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[No.4435] ウィーンとウィーンからの旅 1  (1978年5月) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/04(Mon) 09:25
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ウィーンとウィーンからの旅 1  (1978年5月)
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 「ウィーン! ベートーベンもシューベルトも歩いた街」

 「今年こそ、オーストリアをよく見てこよう」。フランクフルトで日本から乗ってきたルフトハンザから乗り換えたオーストリア航空の機内で、はやる気持ちを抑えながら、濃いウインナ・コーヒーとパイ菓子を味わう。
 エコノミークラスであっても手抜きをしていない、機内食離れした味わいに、ハプスブルグ家七百年の文化を感じる。
 眼下の緑の広がりのなかをドナウ川が蛇行しているのが、機内からよく見える。ドナウは五月の午後の日差しを受けて光っていた。飛行機は、この流れを追いかけていく。そして、ウィーン、シュヴェヒャート空港へと下降していく。

 ウィーンでは、ケルントナー通りをちょっと入ったアンナガッセのホテル・カイザー(現存していない)を予約している。まったく小体な宿で、レストランも持っていない。簡単な朝食だけはロビーで食べられる。
 アンナガッセはウィーンの旧市街らしい落ち着いた横丁で市内の喧騒をまったく感じさせない。この宿に決めた最大の理由は「国立歌劇場(シュタート・オーパー)」から近いこと。
 夜、オペラがハネてから、暗い道を女(一応のつもり)が一人で歩くのは避けたい。
 歌劇場から眼と鼻のところにあるこのホテルなら安心なのである。
 
 早めに床につく。興奮しているせいか、なかなか寝付けない。窓の外はひっそりとしていて、古い町並みだけが続いている。ふとベートーベンやシューベルトが、角を曲がって、こっちにやってくるーーそんな錯覚にとらわれる、ウィーンの五月の宵であった。

 写真は、今回の「足跡?」とオーストリアの鉄道のフリー切符です。


[No.4436] ウィーンとウィーンからの旅 2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/05(Tue) 06:41
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ウィーンとウィーンからの旅 2
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 小鳥の声で目が覚める。旧市街にも小鳥はいるのです。
 さあ、この日は貴重な日曜日、音楽の街ウィーンでこの日曜を目一杯楽しみたいとの計画を胸のうちにホテルのテラスで、朝食を楽しむ。
 ウィーンはコーヒーも美味しいが、独自のパンの数々も楽しい。芥子の実がまぶしてあるゼンメル、ザルツシュタンゲンという岩塩をまぶしたパン。ゾンネンブルーメンというひまわりの種がまぶしてあるパン。どれも噛みしめると味のあるパン。食べながら今日の手順を考える。

 朝は、ホーフブルク王宮礼拝堂(ブルクカペレ)で、ウィーン少年合唱団・国立オペラ劇場合唱団が歌うミサに列席。すぐさまウィーン楽友協会へ行き、ポリーニとカール・ベーム指揮、ウィーンフィルの「エンペラー」の当日売りの行列に並ぶ。夜は国立歌劇場で「トスカ」を見る。
という相当厳しいスケジュールを立てていたのであった。


[No.4437] Re: ウィーンとウィーンからの旅 2 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/04/05(Tue) 10:50
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マーチャン、こんにちは。

>  ウィーンはコーヒーも美味しいが、独自のパンの数々も楽しい。芥子の実がまぶしてあるゼンメル、ザルツシュタンゲンという岩塩をまぶしたパン。ゾンネンブルーメンというひまわりの種がまぶしてあるパン。どれも噛みしめると味のあるパン。食べながら今日の手順を考える。

 音楽もいいけれど、あっしは花より団子の口。カイザーゼンメルは知っていたけれど、ゾンネンブルーメンだの、ザルツシュタンゲルとなると、食べた記憶がない。

 オーストリアのパンというのもなかなか、奥が深い。ネットで見ると、ツォッフという、髪の毛の形をしたパンもあるらしい。

 ウィーンへ来て、ウィーナ―・コーヒーを下さいというと、笑われるというが、ヴィエナー・ブリオッシュ・キプフェルという名のパンは、実在する。すこし前、ひとつだが、

 なにか楽しそうな名前のパンを発見した。ワッハーワ―・ライプヒェンで、これさえ頬張れば、どんな機嫌の悪い人でも、たちまち愉快になって笑い出しそーだ。

 耳より情報:東京の神田須田町に、オーストリア王家御用達のパン屋があるらしい。
屋号は、『ホーフベッカライ エーデッガータックス』で、ここへ行けば上記のパンは、だいたい手に入るようだ。


[No.4438] Re: ウィーンとウィーンからの旅 2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/05(Tue) 18:10
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唐辛子 紋次郎さん

>  なにか楽しそうな名前のパンを発見した。ワッハーワ―・ライプヒェンで、これさえ頬張れば、どんな機嫌の悪い人でも、たちまち愉快になって笑い出しそーだ。
>
>  耳より情報:東京の神田須田町に、オーストリア王家御用達のパン屋があるらしい。
> 屋号は、『ホーフベッカライ エーデッガータックス』で、ここへ行けば上記のパンは、だいたい手に入るようだ。

