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[No.706] 人間の覚悟 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/22(Thu) 16:31
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五木寛之:人間の覚悟 新潮社(2008)

終戦後の日本は復興と経済成長を続けまさに「躁状態」
そのあと今は「鬱状態」になったと著者はみなす。

毎年3万人の自殺者が出て、その状態が10年以上も続く。

これは異常だ。 こんな世の中では鬱になるのは正常で
落ち込まないで、元気のよい人は、どこかおかしいのではないか。
そんなことまで著者は考える。

この著者は何度か鬱状態に陥り、休筆というのは、そういうときに休む
生理的必要があったらしい。

それでも、なんとか鬱を脱出して、文章を書いている著者。

北杜夫といい、この著者といい、感覚の鋭い人は
一般人より先に世界の流れの先の兆候を感じるのだろうか。
それで人より早く鬱になる?


[No.723] Re: 人間の覚悟 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/23(Fri) 10:31
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> 五木寛之:人間の覚悟 新潮社(2008)

この本には
気になることが多々書いてあるのだが
それをいちいち紹介するのは大変なので
少しだけ、できる範囲で、ここに書いてみよう。
  (いま使っているパソコンは悪評OSのせいか使いにくいので)

野口晴哉の「風邪の効用」によると
下痢と風邪は体の大掃除で
体のバランスが崩れかけたときに風邪や下痢をすることで
平衡を回復するのだという。

下痢をし終えた後とか、風邪を回復してクリアした爽快さは
それ以前の不快さから解放された格段の気持ちよさがある
と五木寛之は述べる。

ただし
こじらせてはダメで、きれいに風邪をひいて、上手に回復させないといけない。
 野口晴哉は六十代で亡くなったが、その理由を伊藤桂一から、病弱だった野口が野口式を実践したからそれほど生きられたのだと五木は教えられる。


[No.724] Re: 人間の覚悟 投稿者:   投稿日:2011/12/23(Fri) 10:48
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> > 五木寛之:人間の覚悟 新潮社(2008)
>
> この本には
> 気になることが多々書いてあるのだが
> それをいちいち紹介するのは大変なので
> 少しだけ、できる範囲で、ここに書いてみよう。

著者の朝鮮半島時代の体験から、国家というものは国民よりも国家そのものを大切にすると考えている。
 一般の国民は、政府の指示に従って市内にとどまっていた。
 しかし、高級軍人や高級官僚たちとその家族は、家財道具を山のように積んで
 平壌駅からどんどん列車で南下していった。
 一般市民は言われたとおりおとなしくしていたところへ、やがてソ連軍が入ってきて
 家は接収され、みんな難民収容所のようなところへ押し込められ苦労した。

それ以来、著者五木は、地震や津波が来たりして政府が「動くな」と言ったらすぐ逃げるつもりだし
逆に「逃げろ」と言ったら動くまいと思っている。
  (福島原発のことで、この三年前の五木寛之の言葉を考えると、それもありかと思ってしまう)

どれだけ国を愛していても、政治のシステムが民衆を最優先にするとは考えないし
たとえば新型インフルエンザは心配ない、と言われたら逆だろうと考えるという。

似たようなことをある人から聞いたのだが
国の政策で八郎潟の干拓をした農民がそのうち米あまりで
米を作るなと政府に言われたり
政府の政策にしたがってはじめた酪農家が、苦労して牛を増やして幸福になるどころか借金地獄に陥ったことなど
それを話してくれた人は
政府や県庁のお役人の言うことを聞いてはいけない、むしろ反対のことをしたらいいと笑っていました。


[No.726] Re: 人間の覚悟 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/23(Fri) 11:29
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> > > 五木寛之:人間の覚悟 新潮社(2008)
> >
> > この本には
> > 気になることが多々書いてあるのだが
> > それをいちいち紹介するのは大変なので
> > 少しだけ、できる範囲で、ここに書いてみよう。

1995年に阪神淡路大震災が起きたとき
ボランティアとしてたくさんの人が被災地に向かった。

若い人たちの中には、骨を埋める覚悟で行くという人もいるほど熱気があったのに
地震から二、三年もたつと、その人たちが五木にこぼすようになったという。
「はじめは涙を流して喜んでくれた人たちが、そのうち慣れて小間使いのように
自分たちをこき使う」、「やってくれるのが当然という態度で、ありがとうの一言もない」など。

しかし五木はこう考える。
「それは君たちがまちがっている。そもそもボランティアというのは、最後は
『石もて追われる』存在であるべきなのだから」

最後にみんなから大きな感謝とともに送り出される、などと考えてはならない。
「もう帰っていいよ」と言われたら、「はいそうですか」と帰ってくればいい。
いい体験をさせてもらいました、ありがとう、と心の中でつぶやきつつである。
そう覚悟してこそボランティアなのだと五木寛之は言うのである。

やっぱりボランティアも、みんなから感謝されたいのでしょうね。
何のためのボランティアなのか。

こんなことも書いてありますよ。
 ボランティアによく似た例として、革命家がある。
 革命家というのは、チェ・ゲバラも毛沢東もほんとうに貧しい
 最底辺の労働者や農民の子ではない。
 どちらかというと良家の子弟がなるものなのだ。
 父親がアル中で母親が借金で首が回らないような生活を見た子は
 革命という理想に一生を捧げてもかまわない、とは思えないものだから。
  ロシア・マルクス主義の父といわれたプレハーノフはレーニンに
 追放され、ゲバラもカストロに対して身を引くような形で
 最後は他国での革命運動の最中に処刑された。
  結局、革命家というものは、最後は民衆に吊るされるか
 「石もて追われる」か、次の権力者に追放されて失脚するのだ。
 ボランティアも同じで、ほんとうに自らの身を投じて仕事すれば
 ついには追われるのは自然なのだ。

民衆に吊るされなくてもギロチンにかけられた人もフランス革命では少なからずいましたね。
石をもて追われるのはかなわんと逆襲して、文化大革命を起こしたのが毛沢東でしょうか?


