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[No.4405] ユーレイルパスを持って 1 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/12(Sat) 12:51
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ユーレイルパスを持って 1
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 その前年に行った「はじめての一人旅・ヨーロッパ旅行」で、すっかりヨーロパに魅せられてしまった私は翌年もJATAの手枷足枷から逃れた「より自由度の高い旅」を求めて情報を探していました。
 そんなときに「耳寄りな話」がありました。
 たしか、当時はまだ「交通公社」と呼ぶ人もあった「JTB」が、画期的な「ヨーロッパ旅行」を企画している、との話なのです。
 
 すなわち、パックツァーなのですが
  鉄道旅行のための「ユーレイルパス」と、
  宿泊のための「ホテルクーポン」
  ルフトハンザでの羽田⇔フランクフルト往復の航空券
  (まだ成田空港はできていませんでした)
 が、セットになっていて、
  これらをもって、ドイツ・スイス・オーストリアという比較的治安の良い国3カ国をお客さんが自由に回ってきてください、とう趣旨の企画です。

 特に気に入ったのが「ホテルクーポン」が「ロマンティックホテル・グループRomantik Hotels & Restaurants」を対象としていたことです。

 おまけに、到着日の簡単な説明会と半日観光がついていました。
 そこで、このツァーで1978年6月25日から、7泊8日の旅に出ることになったのです。


[No.4406] ユーレイルパスを持って 2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/13(Sun) 06:53
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ユーレイルパスを持って 2
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 ああ、まだ「ロマンティックホテル・グループ」のことをお話していませんでしたね。
 「ロマンティックホテル・グループ」は当時出来上がったばかりのホテルチェーンで
  ・チェーンとか系列下に入っておらず、独立している中規模のホテルで
  ・あるじが自分で仕切っていること
  ・歴史のあるホテルで、その歴史を大切にしていること
  ・割烹旅館であって、美味しい郷土料理が食べられるレストランを併設していること
  などの条件があり
  ヨーロッパの、主としてドイツ語圏を中心に、2−300軒くらいのホテルが加盟していました。

 メリットとしては、クーポン券綴りを使い切るとオマケが付いたり、泊まっているホテルで次に泊まる予定の観光地の加盟ホテルを探し、テレタイプやFAX(まだインターネットの登場前でしたので)で予約をしてくれるサービスがありました。
 
 いまも活動はやっていますが、やや衰退気味です。無理もないです。若い世代がこの手のホテルを使わなくなったこと、由緒ある古いホテルの多くは老朽化が進んでいることです。でも改築のための資金が調達できず、結局、大企業に傘下に入ってしまうことか多いからです。残念です。
  
 画像にあるホテルのように、郵便馬車の時代から続いているホテルも少なくありませんでした。


[No.4407] Re: ユーレイルパスを持って 2 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/03/13(Sun) 11:49
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 >  画像にあるホテルのように、郵便馬車の時代から続いているホテルも少なくありませんでした。

ロマンティック・ホテル・グループというのは古いんだね。1409年創業と云うから、日本で云えば応永16年、足利満兼という室町時代の武将が死んだり、イタリアではヴェネツィア共和国が健在で、ドージェの、G.モチェニーゴが生まれたり。

http://www.hotel-alte-post-wangen.de/
 


[No.4409] Re: ユーレイルパスを持って 2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/14(Mon) 07:57
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唐辛子 紋次郎さん

> ロマンティック・ホテル・グループというのは古いんだね。1409年創業と云うから、日本で云えば応永16年、足利満兼という室町時代の武将が死んだり、イタリアではヴェネツィア共和国が健在で、ドージェの、G.モチェニーゴが生まれたり。

 はい。とくにこの「ヴァンゲン・イム・アルゴイ」のホテルは郵便馬車の時代からずっと、ファミリービジネスとして続いています。現在も健在のようです。


[No.4412] Re: ユーレイルパスを持って 2 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/03/15(Tue) 10:01
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>  はい。とくにこの「ヴァンゲン・イム・アルゴイ」のホテルは郵便馬車の時代からずっと、ファミリービジネスとして続いています。現在も健在のようです。

このホテルについて『ゼア・グート』と書いてあるので、やはり評判がいいんだろうな。たしか、街の中心からわずか100メーターだとか。

 http://www.booking.com/hotel/de/romantik-alte-post.de.html?aid=330462;label=metatripad-link-exithjp-hotel-72741_xqdz-4205f5ac0d93a7086ae358cbca5c135d_dom-de_curr-XXX_clkid-Vuda2woQKzoAALjxaWAAAAAY;sid=a48044963747d22fc448a45ffe4650bc;dcid=12;dist=0&sb_price_type=total&type=total&utm_campaign=jp&utm_content=dom-de&utm_medium=exith&utm_source=metatripad&utm_term=hotel-72741&


[No.4408] ユーレイルパスを持って 3 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/14(Mon) 07:51
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ユーレイルパスを持って 3
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 何故か、この旅の機中の様子は未だに忘れられないのです。
 エールフランスや、英国航空は、当時から多民族型でしたが、ルフトハンザには、日本人とドイツ人が圧倒的に多かったせいか「ドイツらしさ」があふれていました。

 最後尾の座席をあてがわれたこと。アンカレッジまでの飛行の長かったこと。アンカレッジ空港という不思議な空間。機内食のハンバーグにかけてあったソースのスパイスの香り。日本のドイツ料理のお店では気付かなかった香料。この強烈な香りは(といって悪い匂いではないのですが)飛行機という狭い空間のなかに着陸まで残っていました。
 白いドイツワインのあっさりとした味わい。黒くて固いドイツパンとチーズ。
 