 私もパンは大好きです。

 万世橋ですね。行ってみたいです。


[No.4439] ウィーンとウィーンからの旅 3 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/06(Wed) 08:16
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ウィーンとウィーンからの旅 3
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 ウィーン少年合唱団は15世紀から存在していて、あの、モーツァルトやシューベルトもここの出身だった。
 この合唱団は、宝塚と同じように、4つの組に編成されている。もちろん「雪組」「星組」なんて名前はついていないけれど。それぞれ世界的地方巡業をする組あり、国内でウィーン国立オペラ劇場やフォルクスオーパー・ウィーン、ザルツブルク音楽祭にも出演する組もあり、という編成。  
 しかし、一番大切なのは本来の仕事、すなわち宮廷礼拝堂のミサで歌うこと。これは今も昔もウィーン少年合唱団の使命なのである。

 ぜひ「このミサへ」と日本から郵便で問い合わせたりしていた。(インーターネットのない時代に海外の情報を得るためには、日本にある各国の「政府観光局」に問い合わせたり、国際郵便で現地へ問い合わせたりと、なかなかの大仕事。勤めの合間に、ほぼ一年がかりで情報を集め、準備したものだった)

 先方からの返事には「立見席は無料であり、予約は不要ですが、満員で入れないこともあり得ます」とあった。
 だから、朝食の残りのパンを、お代わりしたコーヒーで飲み込むと、宮廷教会へと急いだのであった。


[No.4440] ウィーンとウィーンからの旅 4 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/07(Thu) 06:34
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ウィーンとウィーンからの旅 4
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 駆けつけたときにはすでに3、40人の観光客が階段の下あたりをうろうろしていた。
 彼らは、少年合唱団の子どもたちを待ち受けているようだった。
 紺のセーラー服を着た合唱団の子どもたちは、先生に引率されて、群衆のほうを見ないで、さっさと入場した。

 一時間ほど待ったあと、若い坊さんがやってきて入場券を持った入場者の改札をはじめる。われわれのような入場券のない立見席待ちの連中は、坊さんの指示で、ニ列に並ばされる。このグループには若いバッグパッカーが多く、やれ、どこのユースホステルは清潔だとか、安いとかーーそんな情報交換に余念がない。やがて、われわれも、順に入場させてもらう。そして50人程入ったところで改札止め。   
 「残った方は場外のモニター・テレビを見ながら、ミサに参加してください」との説明があり扉が閉まる。
 お堂のなかは、かなり狭い。もともと劇場だったというだけあってお寺らしい陰々滅々とした感じがない。明るい聖堂である。
 やがて、祭壇前の舞台のようなところに、白衣の侍僧が次々と入場してくる。みんな、若くてたくましい。なかには比叡山の悪僧といった面構えの坊さんもいた。


[No.4441] Re: ウィーンとウィーンからの旅 4 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/04/07(Thu) 12:17
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>  「残った方は場外のモニター・テレビを見ながら、ミサに参加してください」との説明があり扉が閉まる。
>  お堂のなかは、かなり狭い。もともと劇場だったというだけあってお寺らしい陰々滅々とした感じがない。明るい聖堂である。

きのうの写真を観てこれが、宗教施設?と疑問が湧いたが、なるほど、もとは劇場だったんだ。全体が赤っぽいし、聖堂にシャンデリアは、如何なものかと思っていた疑問がきょうの説明で氷解した。


[No.4442] ウィーンとウィーンからの旅 5 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/08(Fri) 07:38
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ウィーンとウィーンからの旅 5
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 立見席の若者たちは、相変わらず騒がしい。

 「まったく、ここをどこだと心得ているのだろうと」と苦々しく思う。もっとも、そういう本人も、子どもの時に法事の席で久しぶりにあった従姉妹たちと賑やかにふざけあっていて坊さんに叱られた記憶があるのだが。

 すると例の「ひげの剃り跡も黒々とした逞しい面構えと評した若い坊さん」が立ち上がって、立見席に向かってよく響くテノールで怒鳴りはじめた。「ナントカカントカ・ゲガンゲン」などとドイツ語で大声を張り上げている。 私もさっぱりわからないが、どうやら立見席の我々のお行儀を注意しているのでは、と見当はつく。でも「おしゃべりさんたち」はちっとも静かにならない。

 そのとき観客席の前列中央辺りの席の紳士が、立ち上がり、こちらへ向かって、唇に人差し指を当ててドスのきたバリトンで「ビー・サイレント」と叫んだ。
 驚いたことに、その声で、ぴたりと場内は静かになった。
 おしゃべりさんたちは「ああ、静かにしろって言いたかったのね。だったら最初から英語でいってくれればいいのに」という顔をしていた。