[No.745] Re: 人間の覚悟 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/24(Sat) 09:13
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> > > > 五木寛之:人間の覚悟 新潮社(2008)

> > > 気になることが多々書いてあるのだが
> > > それをいちいち紹介するのは大変なので
> > > 少しだけ、できる範囲で、ここに書いてみよう。

アミニズムとシンクレティズムの可能性
 私たち日本人は、実はとても宗教的な民族なのである。
日本人が心性の深いところで持っているもの、それが
アミニズム(精霊信仰)とシンクレティズム(神仏混淆)の二つである。

アミニズムは最も原始的な人間の信仰のかたちであるといわれてきた。
自然界のあらゆるものに霊魂や精霊が宿り、何らかの意思を
もたらしていると考えるのである。
一方のシンクレティズムは、ことなる宗教や崇拝対象を
自在にミックスさせてしまう多神教的な信仰形態で
家の中に神棚もあれば仏壇もあることが、一神的な考え方からすれば
おかしいといわれてきた。

明治以来、日本の知識人は概してこの二つを日本の恥とみなして
きたようである。

しかし、ヨーロッパの根底にあるギリシャやローマの文明が
そうであったように、ユダヤ教やキリスト教が成立する前の
初期の宗教というのは、基本的に多神教だったのである。

著者の五木寛之は、これから先の世界は、キリスト教や
イスラム教のような原理主義的な一神教ではもう持続して
いけないのではないかと考える。
 むしろ多神教的な、さまざまな信仰や崇拝のかたちが
共生し、混在する世界を考えるべきではないか、そう考えると
日本人が自ずから持っているシンクレティズムは、これから先、
平和的な世界をつくっていくうえで非常に貴重なことではないだろうか。

神仏習合は近代日本の恥だと考える必要などない。
そもそも信仰は習合するものであって、キリスト教にしても
ドイツにはドイツのプロテスタント、イギリスにはイギリス国教、
アイルランドにはアイルランド・カトリック、イタリアでは
ローマ・カトリックという具合に、地元の信仰と必ず習合している。
 (ギリシア、ロシアにはそれぞれ正教がある)

純粋な原理主義的一神教では、「我らの信じる神以外を信じるな」
という姿勢になるが、日本人が宗教において保ちつづけている
シンクレティズムの感覚は貴重なもので、世界に広がっていく必要
こそあれ、けっして恥ずべきことではないのだと五木は考える。

むずかしい理屈や教養など知らなくても、日本人には昔から
自然に対する畏れがあり、雷も雷様と「様」をつけ、風神雷神と
あがめたのである。
これから先の地球環境の問題を考える上で大切なのは、二酸化炭素
の排出量取引ではなく、自然全体に生命を見る姿勢なのではないだろうか。

ヨーロッパやアメリカ流の自然保護というのは、これ以上空気や水を
汚して森を破壊すると最も大事な人間の生活がもたない、人間を
守るために自然を濫費しないようにしようという考え方が根底になっている。

しかし、それではもうだめなのではないだろうか。
そうではなくて、草木の一本、一石、一草にも虫にも動物にも心があり
魂があり、仏性がある。森にも山にも命があると考える日本人の
伝統的心性こそ、環境について考える上で根本的大転換をもたらす
新しい思想として現代に大きな価値を持つのである。

 先進国でありながら日本人が今なお備えているアミニズムと
シンクレティズムの感覚は、人間にとって貴重な資産として
この国の未来を支えていくものかもしれない。

この五木寛之の
日本人のアミニズムとシンクレティズムの感覚に近いことを
あの宗教学者の山折哲雄も述べています。
 この柔軟なかつ自然との神道的共鳴感覚、これが日本人の世界観の特徴であろう。
 神道は日本古来のものであり、一種のアミニズムともいえる。
  ........
 天地万物に神が宿るという考え方。みようによっては多神教、あるいは汎神教。
  ..........
 この日本教にひそむ多元的価値の「共存」ということを考えるなら、
 最近の地球環境の問題やエコロジーの思想にみられる「共生」は
 まさに日本の宗教世界における多元的思想の共存の伝統の正当性を
 認めることにはならないだろうか。

 地球上では、宗教や民族の違いによる紛争や戦争がおこっている。
 外国の宗教ではそれらの争いは解決できないようである。
 少なくとも攻撃的な自己主張をする宗教は、21世紀をみちびく宗教
 たりえなくなっているように思われる。
   (一神教をふりかざすから戦争は絶えない。他の宗教との共生がこれからは必要ではないか)
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/11-semi5/wforum.cgi?no=743&reno=742&oya=742&mode=msgview

だいぶ理屈っぽくなりましたが
長年考えていたことが少し整理できたような気がします。