 「トットットッ」と後部座席に伝わる鈍いエンジンの音。うとうとしかけると「ピンポーン」という乗務員連絡の電話の音が。寝静まった薄暗いキャビン。
 夜行列車の記憶とも違う「何時もと違う夜」の記憶です。

 真面目そうなスチュワデスさん。サービスしてもらうたびに「Thank you」と小声で言うと、都度「You are welcome」と小声で律儀に答えてくれたこと。

 そんな長いフライトも終わり、眠い目をこすりながら、フランクフルト空港についたのでありました。
 この絵葉書は、座席のポケットに入っていたものです。


[No.4410] ユーレイルパスを持って 4 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/15(Tue) 08:36
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ユーレイルパスを持って 4
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 さて「JTB・初の公認個人旅行者?」へガイダンスをしてくださった方は、大学院で哲学を勉強しておられる方で、まあ、バイトとして引受けて下さったのでしょうが、ちょっとお話を伺っていて「只者ではない」と感じました。
 たまたま、グループにドイツ語の分かる人がおられて、その方のお話では、フランクフルト観光の中心地「レーマー広場」まで、マイクロバスで送ってくださった運転手さんが「あのガイドの話すドイツからみて、すごく品格と教養のある人と思える」と語っていたそうです。
 
 ユーレイルパスのバリデートの仕方なども、一緒に駅へ行ってくださって、実地で教えてくださったほか、お昼には、屋台で焼きソーセージを買う方法、それに立ち食いの仕方まで教えて下さいました。

 写真はレーマー広場の木組みの家、


[No.4411] Re: ユーレイルパスを持って 4 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/15(Tue) 08:37
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Re: ユーレイルパスを持って 4
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 40年前の写真、大聖堂を前に立つ若き日のマーチャンです。


[No.4413] ユーレイルパスを持って 5 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/16(Wed) 07:36
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ユーレイルパスを持って 5
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 説明会のあとは、バラバラに行動します。といっても「完全な一人旅」という人は2人だけ。あとの方は、家族連れだったり、小さなグループでの行動だったり、という方々。またヨーロッパに住む家族や友人を訪れる方などでした。

 当時のドイツは、国も、首都であったベルリンも東西に分かれていました。
 したがって、魅力的な街道や、小都市はたくさんあるのですが、「パリ」や「ロンドン」のような、いわゆる観光の目玉になる街がなかったのです。
 ですから、鉄道パスとホテルのクーポン券を渡して「好きなところへ行ってください」というのは正しいやり方だったと今でも思っています。

 私は、まず、いわゆる「ロマンティック街道」(正しくは、「ローマ巡礼の街道」ですが)へ行くことにしました。もともとはローマ人たちが作った道で、ローマへの道路網の一環として整備されたものなのですね。しかし「すべての道はローマに通ずる」わけですから、「ローマ街道」だったらヨーロッパじゅうにたくさんあるわけです。それを観光名所として売りだすのには「ロマンチック街道」というのは恰好のネーミングだったと思います。特にアメリカ人のお気に召したようです。


[No.4414] ユーレイルパスを持って 6 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/17(Thu) 07:57
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ユーレイルパスを持って 6
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 途中、ローテンブログでのバスの休憩時間を利用してローカル色豊かなお店でお昼を頂いたり、ディンケルスビュールでは塔の上にあがって、どなたかにシャッターを押していただいたり、と40前の私は結構やっていたのですね。
 どこから情報を手に入れていたのでしょう。

 当時は「地球の彷徨い方」なんて本は存在していませんでした。
 しかし、アーサー・フロマーさんというアメリカのお方が「ヨーロッパ1日10ドルの旅」という本を書いてくださっていて、これが個人旅行者必携の書となっていたのです。
 このシリーズ、確か、1983年くらいで途切れてしまいました。
 なんでも、このシリーズは世界的に大いに売れ、フロマーさんはだいぶ儲けられた。そしてそのお金で立派なホテルを建てた。そのホテルが当時のお金で、一人一泊一万円以上もするというので、だいぶ話題になりました。
 フロマーさんの本と「地球の彷徨い方」との違いは、前者が著者と奥さんの体験に基づいて書かれていたということです。ただ、何分にも著者はアメリカ人ですから日本人の趣味や価値観とは一致しない部分もありましたが。
 いまはオーストラリア人のトニー・ウイラー夫妻の創めた「Lonely Planet」が世界的に人気と信頼を得ています。
 もっとも、いまは、たいていの情報がネットで入手できますので、それほどガイド・ブックは必要ないのです。それでも旅行に関する本を読むのは好きです。読むと元気になれます。
 というわけで、当時のマーチャンは、アウグスブルグでヨーロッパバスを降りて市内を見物し、列車でミュンヘンに無事到着「Hotel Drei Loewen」にチェックインしたのでした。

 なぜ、アウグスブルグへ?ということですが、ここは「モーツアルトのおとうさんの郷里」であるばかりでなく、15−16世紀の富豪、フッガー家が貧民救済のために建設した、現存する世界最古の福祉施設フッガーライ(低所得者向けの住宅団地)を見るためでもあったわけです。


[No.4415] ユーレイルパスを持って 7 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/18(Fri) 06:40
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ユーレイルパスを持って 7
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 なんとなく憧れていたアルゴイ地方へ

 有名観光地へも、もちろん行きたかったのですが、私にとってこの旅ならではの「目的」は、よくわからない知らない町を訪ねることでした。そのひとつが「オットーボイレン」でした。「なぜ、そんなところへ?」とお思いですよね。この町の僧院は「ギッド・ミシュラン(ミシュランの旅行案内版)」のドイツ版では「三ツ星」だったからです。