 写真は、40年前のアルバムそのものです。


[No.4443] ウィーンとウィーンからの旅 6 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/09(Sat) 06:57
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ウィーンとウィーンからの旅 6
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 そうこうしているうちに、高僧らしい方が入場して、ミサがはじまった。
 ミサのプログラムの合間合間に「ミサ曲」を演奏する。
 この日は「ハイドン」のミサ曲。
 HAYDN, J.: Mass in B-Flat Major, "Heiligmesse" (Rilling)
 ミサ曲といえどもハイドンらしい明るさがある。
 
 9時15分にはじまったミサ、ちょうどこの時刻になると、ステンドグラス越しに陽の光が差し込んでくる。やはり、陽の光こそがステンドグラスをステンドグラスたらしめているのだと感じた。そこへ、ボーイソプラノのソロがおもいっきり透明な声で「マリア」と歌うのだ。このまま、ずっと終わらなければいいと思った。しかし、ミサも終わりに近づいた。
 なお、ミサ曲を演奏しているのは、ウィーン国立歌劇場のオーケストラ。この方々は、ウィーン・フィルの団員さんでもあるのだ。合唱にはウィーン国立歌劇場合唱団も出演するという、すごく豪華なメンバーなのである。
 立見席とはいえ、こんな素晴らしい演奏をタダで聞かせていただいて申し訳ないという思いであった。

 ここで、若い助僧さんたちが、黒いビロードの賽銭袋(献金袋)を持って場内を廻る。立見席なんてビッシリの人、人、人でしょ。ここまで回ってくるかしら、と気になった。ま、回ってこなくても、多分「賽銭箱」があるに違いないので、帰りに僅かでも寄進させていただこうと思っていたのだ。しかし、若い助僧たち持っておられる賽銭袋には長―い釣り竿みたいな棒がついていて隅々の参会者の目の前にまで届いていたようだ。

 写真の絵葉書―――並んで待っている間に、お友達を作って住所を交換していたようだ。旅慣れていない割には積極的だっのだと思う。


[No.4444] ウィーンとウィーンからの旅 7 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/10(Sun) 06:43
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ウィーンとウィーンからの旅 7
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 ミサが終わって立見席の人も全員、外へ出た。しかし、誰も帰らない。
 終わってしばらくすると、ウィーン少年合唱団の子どもたちも、そとへ出てくる。
 これを待っていのだ。
 彼らは、観客との記念撮影に加わったり、話をしたりとお客さんと交流する。結構サービス精神に富んでいるな、と感じた。
 また、ここでは団員の家族との面会も許されているようで、家族らしきオトナに取り巻かれている子もいた。

 ただ、私にはのんきに「交流」などをやっている暇はない。
 急ぎ「楽友協会ホール」へ馳せ参じなくてはならぬのである。
 なんといっても、この日は、当時は新進気鋭だった マウリツィオ・ポリーニが、カール・ベーム指揮のウィーン・フィルと「皇帝」をやることになっているのだ。
 その当日売りをゲットしたいのだ。これが急がずにはおりゃりょうか。

 当日売りの窓口には、すでにかなりの人が並んでいた。
 もともと「楽友協会ホール」は狭い。当日売りの枚数が多いわけがない。
 ま、一応、ダメモトで、列の最後尾に並んだ。
 私の後にも12−13人が並んでいた。

 そこへ、変なバーチャンが現れた。私の3人後に並んでいる人の肩を叩いて「アンタまでは切符が買えるはずよ」というようなことを言っている。 彼女が、コンサートホールの職員なのか、あるいは「単なるお節介オバサン」なのかは不明である。彼女の後ろに並んでいた人たちの大部分は帰っていった。


[No.4447] ウィーンとウィーンからの旅 8 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/11(Mon) 07:46
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ウィーンとウィーンからの旅 8
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 こんなことが実際に起きるなんて その1

 私の前の方に並んでいる三人連れは、またまたアメリカネエチャンらしい。英語を話している人はアメリカ人とは限らないことは承知しているが、私の勘ではアメリカ人に見える。
 ただ、アメリカの若者にはクラシックファンは少ない。クラシックファンが三人連れでくるなんて珍しい。
 今度の連中は宮廷教会で会った連中よりマトモである。おしゃべりの話題も、安いユース・ホステルの話なんかではなく音楽の話をしているようだ。

 そうこうしているうちに入場券売り場の窓が開く。「まだ売り切れていない」「まだ、大丈夫」とドキドキしながら待つのもスリルがあって面白い。ところがーーーである。私の三人前のアメリカネエチャンの手前で売り切れとなってしまったのである。窓口のオバサンが英語で「ソールド・アウト」という。そして棒のようにつったっているアメリカネエチチャンに重ねて「コンプリートリー・ソールドアウト」という。

