画像サイズ: 550×541 (68kB) | 札幌の山鼻公園に 赤い靴の歌碑ができました。
> 母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。 > > 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。 > > 母親は、娘が宣教師夫妻に伴われ渡米して,今頃は幸せになっているよと、(きみちゃんの)妹に話して聞かせました。 > > かよによれば、夫の鈴木志郎と野口雨情は札幌の新聞社に勤めていて、家族どうしの交際があったのです。 > (すくなくとも、小樽では鈴木志郎と野口雨情と石川啄木は同じ新聞社に勤務していました) > > アメリカに渡った娘の話を野口雨情に話をしたら、野口雨情があの「赤い靴」の歌を作ってくれたのだと母親は思っていたのでした。
(赤い靴のモデルのきみちゃんの母親)岩崎かよから 話を聞いた野口雨情が「赤い靴」の歌を作ったという説にもとづいて この山鼻公園の歌碑ができたようです。
> ◎ ◎ > きみちゃんの義父鈴木志郎と野口雨情は、実は意外な接点があったのです。 > 若き日の野口雨情は、「労働世界」、「社会主義」に明治35年から明治36年まで社会主義詩6編を発表しています。 > 「社会主義」は「労働世界」を改題したもので、片山潜が名目上の発行・編集人でした。
> いっぽう、「平民農場」は日本社会党の関係者の深尾韶たちが真狩村に土地を購入しはじめた開拓村で、社会主義やキリスト教に関心のあった鈴木志郎も参加したのです。 > きみちゃんの母親岩崎かよは、一緒に暮らす戸籍上の父親がキリスト教の信者で、この父親の意志もあって「平民農場」の開拓に取り組んだのです。
> だから、野口雨情や鈴木志郎や岩崎かよが札幌で会ったとき、いろいろな共通点があり同志的な語らいがあったのではないかと推察されます。 > そして、当時としては危険思想だった社会主義については、なるべく彼ら自身は口外しなかったのでしょう。 だから、彼らの結びつきは秘密にしておきたかったかもしれません。 |