 南ドイツらしいみどりの野山が展開する車窓にみとれているうちにメニンゲンに着きました。  
 ここから、バスに乗ったような気がするのですが。いずれにせよ、歩いているうちに「行き方」がよくわからず、早速迷いました。「どうして、そのミシュランのガイド・ブックとやらで行き方を調べてこなかったの?」とおっしゃるのですか。ミシュランは本来、タイヤの会社です。ですから、このガイド・ブックもクルマで旅をなさる方のためのものです。列車だのバスだのそんなダサイ乗り物については、まったく言及していないのです。

 場所柄か、通りで尼さんを何人か見かけました。お年を召した尼さんへ「行き方」を伺いました。といっても、ドイツ語はわかりません。「ビッテ」といって、地図をご覧に入れて「僧院」の場所を指差しただけです。
 尼さんは、私の手を引っ張って十字路に連れて行き、行き先を手で示してくださいました。「ダンケシェーン」といいますと「グリュスゴット」と言ってにっこり微笑みかけてくださいました。
 この「Gruess Gott!」という挨拶、その後、オーストリアや南ドイツのカソリック信者の多い地域でよく耳にしました。「グーテンターク」より柔らかい響きでした。

 ベネディクト派の古い僧院ですが、2つの塔が、私を出迎えくれました。
 なかは、まあ、お寺なのに、なんて明るいのでしょう。宮廷のようなロココ調のキンキラキンです。それまで、見てきたたくさんの大聖堂のゴシックの重厚な作りと全く違うのにびっくりしました。この僧院、ものすごく広く、立派な庭園もありました。

 そうなのです。知らない町にも、すごい修道院や、北ドイツとは違う挨拶の仕方などの「文化」があったのです。
 ああ、だから「旅」は止められないのです。


[No.4416] ユーレイルパスを持って 8 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/19(Sat) 08:08
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ユーレイルパスを持って 8
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 オットーボイレンからは、リンダウへ行きました。
 ここも、ヨーロッパでは、とても人気のある観光地なのです。
 リンダウは、ボーデン湖(Bodensee)という、ドイツ、スイス、オーストリアに囲まれた湖の岸辺の町のひとつで、ドイツ領です。
 というより、江の島みたいに、道路と線路(線路は江の島にはありませんが)で本土と繋がっている島の部分に観光の見どころが集中しているのです。
 湖の向かい側はスイス領、すぐ左側はオーストリアとなっています。
 観光船は、国境に関係なく、琵琶湖の2倍近い大きさのボーデン湖をめぐっています。

 国境を越えるというと、羽田や、横浜の大桟橋しか思い浮かばなかった私のような、絶海の孤島から来た旅行者には、とても不思議な風景でした。
 
 もう一つのカルチャーショックは、観光客のみなさんが、湖を見渡せるベンチに腰掛けて、何時間でも「ボケッ」としておられることです。たしかに「風光明媚」な場所でいくら眺めていても退屈しませんが。
 「気ぜわしい」と言われる日本人の中でも、さらに「お忙がし」の私は、島自体がまさに中世の歴史の博物館といわれている町中をうろうろしたり、土産物屋さんを冷やかしたり、コーヒーショップでお茶を頂いたりと、活動的に、楽しい半日を過ごしました。


[No.4417] ユーレイルパスを持って 9 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/20(Sun) 07:54
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ユーレイルパスを持って 9
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 その晩は、ヴァンゲン・イン・アルゴイ に泊まりました。
 ここは当時からあまり知られていなかった町です。
 「なぜこんなところに泊まったの?」ってお思いになりますよね。
 理由のひとつは「Romantik Hotel」チェーンのクーポン券の使えるホテルが、リンダウの近くにはなかったためです。
 もう一つは、この地域の「牧歌的な環境」を絶賛した文章を読んだことがあったからです。
たしかに、リンダウからヴァンゲン・イン・アルゴイに行くバスは、のどかな牧場を通っていきます。
 そして、写真でご覧いただくように、バス道を、家路をたどる「牛さんたち」と「牛飼いさん」がのんびり歩いている。こうなったらバスは「ご一行さまのお通り」をひたすら待っているしかない、こんな長閑な風景が40年前のドイツで見られた、そんな町だったのです。

 しかし、ヴァンゲン・イン・アルゴイは中世・近世には、産業・交通の要所として、この地域ではそれなりの町だったのです。
「ポスト・ホテル」の存在がそれを示しています。

 町の広場で郵便馬車の御者が高らかに「ポストホルン」を鳴らして到着を告げます。聞きつけた町の商人などが集まってきて「手紙」や「種類」「商品」などを受け取ります。また当時の郵便馬車はお客さんも乗せていたのですが、そのお客さんたちは「ポスト・ホテル」に泊まります。
 東海道五十三次の「宿場町」みたいな場所だったのですね。
 写真ではご覧になりにくいのですが、この突き出し看板には「郵便馬車」が彫ってあるのです。

 先祖代々、ファミリービジネスとして「旅館」を経営していた人たちは、こうして今もまだ「ホテル」をやっています。そういう人たちを組織化したのが「Romantik Hotel」チェーンなのです。


[No.4418] ユーレイルパスを持って 10 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/21(Mon) 08:17
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ユーレイルパスを持って 10
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 さて、次の日は、リンダウへ戻り、列車でオーストリア、チロル州の州都である山岳都市インスブルックへ向かいます。マーチャン自身による、当時の記録がありますので、読んでやってください。