 すると突然、クダンのネエチャンは泣きだしたのである。それもハンパな泣き方ではない。「ウワーン」とばかり、手放しで、思いっきり派手に、大声で泣いたのである。切符を買えた人も、残念だった人も立ち去った窓口の前での騒ぎ。私は、あっけにとられて成り行きを見守っていた。
 「何事が起こったのか」と事務所のなかから劇場支配人らしき人が出てきた。黒いスーツに蝶ネクタイなんかを着けた、でっぷりとした紳士である。

 写真のCDは、同じ1978年5月発売のもの。擦り切れて穴が空くほど、繰り返して聴きました。


[No.4449] ウィーンとウィーンからの旅 9 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/12(Tue) 06:42
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ウィーンとウィーンからの旅 9
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 こんなことが実際に起きるなんて その2

 ジーパンにティーシャツという世界中のティーンエージャー共通の制服を着たネエチャンは、この紳士に泣きながら英語で必死に訴えるのであった。(場所柄、地元の人たちは、それなのにドレスアップしいるというのに)。
 「ーーーこれを聴きたくてーーー私、一生懸命、バイトして旅費をためて、ーーーやっとウィーンまでやってきたのよ。ーーーああ、それなのに、私の手前で売り切れてしまうなんて、なんてことなの!」と云っているようだ。
 紳士はニコニコと、むしろ面白そうにネエチャンの訴えを聞いていた。そして、彼女が一しきり泣き止むと「手首を上に向けてこちらに振りながら「コンメン、コンメン」という。
 どうやら入れてやるらしい。ーーーすると、まだ残っていた、ネエチャンのお連れさんも彼女に従って、紳士のあとをついて行くではないか。さらにおどろいたことに、この一部始終を見守っていた私にも一緒についてくるように紳士は目で合図したのである。完全に諦めていた私ではあったが、そうなれば遠慮せずにご好意に甘えることにしょうーーーと彼女たちのあとに従った。

 紳士は通用口へわれわれを案内し、そこから地下の奈落のようなところを通って、客席の間の通路へと導き、ここに座れーーという。「もうすぐはじまるから、しずかにそっとすわりなさい。それから、腰を落としてね。そうしないと、後の席の人たちが見えなくなるから」とゼスチュアーをまぜて云って立ち去ろうとする。筆者も含めて4人、財布の蓋を開けたりしめたりしながら「おいくらですか」ときく。これを手で制して、紳士は行ってしまった。
 ほどなく開演である。


[No.4451] ウィーンとウィーンからの旅 10 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/13(Wed) 07:29
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ウィーンとウィーンからの旅 10
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 カール・ベームがややよたよたとステージに上がってくる。でも指揮台に登ると、きりっと背筋を伸ばす。この時点で、カール・ベームさん、84歳くらいであったのではないか。
 さすがーーーである。 
 ピアノの前のポリーニを「ようござんすか」というようにちらっと見る。ポリーニが目で合図する。ベームが指揮棒を降ろす。
 ここで、いきなり「ダダダダダッ」とポニーニさんが皇帝のもとに駆け上がってくる。ぐっと緊張感が増す。

 ところが、もったいないことではあるが、私の方は「ようござんす」という訳にはいかないのである。まだ、このコンサートを楽しむのに相応しい気分になっていない。ーーー心の準備ができていなかったのである。
 ーーーというのも入場までのドラマティックな展開に心をうばわれていたからである。 当日売り券を買い損ねた残念さ。アメリカ的な「泣き」のパフォーマンスの見事さ。そこへ登場した親切な紳士ーー。
 とびっきり絢爛豪華な楽友協会ホール。カラヤンとは一味違う地味系のカール・ベームの棒に乗った、すっきりと透明なウィーフィルの伴奏。
 ポリーニの奏でる、歯切れのよい、めくるめく分散和音。ーーーウイーン・フィルの伴奏は五月のウイーンの森のそよぐ風の音。ポリーニのピアノは森のなかを流れる小川のせせらぎ。キラキラと輝きつつ、木立の間を見え隠れしながら流れていくーーー。
 カール・ベームは職人っぽい、ポリーニはコンピュータっぽいーーーなどといいたい人には言わしておこう。素晴らしいものは素晴らしいのである。

 しかし、私の目は不覚にも、涙でに霞んでベームの動きを追えず、頭の芯が熱くなって音楽を聴くのにふさわしい状態ではない。それでいて「なんて幸せなことだ。今日の出来事は一生忘れない」と心のなかでつぶやいていたのであった。
 
 とはいえ、第一楽章の中頃には気分も落ち着き、音楽に集中することが出来た。

 かくして、かくも豪華なコンサートを無料で聴くーーという貴重な体験は終了したのであった。

 後日、その道に詳しい人にきいたところでは「ウィーンの男性は女性に優しいので、こういうことは起こり得る」「ドイツ人は規則に忠実なので法規に反するときは、たとえ相手が総理大臣でも入れてくれない。そこへいくと同じドイツ語系でも、オーストリアの人たちの方が融通がきく」とのコメントが得られた。
 日本だって、劇場の通路にお客を座らせたらまずいのではないかと思います。


