたヒースクリフの意外な行動とが 過去の話と現在の状況を結びつけ 時間の流れとそこに生きてきた人間のいとなみをリアルに感じさせる エミリ・ブロンテの高等テクニックなのであろう。
ヒースクリフ、ジョウゼフは人間嫌い、他人のことなど配慮する気はない。 どこか自閉症的である。それは作者のエミリ・ブロンテもその要素があったから 人間嫌いのヒースクリフを描けたのであろう。
ロックウッドやネリーは人間社会になんとか生きていける常識人だ。 エミリ・ブロンテも常識的に生きることは知っていたから なんとか我慢しながら当時の社会を生きていたのだろうか。
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