 ――――――――――――――――――――――

 国際急行列車トランス・アルペン号の発車まで、まだ一時間近くもある。ホームには人影もまばらであった。肌寒いのに初夏の日差しのまぶしいベンチに腰をおろして、東京のオーストリア政府観光局でもらったチロル州の地図を広げる。可愛いいイラストのたくさん入った楽しい地図であった。
 すると、頭のテッペンから甲高い声が聞こえてきた。ドイツ語は、皆目分からない。が、「まあ、面白い地図だこと。ちょっと見せてよ」といっているようだ。頭をあげると六十才くらいのオバサンがいた。
 二人でベンチに並んで地図を見る。
 オバサン、今度は、駅構内で機関車の付け替え作業をやっている青い上っ張りを着た駅員に声をかける。多分「ねぇあんた、面白い地図があるわよ。チロルの地図よ」と言っているらしい。
 二十才くらいの駅員もやってきて地図を見る。「ほら、スキーを履いた男の子のいるところかザンクト・アントンだ」なんていって喜んいる。私が地図の一角を指差して「ここがチロルね」というと「違う。ここはチロルなんかじゃあない。ここ、フェルトキルヘは、フォア・アルベルグ州だ。チロルは、あの山並の向こうなんだ」と駅員。(ちょっと意味が通じなかったようだ)。  
 「そうよ。チロルはあっち。とっても、いいところなの」とオバサンがいう。
 そして、何とオバサンは、声高らかに、歌いだしたのだ。意味は分からないが「麗しき我等が故郷、それはチロル」ーーーというようなリフレインのある歌らしい。青年駅員も唱和する。
 二人は腕を組み、カラダをゆすりながらハモッているのであった。
 その声を聞いて、駅舎から駅長さんらしき人が現れた。歌なんかうたっている駅員を叱るのかと思いきや、ニコニコして眺めているだけであった。
 筆者は、羨ましかった。こんなに自分達の故郷を愛し、誇りに思っている人達がいるなんてーーー。チロルは、なんと幸せな土地であろう。
 同時に、筆者は、この時改めて、「チロル」、いな「オーストリア」、いな「ヨーロッパ」の魅力にとりつかれたのである。

 写真は、オーストリア国鉄の車体。重そうな機関車(峨々たる山の多いこの国の鉄道には不可欠な存在です)。国際特別特急に乗るには、追加の料金が必要。切符などすべて手書きでした。


[No.4419] ユーレイルパスを持って 11 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/22(Tue) 06:07
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ユーレイルパスを持って 11
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 「アルプスの谷間を国際列車は行くよ」

 さすがに、発車時刻が近づくと、駅員はコーラスをやめて機関車付け替えの作業にもどった。乗車駅、フェルトキルヒ駅のホームもだんだん混んできた。そして特急列車トランス・アルペン号は定刻通りにホームに姿を現した。
 インスブルッグまで行くという、さっきのオバサンに引率されて乗り込む。
 「ここへ来なさい。ここが列車の乗口に一番近いから」という意味のことをドイツ語でのたまう。私が、ドイツ語がわかるか、わからないか、そんなことは一切お構いなし。自分のいいたいことをおっしゃる。
 不思議なもので、言っていることは分からないが「言わんとすること」はなんとなくわかる

 めずらしく列車が混んでいた。六人掛けのコンパートメントは何処もかしこも一杯なのである。 
 オバサンがやっと二人分の空席を見つけてきてくれる。
 コンパートメントのなかには
   イタリア人の坊さんーーフードつきのこげ茶色の僧服を着て
              腰に荒縄のようなベルトをしている。
   フランス人の青年ーーーいつも本から手を離なさないやせた背の高い青年。
   スイスの女の子ーーーー中学に入ったばかりとのこと。
   オランダ娘ーーーーーー旅行大好きのOL。
 ーーーそして、くだんのチロルのオバサンと私の六人がいる。
 役者が揃っている。これは面白そうな展開になってきた。
 何か面白そうなことが起こりそうだ。

 列車は、チロルの谷間を走っている。


[No.4420] ユーレイルパスを持って 12 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/23(Wed) 06:29
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ユーレイルパスを持って 12
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 外は肌寒いくらいなのに、コンパートメントのなかは相当な暑さでジャケットを脱いでもまだ暑い。どうやらヒーターの故障らしい。ははぁ、だから空席があったんだなーーー。
 ーーーまず、オランダ娘が車掌さんを呼んでくる。人の好さそうな熟年の車掌さんは、しばらく、ガタガタあちこちいじっていたが両手を広げて「だめだ。手におえん」というようなジェスチュアーをすると行ってしまった。
 オランダ娘は、また、コンパートメントを出ていった。戻ってくると、駄目駄目とばかりに首を振っている。どうやら空席を探しに行ったようだ。
 坊さんが乗り出してきた。背の高いフランス青年に、ヒーターの目盛りを調べるように言う。メーターをはずしてしまえと盛んにジェスチユアーで指示する。青年はドライバーのようなものを持ってこいと言っているようだ。オバサンがカバンからハサミのようなものを出してくる。
 国際協力体制による作業の結果、なんとかヒーターはとまった。全員ほっとして席に着く。

 坊さんが冗談を言う。イタリア語らしい。インスブルッグのオバサンがドイツ語に通訳する。つぎにスイスの女の子が、笑いながらフランス語にする。フランス青年が笑う。さらにオランダ娘が英語で説明してくれる。筆者が笑う。最後にもう一度、全員で笑う。
 笑い声を乗せた列車はフォア・アルベルグからチロルへと入っていく。
 国際列車での意志の疎通には手間がかかる。でも、なんとか全員に通じたときの喜びは、これまた、国際列車ならではのものである。
 そしてこのとき、筆者は、もう一つ、決心をした。とにかく一ケ国語でいいから、ヨーロッパの言葉を身につけたい。かれらと、多少なりとも話が通じれば、旅はもっと楽しく、さらに実りの多いものになるはずーーー。という訳で、あれ以来、英語をぼつぼつやっている。けっして上手にはならないが、拙いものであっても、やはり、やらないよりは、はるかに増しである。