[No.4452] ウィーンとウィーンからの旅 11 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/14(Thu) 06:24
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ウィーンとウィーンからの旅 11
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「旅の宿の 夢で 音符が駆けめぐり」

 午後は、人並みに街の見物をする。そしてカフェで熱いカプツィーノを味わうと、今度は、シュタート・オーパー(国立歌劇場)へ。トスカを見ようというのだ。またもや、当日売り券をもとめて、入場券売場を探す。やっと見付けた窓口にはわずか四、五人しか並んでいなかった。そこを日本人のオジサマ族の一行が通りかかる。「そこで、なにしておられるんですか。へぇ、オペラ見物ですか。券はどうやって買いますの? へぇ、誰にも教わらんと、偉いですね。わたしら、関西の中学校の校長のヨーロッパ見学団です。われわれ、ただ添乗員の尻について歩いているだけですわ」といいながら、人のよさそうな校長さんは、皆のあとを追い掛けていった。

 五階のギャレリー席、千四百円。ドレスアップしていない筆者に相応しい席である。
 トスカそのものは期待していた程ではなかった。あるいは、聴く側が、朝からのコンーサートの「ハシゴ」で心身ともに疲れていたためかも知れない。
 ただ、印象的だったのは、オペラ座を訪れる人々の群れであった。ーーー裾の長いドレス姿の奥さんのレースの手袋に包まれた手を、タキシード姿のご主人がやさしくとって、エスコートしつつ、格式ある建物に堂々と入っていく。幕間の休憩時間には、ロビーでワイン・グラスを手に、今出ていた歌手への感想をドラマティックに語る。

 ーー彼らは、単にオペラを聴くだけではなく、伝統ある音楽の都、ウィーンの観客という役柄を無意識のうちに立派に演じているーーー出演者だけでなく、こういう観客もあって「オペラ座」という文化が完成してるようだ。
 これだけは、アメリカや日本の観客では、とても太刀打ちできないなーーーとつくづくそう思った。
 シュタート・オーパーからホテルへは歩いて五、六分。深夜のご帰還も安心である。
 ベットに入っても、興奮していて、寝付かれない。浅い夢のなかを、アベ・マリアや、分散和音や「星もまたたきぬ」や、いろいろな旋律が駆けめぐっていった。


[No.4454] Re: ウィーンとウィーンからの旅 11 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/04/14(Thu) 12:10
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たしかに開演が午後7時で、終演が9時半だと、郊外のようなところに宿を取ってあると、帰り道が心配だね。それに、マーチャンのばやい、明日も明後日も、早朝から、ハードワークが待っているのだし…。
(^^♪


プログラムによると長めの休憩時間が、第1幕と第2幕の間にあるとあり、総演奏時間が1時間50分から逆算すると、40分の休憩時間になるようだね。それから、

 これは、チョット今知ったのだけれど、歌に生き、恋に生きというのは間違いで、ここでは、amoreは男女の間の恋ではなく、宗教的な、神への愛といったものを指しているらしい。

 その証拠にあとへ続く言葉は神への帰依、今までの折につけての貧しい人たちへの援助、など自分の人生を総括し、神への恨み節で終わっていて、色恋の話は全く出てこない。

 むかし、日曜学校へ行っていた時、愛にはふたつあり、アガペーは宗教的な愛、エロスは人間的な愛とか、たしかに習った気がする。


[No.4456] ウィーンとウィーンからの旅 12 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/15(Fri) 06:42
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ウィーンとウィーンからの旅 12
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 「オートスリアは 小さな国になりました」

 朝食後ただちに、チェック・アウト。八時発の列車で東チロルのリーエンツへ。といっても、途中二回、すなわちフィラッハとシュピタールで乗り換えねばならない。ともかくオーストリアの国鉄の旅は楽しい。ウィンナー・ノイシュタットを過ぎると列車は次第に山間を縫って走るようになる。
 コンパートメントで英語の上手な初老の紳士と隣合わせになる。ウィーンの中学校の校長さんであり、宗教の先生でもあるとのこと。「ウィーンの子供たちは日曜日に教会へ行きますか」と聞くと「いや、土曜日にはディスコに行くようですが、日曜日には何処にいくのでしょうか」といって笑っていた。 こちらの反応を見ながら、ひとこと、ひとこと、ゆっくり話してくださるので、私にもある程度はわかる。
 いろいろ話をした。やがて彼は筆者を通路に連れ出し、車窓の景色を紹介する。「どうですか。オーストリーには、まだ、自然がなんとか残っているでしょう。ええ、オーストリアは、なにもかにも失ってしまいました。そして小さな小さな国になりました。
 ハプスブルグ帝国時代の広大な領地はすべてなくなりました。あなたが、これから行かれる、東チロルも南側がイタリアに割譲された結果、あのような不様な格好になりました。でも、オーストリアには、まだ、残された貴重なものがあります。そうです。美しい自然と、暖かい人の心です。どうか、これだけは失ってほしくないものです」ーーー。

