> > > 五木寛之:人間の覚悟 新潮社(2008) > > > > この本には > > 気になることが多々書いてあるのだが > > それをいちいち紹介するのは大変なので > > 少しだけ、できる範囲で、ここに書いてみよう。
1995年に阪神淡路大震災が起きたとき ボランティアとしてたくさんの人が被災地に向かった。
若い人たちの中には、骨を埋める覚悟で行くという人もいるほど熱気があったのに 地震から二、三年もたつと、その人たちが五木にこぼすようになったという。 「はじめは涙を流して喜んでくれた人たちが、そのうち慣れて小間使いのように 自分たちをこき使う」、「やってくれるのが当然という態度で、ありがとうの一言もない」など。
しかし五木はこう考える。 「それは君たちがまちがっている。そもそもボランティアというのは、最後は 『石もて追われる』存在であるべきなのだから」
最後にみんなから大きな感謝とともに送り出される、などと考えてはならない。 「もう帰っていいよ」と言われたら、「はいそうですか」と帰ってくればいい。 いい体験をさせてもらいました、ありがとう、と心の中でつぶやきつつである。 そう覚悟してこそボランティアなのだと五木寛之は言うのである。
やっぱりボランティアも、みんなから感謝されたいのでしょうね。 何のためのボランティアなのか。
こんなことも書いてありますよ。 ボランティアによく似た例として、革命家がある。 革命家というのは、チェ・ゲバラも毛沢東もほんとうに貧しい 最底辺の労働者や農民の子ではない。 どちらかというと良家の子弟がなるものなのだ。 父親がアル中で母親が借金で首が回らないような生活を見た子は 革命という理想に一生を捧げてもかまわない、とは思えないものだから。 ロシア・マルクス主義の父といわれたプレハーノフはレーニンに 追放され、ゲバラもカストロに対して身を引くような形で 最後は他国での革命運動の最中に処刑された。 結局、革命家というものは、最後は民衆に吊るされるか 「石もて追われる」か、次の権力者に追放されて失脚するのだ。 ボランティアも同じで、ほんとうに自らの身を投じて仕事すれば ついには追われるのは自然なのだ。
民衆に吊るされなくてもギロチンにかけられた人もフランス革命では少なからずいましたね。 石をもて追われるのはかなわんと逆襲して、文化大革命を起こしたのが毛沢東でしょうか?
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