 窓の外にはチロルの牧場がつづく。その向こうにはアルプスが銀色に輝いている。オバサンが「こっちを振り返ってごらん、アルベルグ峠ですよ」と教えてくれる。坊さんが「あっちをごらん。あのずっと向こうにブレンナー峠があるのだよ。モーツアルトもゲーテもあの峠を越してイタリアへ行ったのだよ」という。
 チロルに入るとトンネルか増え、登りも急になる。途中の駅で後尾に、もう一台、機関車つないだようだ。まさに「機関車が先引き、機関車が後押し、何だ坂、こんな坂」の世界であった。
 そして六人の期待を乗せたトランス・アルペン号はインスブルッグを目指してひたすら走るのであった。


[No.4421] ユーレイルパスを持って 13 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/24(Thu) 07:29
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ユーレイルパスを持って 13
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 そうこうしているうたに、列車は、チロル州の州都「インスブルック」へ着きました。
 ここは、人口、わずか13万人ですが、オーストリア東部の観光の拠点でもあり、2度も冬期オリンピックの開催地になった街です。
 また、オーストリアとドイツ、イタリアを結ぶ交通の要所でもあります。
 14世紀よりハプスブルク家の支配下に入ったとありますが、ハプスブルク家は此処からそう遠くない、ライン川の上流のバーゼルの近くの出身なのです。ハプスブルク家の歴史を名古屋弁で書いた本がありましたが(面白かったぁ)、ヨーロッパの片田舎から出てきて、ヨーロッパを征服・統治した、日本の戦国武将みたいな人だったのですね。ただ、あまり戦争はしなかった。

  Bella gerant alii, tu felix Austria nube.
  戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ。

 と、せっせと婚姻政策でまつりごとを進めていた。これも、豊臣秀吉なども盛んに使った手ですよね。

 インスブルックは、マクシミリアン一世の時代には一時「みやこ」として栄えたのですね。その頃の文化遺産が、観光の目玉となっています。とくに黄金の小屋根はイスブルクのランドマーク的な存在です。

 下記は「チロル州政府観光局、日本担当デスク」からの最近の情報です。
――――――――――――――――――――――――――――――――
 ここでチロルの観光業界で有名になったジョークを1つ皆様にご紹介いたします。
 なぜチロルでテロが起きないのか!?それには3つの理由があります。
  1. チロルでテロを起こしても被害が大きくなく、政治的打撃も小さい。
  2. チロルでテロを起こしても世界中のメディアが注目してくれない。
  3. チロルでテロを起こしても現地の人達がテロだと気づかない。
 もちろん将来何が起こるか分かりませんし、油断は禁物です。しかし、このジョークを読めば、いかにチロルが安全で現地の人々が安心して生活を営んでいるかが分かります。
――――――――――――――――――――――――――――――――
  今の世の中「安全」それ自体が「商品」なのですね。
 というわけで、インスプルックに一泊して、市内見物をしました。
 そうです。人並みに黄金の小屋根 ホーフガーデン アンナの塔 凱旋門などを見たわけです。

 街なかはなかなかおしゃれですが、街なかを外れると、田園的な、チロルの牧歌的な風景が広がっていました。
 インスブルックは、ノルトテッケから吹き下ろしてくる、すっきりとして、爽やかな風のもと「散歩道」もたくさんある、私の大好きな街です。


[No.4422] ユーレイルパスを持って 14 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/25(Fri) 06:41
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ユーレイルパスを持って 14
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 インスブルッグの宿の思い出も「昔の記録」でご覧ください。

 ――――――――――――――――――――――――――

 その晩は、ロマンティック・ホテルチェーン加盟の「ロマンティック・ホテル・シュバルツァー・アドラー(黒鷲ホテル)」に旅装をといた。
 そしてここのダイニング・ルームで早めの夕食にかかっていたときであった。もちろんここも料理には力を入れていて、お味も、なかなかよろしい。ウエイター氏は「今夜は特にお酒をサービスさせていただいています。なにがよろしいでしょうか」という。そう言われても「お酒についての『違いのわかる女』ではない」。「お勧めは?」と尋ねると「チンザノかキャンティーなどいかがでしょうか」といってくれる。オーストリアはワインには自信を持っているはず。でも、イタリアとの国境に近いインスブルックではイタリアのお酒が「お勧め」のようだ。さっそく藁苞に包まれた瓶を持ってきた。

 そこへ、いかにも、農村出身らしい中年のアメリカ人夫婦が入ってくる。彼らはドイツ語のメニューと格闘している。「セットメューのウィンナー・シュニッツェルはなかなか美味しいですよ」と声を掛ける。すると、彼らはただちにウエイターを呼び「あの日本人と同じものを注文したい」という。「アメリカから?」と聞くと「よくぞ聞いてくだされた」とばかり、せきを切ったように話はじめる。