 普段の筆者だとこういうお説教を聞くと、うんざりして、そして大概反発する。しかし、この老校長の話は素直に心に入っていった。


[No.4459] ウィーンとウィーンからの旅 13 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/17(Sun) 07:57
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ウィーンとウィーンからの旅 13
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 「美しい自然と、暖かい心」

 オーストリアの民族衣装を身につけた小柄な校長さんとは、フィラッハで別れた。
 フィラッハから乗った支線で、おばあさんに行き先を聞かれる。「リーエンツまで」というと「シュピタールでの乗り換えは外国の方にはちょっと難しいかも知れません」という。そして隣の席の若い奥さんに「あなた、シュピタールで降りるっていっていたわね。この方を乗り換えホームまでご案内して」と言う(正確に言うと「言っているらしい」)。あかちゃんを抱いてスーツケースを引きずりながら、若奥さんは、わざわざ私の乗るホームまでついてきてくれる。「もういいです。ここからは分かりますから」と手真似で合図しても、だまってニコニコしながらついてきてくれた。

 リーエンツでは街を流れるドラウ川に沿って散歩する。散歩道のそこここにマリア様などを祭った道祖神か、お地蔵さまのようなものがあり、野の花が手向けてあるのを見かける。信仰心の厚い土地柄なのであろう。

 オーストリア北部のドナウ川沿いに「リンツ」という街がある。このリンツは大都会なのだか、東チロルの「リーエンツ」は、自然がいっぱいの小さな町です。
 散歩道の後方から「チリン・チリン」と自転車のベル。振り向くと、70すぎじゃないかと思われるなおじいさんが近付いてくる。ニコニコしながらだまって手にしたキャンデーを三つ私に手渡す。自分も一つ口に入れる。そして、笑顔のまま「チリン・チリン」と通り過ぎていく。
 リーエンツでは、今、春の花が真っ盛り。目の醒めるような黄色のエニシダ。甘い香りのアカシア。淡いピンクのライラック。
 リーエンツは北海道に似たところ。有名な観光地ではないけれど、山並みと牧場と教会の塔がよくマッチするところです。

 ウイーンの校長先生、喜んでください。あなたの国の「美しい自然と、暖かい心」はここ東チロルでは健在です。


[No.4460] Re: ウィーンとウィーンからの旅 13 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/17(Sun) 07:58
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Re: ウィーンとウィーンからの旅 13
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 写真をもう一枚、添付します。


[No.4463] ウィーンとウィーンからの旅 14 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/18(Mon) 07:52
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ウィーンとウィーンからの旅 14
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 「料理にも西欧と東欧の両方の味が」

 リーエンツ(ドナウ河畔のリンツとはまったく違う街です)は、東チロルの中心地。といっても静かな街である。例のロマンティック・ホテルチェーンに属する「ホテル・トラウベ」(葡萄ホテル)という、名実ともにロマンティックな宿に泊まる。
 エレベーターの壁に当ホテルご自慢の夕食の手書きメニューが貼りだしてある。確かにここの夕食は素晴らしい。その後もたびたび経験したのだが、同じドイツ語圏であってもドイツとオーストリアでは料理に関しては、まったく違う。オーストリア料理は味付けが豊富で繊細なのである。おそらく、ハプスブルグ家七百年にわたるヨーロッパ各地との交流、地理的に国境を接している、東欧、西欧各国の影響であろう。
 この日の夕食も、オードーブルのダンゴ入りスープはチロルのローカル・ディシュ、メインの茹でたパスタにグラーシュのようなシチューのかかった料理は、イタリア風とハンガリー風のチャンポンのようであった。
 デザートは「アップフェル・シュトゥルーデル(アップルパイ)」「カラメル・プッデング(カスタードプリン)」「パラチンケン(クレープみたいなもの。デザート。東欧系)」からのチョイス。オーストリアには美味しいスイーツがたくさんある。ただ、どれも分量が多く、相当甘く、おまけにお皿にどっかりとクリームが乗っていて、シニアにはかなり「食べで」がある。当時は若かったからなんとも思わなかったが。


[No.4465] ウィーンとウィーンからの旅 15 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/19(Tue) 06:52
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ウィーンとウィーンからの旅 15
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  「老人クラブと東チロル街道を行く」

 散歩の後は、スキーリフトで山腹へ。なにも、用事があってのことではない。そして、そこには誰もいない、何もない。ただ、牧場に寝そべって雪を頂くチロルの山並みや、牧場のキンポウゲの黄色の波を眺めて「ああ、これぞチロルだ」と思う存分チロルを味わっていればそれだけで十分満足なのであった。
 リーエンツ到着と同時に、街の観光局に翌日の「コルチナ・ダンペッツオ・バスの旅」を申し込んであった。夕方ホテルに戻ってみると、フロント嬢から「観光局から連絡があって明日のツァーはキャンセルになったそうよ」との伝言があった。さっそく観光局へ駆け付けてみる。窓口のオネエサンは「その代わり「東チロル街道の旅」なんてどうかしら。私だったら、この方がいいと思うけど」とのこと。

 翌朝、観光バスに乗って驚いた。何しろ、乗客全員がお年寄なのである。しかも中途半端じゃあない超お年寄りの集団なのだ。インスブルックの老人クラブご一行様とのこと。向こうも、怪訝な顔をしている。「なんで、この日本人は貸切バスに乗ってきたのかね」といっているようだ。念のため運転手に切符を見せて確認する。このバスで間違いないという。彼らも納得する。

 バスはイタリア国境に近い、Assiling Anras などの山道を縫っていく。ドロミテ山塊の一部である、峨峨たる山並みは雪に覆われており、山腹の緑は五月の装い。
 確かに、素晴らしい旅であった。

 バスの乗り降りは一仕事である。なにしろ、全員、お体のご不自由な方ばかりなので、途中休憩の時など、全員が降車するのに三十分もかかるのである。筆者は本来、決して、面倒見の良い方ではない。しかし、ここ、二、三日、ずっと親切にされ続けているので、すっかり「親切」が伝染していたらしい。無意識のうちに、おばあさんに手を差し伸べて支えてあげたり、荷物を持ってあげたりしていたようだ。一日の行程を終えて、別れるとき、不自由な手で住所をメモしてくれたエルハルトさんは「あんたみたいな親切な外国人に出会ったのは、はじめてだよ」といって握手してくれた。

 ウィーンの校長さん。親切は「伝染します」、そして「海外へも輸出できます」


[No.4467] ウィーンとウィーンからの旅 16 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/20(Wed) 06:52
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ウィーンとウィーンからの旅 16
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 「ポストバスは、ララララ
   グロースグロックナー山岳道路を行くよ」

 翌日はポストバスで「グロースグロックナー越え」をする。前日の「東チロル街道」が「草津・野反湖越え」のような「知る人ぞ知る」玄人好みの秘境であったのに対し、このーーー東チロルの中心リーエンツから、教会で有名なハイリゲンブルートを経由して、フランツ・ヨーゼフス・ヘーエ(峠)へと走り、さらに、ここからグロースグロックナーを眺めて、ツェル・アム・ゼーに抜けるーーーというこのルートは「志賀・草津高原ルート」のようなポピュラーなものなのである。

 ポスト・バスの旅は楽しい、が時間がかかる。八時二十分、リーエンツを出たバスが、ツェル・アム・ゼーに着いたのは四時近くであった。(ポストバスはヨーロッパの辺地を行くバスで、各国の郵政省の所管するバス。本来の目的は、郵便物の搬送なのだが、スクール・バスや普通の路線バスも兼ねている多目的バス。最近は、国鉄などに所管が変更になっているところも多いようだ)。

 だから、テンポが遅い。村の郵便局前につくと、運転手さんは「プップー」と警笛を鳴らして郵便バスのご到来を知らせる。
 しばらくすると、郵便局の中から、郵袋の乗った台車を押しながらオバサン局員が出てくる。
 「まぁ、ええお日和で。あんたも、しばらく見なかったが元気かね」などとチンタラチンタラ喋り出す。ひとしきりしゃべり終わると村へ届いた郵便物を受け取って、局舎へ戻って行く。

 スクールバスも兼ねているので、村のあちこちから小学生が乗ってくる。彼らもピーチクパーチクとお喋りをする。毎日の通学であろうに遠足気分なのだ。「さあさ、静かにして。ちゃんと席について」と運転手さんがいう。
 
 こんなことを繰り返しながら、徐々にバスは峠に向けて徐々に高度を上げていく。


[No.4470] ウィーンとウィーンからの旅 17 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/21(Thu) 07:57
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ウィーンとウィーンからの旅 17
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 バスは、一時間余りで、ハイリゲンブルートに着く。ここで、三十分の休憩がある。
 ここのゴシック風の教会に、キリストの血、聖なる血が秘蔵されているところからこの地名がつけられたーーーとガイドブックにはでている。十世紀にヒザンチンから、この「聖なる血」を運んで旅をしてきたお役人は、寒さのため、この地で行き倒れになってしまったという。「如何にして十世紀までキリストの血が保存されていたのか」ーーーということは考えるべきではない。これはロゴスの世界の話ではなく、パドスの世界での話なのである。

 私がお堂のなかを見学していると、同じバスに乗ってきた観光客のご一行さまのなかの顔色の悪いじいさまが寄ってきて英語で「おまえは日本人だろう。日本人は仏教徒なのにキリスト教のお寺に入ってもいいのか」としっつこくきく。ほとんどの日本の仏教は寛容なのだと教えてあげようと思ったがドイツ語は分からないのであきらめた。