 そして「そうだ。われわれと合流しませんか」というなり、私のテーブルの上の料理、ナイフ、フォークの類までどんどん自分たちのテーブルに運びだしたのである。
 ーーー「そうなんです。われわれ新婚旅行なんです(何回目かは聞いていない)。まあ聞いて下さい。われわれの目的地はイタリアだったのです。ところがイタリアでひどい目にあいましてね。今日急遽、予定を変更して、インスブルックへきたのです。イタリアでは、予約していた宿が、最近値上げがあったとかで、予約時の三倍近い宿賃をとるし、買物をしたら偽物をつかまされるし、家内は財布をすられるし、もう散々でした。
 これだけの話を英語の苦手な私に分からせるために、彼は大汗をかきつつ手振り身振りで説明し、宿屋の請書、領収書までならべて15分くらいかかって話をした。
 つづけて「しかしどうでしょう、この宿は。清潔だし、きれいだし、正直だし。宿賃も、びっくりするくらい安いんですね。その上食前酒をサービスするなんてイタリアでは考えられないことです」ーー。」
 アメリカさんが興奮してしゃべりつづけているうちに、くだんの食前酒がパンかごと共に彼らの前におかれる。彼は自分と奥さんのグラスを満たすと、筆者のグラスにも入れてくれた。そしてグラスをあげると「神よ、正直なるオーストリアの人に祝福を」といってグラスを口にした。
 筆者は、その時、まだイタリアの土をふんでいない。その後、幾度も行くことになるのだがーー。イタリア人のすべてが、ウソツキでドロボーでないことはよく分かっている。しかし、いかにも田舎者らしいこのアメリカ人夫婦からイタリア人が存分に巻き上げたであろうことは想像に難くない。(いまは、イタリアの旅館は、各部屋の壁へ「この部屋は繁忙期はいくら、その他の季節はいくら」と宿賃を明記したものを貼り付けている)が、ここオーストリアであれば、もう安心。宿屋の値段はインフォーメーションで聞いてきた通りだし旅人をだます不届き者などめったにいないず。女性だけでも安心して旅ができるのである。心安らかに、飲み、かつ食らい満足したアメリア人夫婦は寄り添うように、自分の部屋へもどっていった。


[No.4424] ユーレイルパスを持って 15 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/26(Sat) 08:00
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 さて、いよいよ最後の宿泊地、ガルミッシュ・パルテンキルヘンへ向かって列車で移動します。
 ガルミッシュ・パルテンキルヘンも、冬期オリンピックを開催しました。
 町の名前が、こんな長ったらしいのは「町村合併」によるものです。
 インスブルックから、ミッテンヴァルド、ガルミッシュ・パルテンキルヘンを経由してミュンヘンに至る路線は「トーマス・クック」ご推奨の「景勝ルート」のひとつです。ここを通らない手はありませぬ。
 
 ここでも、列車は山また山の上り坂をガンガン登っていきます。
 車窓からは、雪山・岩山・渓谷が間近に迫って見えます。迫力があります。
 乗ってすぐ、列車はドイツ領に入ります。あまり景色が素晴らしいのでミッテンヴァルドで途中下車し、少し歩いてみました。

 ここばかりではありませんが、南ドイツの町や村では「家の壁のフレスコ画」が素晴らしいのです。この町も、あのゲーテをして「生きた絵本」と絶賛されていたのですよ。

 しかし、まず、ミッテンヴァルドといえば「ヴァイオリンの町」です。
 17世紀に、マティアス・クロッツさんというヴァイオリン職人さんがイタリアのクレモナで20年間修行して帰国。この町にヴァイオリン工房を作り、みずから制作に励む傍ら「ヴァイオリン学校」を作って後進の指導にあたっていたのです。
 いまでも、世界中からここへ、ヴァイオリン制作修行にくる若者が絶えないそうです。
 
 そうそう、モーツアルトは、このマティアス・クロッツさんの作ったヴァイオリンを持っていたそうです。


[No.4425] ユーレイルパスを持って 16 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/27(Sun) 07:19
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 ガルミッシュ・パルテンキルヘンでは、写真のホテルに3泊4日いつづけました。
 いいホテルだったのです。家族営業なのですが、ドイツ版「おもてなしホテル」だったのです。

 たとえば食堂。ここは夏でも夜になると気温が下がります。
 台所から、食堂にお料理を持ってくると途中で少し冷めてしまうのです。そうすると、鉄板ごと食堂にある真っ赤に焼けているレンガ状のものの上に置き、ジュージューいうまで温めなおしてくれるのです。
 料理ですか? この辺りは「豚肉料理」が多いのです。やはり、郵便馬車の時代から、ずっと割烹旅館をつづけているだけに、お味もなかなかよかったです。
 そして、お給仕役のオカアサン、オネエサンも、家族のように接してくれました。
 「そうそう、そのお肉を、こうやってソースに浸して食べるともっと美味しいのよ」。と言葉は通じませんが、手振り身振りで教えてくれます。

 当時は「大きな焼豚の塊」や「ウインナーシュニッツェル(仔牛や豚のカツレツ)」という料理などを一人前ぺろりと完食していたのですね。いまも「ガッツリ食べるマーチャン」と言われていますが、それでも、さすが若い時ほどは食べられなくなりましたよ。完食は無理そうです。
 
 オトウサンも、親切で朝、出かける時など、その日の行き先についての「行き方」「見どころ」など丁寧に教えてくれました。オトウサンは英語も話せました。
 このオトウサン、朝はレセプションに、カウンターの上に、コーヒーと黒パンを持ってきていて、むしゃむしゃ食べながらお客さんの相手をしていました。それも、また家庭的で家に入りました。

 いまは、もうありません。こういう個人経営の宿屋や食堂が減りつつあるのは日本も同じですね。


[No.4426] ユーレイルパスを持って 17 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/28(Mon) 07:49
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 ガルミッシュ・パルテンキルヘンは、ウインタースポーツのリゾートとして有名ですか、作曲家リヒャルト・シュトラウスが晩年をこの地で過ごした町でもあります。彼はこの町の名誉市民の称号も受けています。街にはリヒャルト・シュトラウス博物館もあるようです。私は行きませんでしたが。
 また、日本にファンの多いミヒャエル・エンデ(最後の奥さんは日本の方です)の出生地でもあるのですね。

 しかし、なんといっても、ここの観光の目玉はドイツの最高峰「ツークシュピッツェ」です。
 この町から、バイエルン・ツークシュピッツェ鉄道で頂上まで登れるのです。
 標高ほぼ3000メートル。(正確には2962メートルとなっているようですが、正確な高さは長い間論争の的になっていたようです。ドイツ人らしい!)
 ドイツとオーストリアの国境にありますが、ドイツとしては最高峰です。というより、ドイにはあまり高い山がないのです。南側の、ヨーロッパアルプスに接しているところ以外では、魔女伝説で名高いハルツのブロッケン山となるのですが、たった、ここの標高は1,141メートルです。