 なにはともあれ、峻険な山容を背にして、緑の五月の野原にすっきりとそびえ立つ、この教会の尖塔はわれわれの目を引き付けざるを得ない。
ハイリゲンブルートを発って、峠に向かって高度を上げていくと、もはや「郵便局」も「小学校」もない。乗客は、観光客ばかり。若い運ちゃんは、観光客向けサービスをしてくれる。カタコトの英語で「あの山、◯◯連峰。あの川は△△氷河」などと教えてくれる。特に運転席近くにいた私には、親切だった。一時停止したところで「カメラのシャッター押してくれる?」と聞くと「ああいいよ」と言いつつ、自分の制帽を私のアタマに乗せてくれる。ついでだからと運転席に座らせてくれる。ほかのお客さんも調子に乗って「おい、ついでに制服も羽織らせてやれよ」なんていう。
 言葉なんて全然通じないのに、結構バスのなかは盛り上がった。


[No.4473] ウィーンとウィーンからの旅 18 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/22(Fri) 08:08
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ウィーンとウィーンからの旅 18
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 グロースグロックナー(3,798m)はたいへん魅力ある山で、今も昔も多くの人々を惹きつけています。オーストリア皇帝もそのおひとり。1856年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は皇妃エリザベート(シシィ)とご一緒にこの山の氷河の見物に訪れ、見晴らしを楽しまれ、グロースグロックナーの偉容に深い感銘を受けたと伝えられています。
 そこで、この峠の名前が「フランツ・ヨーゼフ・ヘーエ(標高2500)」と名付けられています。
 (オーストリアの人たちは「フランツ・ヨーゼフさん」がお好きらしく、ウィーンには「フランツ・ヨーゼフ駅」があり、ドナウ川の遊覧船にも「フランツ・ヨーゼフ号」と名付けられた船が就航していたりと、あちこちで「活用?」されています。そんなに「フランツ・ヨーゼフさん」がお好きならば、共和制なんかにしないで「オーストリア帝国」のままでいればよかったのに)

 バスは、ここでお昼の休憩。茶店でサンドイッチとコーヒーのお昼を済ませた後は、雄大な山並みが、雲からでたり、隠れたりしているのを、同じバスで観光に来て人たちと一緒にひたすら眺めたり写真を撮ったりしていました。
 そのうち、誰かが「あっ。マーモットがいる」と叫びました。みな一斉に駈け出した。私も大慌てでカメラを持って走ってサクの向こうの氷河の方に向かいました。さて、バッグからカメラを取り出そうとすると、あっ、なんとしたことか、カメラは氷河の谷底の方へころころと転がっていってしまったのです。ああ、消えちゃたぁ。
 フィルムは、その朝取り替えてきたわけですから、この素晴らしい光景ばかりでなく、「バカ・マーチャン」が、ポストバスの運転手さんの制服制帽を身につけて運転台に座っている写真も消えてしまったのです。
 旅の終わりになってカメラをなくしたわけですから、被害は小さいのですが。きっと神様が調子に乗りすぎている「バカ・マーチャン」にお灸をすえたのでしょう。

 旅には失敗がつきもの。失敗こそ、旅の思い出に残るものなのです。

 この旅は、これで終わりです。次を旅にご期待ください。


[No.4474] Re: ウィーンとウィーンからの旅 18 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/04/22(Fri) 10:29
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  マーチャン、みなさん、こんにちは。

>  そのうち、誰かが「あっ。マーモットがいる」と叫びました。みな一斉に駈け出した。私も大慌てでカメラを持って走ってサクの向こうの氷河の方に向かいました。さて、バッグからカメラを取り出そうとすると、あっ、なんとしたことか、カメラは氷河の谷底の方へころころと転がっていってしまったのです。ああ、消えちゃたぁ。

>  フィルムは、その朝取り替えてきたわけですから、この素晴らしい光景ばかりでなく、「バカ・マーチャン」が、ポストバスの運転手さんの制服制帽を身につけて運転台に座っている写真も消えてしまったのです。

>  旅の終わりになってカメラをなくしたわけですから、被害は小さいのですが。きっと神様が調子に乗りすぎている「バカ・マーチャン」にお灸をすえたのでしょう。

マーチャンが、バカ・マーチャンなら、あっしは、どうなる。バカモンジロウ、略せばバカモ〜ン。これはチョットかなしい。(-_-;)

>  旅には失敗がつきもの。失敗こそ、旅の思い出に残るものなのです。

ヒヤヒヤ。でも、そういうのなら、こちらが本家です。台北観光でカメラを構えたとたん、革のカバーがはるか下の方へ、ころころころ。所が、ここはかなりの高楼で、カバーは、取りに行くには大変なところへ行ってしまい、そのうち視界から消えました。

 あっしが諦め顔をしていると、幸い同行の若い元気のいい義弟が「わたしが取ってきて上げましょう」というなり、すぐさま下へ降り、チャンと見つけて、届けて呉れました。

 オーストリアでは、事もあろうに、マーチャンの大事な大事なカメラを無くしたことはご存じのとおり。(もっとも、これは帰国後、奇跡的に戻りましたが。)

>  この旅は、これで終わりです。次を旅にご期待ください。

パチパチパチ。ではまたその内、読ませてもらいます。