 とにかく、「ツークシュピッツェ」の頂上からの眺めが素晴らしいのです。

 では、ご一緒に、「ツークシュピッツェ」へ参りましょう。
 行きは、ガルミッシェ・パルテンキルへンから直行。帰りは「アイプ湖」を回って帰りましょうね。


[No.4427] ユーレイルパスを持って 18 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/29(Tue) 06:44
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  山頂につくと、目の前に広がる迫力のある景色に圧倒されました。
 手に取るように見える峨々たる岩山、抉られたような氷河の跡などにいたく感動して、当時貴重だったカラーフィルムを、大いに消費してしまいました。そのくせ、ろくな写真は撮れていませんが。

 日本で、3000メートル以上の山へ行ったのは、乗鞍岳(3190メートル)だけでしたが、乗鞍では「目の前に圧倒されるような岩山が迫る」という感じはありませんでした。
 
 このツークシュピッツェの山頂が、ドイツのバイエルン州とストリアのチロル州の国境になっています。

 頂上のレストランは、国境の上にあります。
 当時は、確か「調理場」と「ダイニングルーム」の間に国境があると聞きましたが、確かなことは分かりません。建て直したようですが、その後はどうなったのでしょう。

 まだ「ユーロ」なんていう便利な通貨はありませんでしたから、こういう旅をしていると何度も両替をしなくてはならず面倒でしたが、この「国境のレストラン」では「ドイツマルクの方は、〇〇マルク」「オーストリアシリングの方は××シリング」と書いてあって、どちらでも使えるようになっていました。


[No.4428] ユーレイルパスを持って 19 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/30(Wed) 06:43
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 お友だちができた

 幸いお天気が良かっので、レストランのテラスでお昼にしました。
 お山のてっぺんでも、暖かい食事ができて、お値段も平地と変わりませんでした。
 食事をすませて、ぼんやり景色を眺めていますと、家族連れが雪山を背景に記念撮影していました。ご主人のほうが私の存在に気になったらしく「お一人ですか。シャッターを押してあげましょうか」と英語で声かけてくださったのです。 旅行のガイドブックには「人にカメラを渡すと、そのまま、カメラを持ち逃げする人がいますから気をつけましょう」と書いてありましたが、人の良さそうな方々に見えたので、お願いしました。(持ち逃げすると言っても、ケーブルカーに乗らずに、雪山の急斜面を疾走するのは命がけです。私のカメラは命と引き換えにするほどのものではありません。安物です)

 そのあと、奥さんとのツーショットを撮るなど、写真を撮ったり撮られたりの交流が続きました。
 お互いに家に帰って現像したら、自分のカメラに入っている相手の写真を送りましょうということで住所を交換しました。

 メモを見ますと、ライン川に沿ったドイツ西部の Pfalz地方にお住まいのご一家でした。
 住所にある Germany / West という国の表し方に時代を感じます。東西ドイツが合併したのは、この10年後です。
 その後、しばらく文通をしていたのですが、旅行の後、体の調子が悪いと言っておられたご主人がガンで亡くなられ、そのまま文通も間遠になり、途絶えてしまいました。


[No.4429] ユーレイルパスを持って 20 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/03/31(Thu) 08:23
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 帰り道、アイプ湖へ行きました。この湖の名前、おなじみなのです。
 なぜですかって? 実は、私はエーリッヒ・ケストナーの愛読者だったのです。私の年代の人には「ケストナー・ファン」は多いのですよ。
 だって、「エミールと探偵たち」のエミールも、「ふたりのロッテ」のルイーゼも、おかあさんはシングルマザーで、ワーキングマザー。細腕で、子どもを養っています。子どももおかあさんの苦労がわかっている。それでも明るく元気な母と子の物語です。

 当時、戦争で大勢の男性が亡くなった日本でも、未亡人となったおかあさんが必死で働きつつ子育てをしている家庭が多かった。おかあさんの苦労がわかっている子どもが多かったのです。
 そんな子どもたちの共感を読んだのですね、きっと。

 この「ふたりのロッテ」のなかに、おかあさんのケルナー夫人が、苦しい家計をやりくりして、ルイーゼを一泊旅行に連れて行くくだりがありました。
 ガルミッシュからバーダー湖へ、そしてアイプ湖へ。
 アイブ湖をみたルイーゼは「まるで神さまがちょいとつばをはいたみたいね」とうっとり見とれている。湖で泳いでから、おかあさんはホテルでコーヒーとお菓子をご馳走してくれました。
 ルイーゼにとって、こんな楽しい経験ははじめてでした。

 私も、アイプ湖を見ながら、何度も読んだ、このシーンを反芻していました。私も幸せでした。


[No.4430] ユーレイルパスを持って 21 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/01(Fri) 06:54
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 牧師さんとの出会い その1

 翌日、ガルミッシェ・パルテンキルへンのホテルを後にしてミュンヘンに行きました。
 すっかりお友達になったホテルのオトウサンが荷物を持って駅まで送ってくれました。
グローブのような大きな手と握手して分かれました。

 その日は、ミュンヘン市内を見物して、翌日「フレスコ画に彩られたオーバーアマガワ」「リンダーホーフ城」をみて来るつもりでした。
 しかし、当時からローカル線は本数が少なかった。なんとか6時45分発の列車に乗りたい。しかし、いくら朝の早いドイツでも、朝食は6時半から。ああ折角の朝食が食べられない。でも、ダメモトでレセプションのオネエサンに頼んで見ました。「じゃ、6時に用意しましょう」と言ってくれました。

 翌朝、広い食堂の隅のテーブル2つに、明かりが灯り、コーヒーカップとお皿が置いてありました。隅のテーブルには、すでに誰かが座っていました。挨拶をしますとその方は「お一人なら、こっちのテーブルにいらっしゃい。ご一緒にいただきましょう」と声をかけてくださいました。みれば、牧師さんの服を着た60歳くらいの方でした。「アメリカのコネチカットのルーテル派の教会の牧師をしています」と自己紹介されました。「仕事でヨーロッパへ来たついでに「キリストの受難劇」で有名なオーバーアマガワへ行きたいと思いまして」と説明してくれました。


[No.4431] ユーレイルパスを持って 22 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/02(Sat) 06:48
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 牧師さんとの出会い その2

 「ああ、コーヒーのお代わりはいかがですか。お注ぎしましょう」といってくださり、話は続きます。
 私は、日本の方が好きなのです。小さい時に母が亡くなりまして、私は乳母に育てられたのですが、その乳母が日系人だったのですね。立派な人でした。毎年、母の命日には、花輪を持って一緒に母の墓に参ってくれました。
 いえ。私は、スエーデン系です。が偶然ですが、娘が、いま、ニューヨークで日系企業の日本人社長の秘書をしています。どうも、日本にご縁があるようです。
 ―――などと、僅か30分の食事時間にいろいろな話をしました。

 私は英語はダメなのですが、だいたい「牧師さん」や「小学校の先生」などの方は、ゆっくり、はっきりお話になり、都度、相手の反応を見ながら、別な言葉に置き換えたりしながら話を先にすすめてくださるので、とても助かりました。

 そして、住所を交換して分かれました。
 そのあと、手紙のやり取りをつづけていましたが、あるとき「あなたは、ヨーロッパが好きなようだが、一度アメリカへ来てみなさい。粗末な家ではあるがよかったら牧師館に泊まってくれてもいい。ヨーロッパから、アメリカから、そしてアジアから世界を見ると、立体的に世界が見えるかもしれないから」とありました。翌年、厚かましくも夏に休暇をとって一週間ほど牧師館にステイしました。その時のことも、また書かせていただきますね。

(写真は、そのあとで行った、オーバーアマガワの町です)


[No.4432] ユーレイルパスを持って 23(終) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/03(Sun) 07:36
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ユーレイルパスを持って 23(終)
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 ユーレイルパスを持って 23

 ホテルをチェックアウトして、ミュンヘンから、ローカル線でオーバーアマガワまで。
 このあたりも、オーストリアとの国境に近いのです。
 ここは、10年に一度「キリストの受難劇」を村人の手で上演することで有名です。 
 このイベントは、17世紀、ヨーロッパに壊滅的な被害をもたらした「ペスト」の被害がこの村では少なかったことに感謝してはじめたもので、それ以来ずっと続いているのですね。(この10年に一度というのがいいですね。次は2020年にやります)。
 この村の特色はもう一つ、木工細工―――置物や鳩時計などの産地としても有名です。いまでも職人さんたちの手づくりと聞いいます。
 そして、昔は村で作った細工物を行商しながら、行先の町や村で「僕達、来年、受難劇をやります。どうぞ見に来てください」と宣伝して歩いたのですって。

 続いて行ったリンダーホーフ城は「ルートヴィヒ2世が建設した城の中では唯一、完成した建造物」と言われていますが、知名度から言うとリンダーホーフ城より「ノイシュヴァンシュタイン城」のほうが有名です。
 ベルサイユのトリアノン宮殿をお手本にして建てられたこのお城は、ロココ様式で1878年に完成しました。ルイ14世に心酔していたルートヴィヒ2世。―――城内はフランス風でした。
 対人恐怖症で、発達障害があったと言われているルートヴィヒ2世はここで空想の世界に生きていたのでした。たった一人で、からくり仕掛けのある食堂で架空の晩餐会を楽しんいたルートヴィヒ2世―――お城のなかは豪華、環境も素晴らしいだけに、余計に「哀れさ」を感じてしまいます。
 「自分が死んだら、この城は壊してくれ」という遺言は無視されて、現在も、世界中からたくさんの観光客が集まってきています。
 この有様をみたら、きっと彼は頭をかきむしって「やめてくれっ。みんな帰ってくれ」と叫ぶに違いありません。

 1977年の私の旅もこれで終わりです。そしてこの旅からも、たくさんのすばらしい経験をもらうことができました。

 次は翌年1978年の「ウィーンと、そこからの旅」をお送りします。


[No.4433] Re: ユーレイルパスを持って 23(終) 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/04/03(Sun) 10:08
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そんな昔の切符(お城の入場券かな?)が、破れはしていても、チャンと取ってあるのはスゴイことだね。(@_@。

 あっしなど、1年もたたないうちに行方不明。云ってみれば、マーチャンの家は、国立でこそないが、私立の古文書館みたような紋だね、

>  次は翌年1978年の「ウィーンと、そこからの旅」をお送りします。

 楽しみにしてます。(^^♪


[No.4434] Re: ユーレイルパスを持って 23(終) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/03(Sun) 18:45
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唐辛子 紋次郎さん

> そんな昔の切符(お城の入場券かな?)が、破れはしていても、チャンと取ってあるのはスゴイことだね。(@_@。

 はい。なんでもスキャンして保存しています。
 
 下手な写真より、こっちのほうが思い出になります。

>  あっしなど、1年もたたないうちに行方不明。云ってみれば、マーチャンの家は、国立でこそないが、私立の古文書館みたような紋だね、

 はい。私、メロウ伝承館の世話役ですから。どうしても「保存」が好きなのです。

> >  次は翌年1978年の「ウィーンと、そこからの旅」をお送りします。
>
>  楽しみにしてます。(^^♪

 ありがとうございます。ご期待ください。