[掲示板へもどる]
一括表示

[No.4476] ヨーロッパのあっちこっちへ 1 (1979年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/23(Sat) 06:26
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 1 (1979年)
画像サイズ: 541×464 (38kB)
前年(1978年)成田空港が開港。その年の、5月20日にJALの貨物便が初着陸しました。
 私の旅も、この年から「成田空港出発」に変わりました。まだ、JRのNEXもなかったので神奈川から成田へ行くのはチト不便でした。
 この旅で乗ったのはスイス航空でした。
 安い切符で辛うじて乗れたのは、成田→香港→カラチ→ジュネーブ→チューリッヒ便。南回りの長い―旅でした。

 一人旅の楽しさを知ってしまった私は、この年は、もう少し行動半径を広げました。
 チューリッヒに着いた当時のマーチャン、何を思ったのか、スイス見物をすること無く、翌朝、列車に乗り込むと、リヒテンシュタイン公国に直行したのです。

 えーっ、東西トーザイ。
 リヒテンシュタイン公国ともうしまする国は、立憲君主制国家にして スイスとオーストリアに挟まれた、人口35000名、面積160km2(川崎市より少し大きい)という小国にござりまする。100名程度のお巡りさんはいますが防衛、通貨、外交はスイスに外注。ただ小国の切手商売は儲かるものですから「郵便事業」は自前でやっておりますです。

 タックス・ヘイブンとしても知られている国です。機械工業も盛んなようです。一般の国民は所得税などは払わなくてもいいのです。ご一族が、500年前から、そのお金で買い集めた美術品は大したものらしいです。ラファエッロ、クラナッハ、レンブラント、ヴァン・ダイクをはじめとする巨匠たちの名画や、華麗な工芸品がずらーり。でも公開していません。
 戦争ばかりやっていた、ヨーロッパ列強の間で、ルクセンブルグ、モナコ、アンドラ、サンマリノなどの小国の幾つかが、どっこい生きているのです、というより結構お金持ちなのですね。  
 隙間産業ならぬ隙間国であります。
 まあ、好奇心の強い人が、真っ先に行ってみたくなる国のひとつです。

 私も、人並みに、ご領主様のお城を見て、首都?、ファドーツの郵便局でクリスマス切手を買って、出国しました。もちろん、国境など、何時通ったか気が付きませんでした。


[No.4477] ヨーロッパのあっちこっちへ 2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/24(Sun) 06:29
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 2
画像サイズ: 624×468 (54kB)
 リヒテンシュタインの首都ファドーツから、インスブルック経由で、オーストリア南東部、ケルンテン州のフィラッハへ。 ここはドラウ川沿いの物流拠点、交通の要所ではありますが、いわゆる観光地ではないのです。 
 しかし、ドナウ川の支流であるドラウ川の谷にそっていて、遠くにヨーロッパアルプスの東端の白銀の山々を望む、静かで落ち着いた街でした。

 「な、なんで、わざわざ、そんな所へ行ったのか」といいますと、旧ユーゴースラビアへ行くには、ここを経由するのが便利だからです。

 この時代は、東西冷戦の真っ最中。鉄のカーテンの向こう側への旅は大変面倒なものでした。
 「ビザ無し」なんてとんでもない話だと思われていました。しかし、実際は、ハンガリーの場合は「入国時に、空港でビザを発行してもらえる」というのは「公然の秘密」でしたし、旧ユーゴースラビアに至っては、鉄道の駅でもらえる、という話を聞いたことがあったのです。
 たとえ、バックパッカーであっても、外貨を持ってくる外国人はありがたい存在。ややこしいことは抜きにして来てほしい、というのがホンネだったからなのです。

 しかし「本当に行けるのか。試してみよう」―――そんな気持ちでした。

 旧ユーゴースラビアは「あの、スターリンのいうことも聞かない」チトー将軍が「モスクワとは、一味違う社会主義」のもとで政治を行っていた国だったのですね。
 そして、私の訪問した翌年、チトーさんは、私の行ったリュブリャナ(現在のスロベニアの首都)の病院で亡くなられたのでした。
 鉄のカーテンが取り去られた後、旧ユーゴースラビアは、それぞれの国が分離独立しましたが、ご存知のように、チトーさんというカリスマ指導者がいなくなると、あの悲惨な紛争におちいってしまったのですね。まだ、各地にその後遺症が残っているようです。
 私は、その後、1986年に、旧東ドイツの旅をしましたが、その時、同じ「鉄のカーテン」の内側の国にであっても、それぞれ随分違うな、と思いました。


[No.4480] ヨーロッパのあっちこっちへ 3 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/25(Mon) 07:54
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 3
画像サイズ: 639×542 (50kB)
  たまたまその頃、ヨーロッパは猛暑に襲われていました。日本より湿度が低いのはありがたいのですが冷房もなく、ひたすら「寒さ対策」をほどこした建物や、乗り物は温室と化してしまうのですね。フィラッハへ来た車内でも、車掌さん乗客も、フーフー言っていました。当時は、車内はコンパートメントでしたから、廊下へ出て涼むのですね。

 さて、フィラッハからリュブリャナ(現在の「スロベニア」の首都、当時は「旧ユーゴースラビア」の一都市)へ行く鈍行列車は、ものすごく草臥れ果てたオンボロ列車でした。旧ユーゴースラビア鉄道の車輌のようでした。ヨーロッパの国際線(中央ヨーロッパでは、半分くらいの列車は国際列車です)では、あちこちの国から来た列車の車輌をつなぎあわせて走っていますから接続のある各国の車体を見ることが出来ます。
 とにかく、フィラッハの駅に並んでいる車輌―――ヨーロッパの一般的な水準のオーストリア国鉄の車輌と旧ユーゴースラビアの車輌を比べて見るだけで「社会主義国の実態」を実感することが出来ました。

 フィラッハから旧ユーゴースラビアのリュブリャナまでは列車で一、二時間の距離です。オーストリアのテリトリーでは、運転手さんも車掌さんもオーストリア国鉄の人たちです。
 ただ、人影はまばらでした。そして、国境の手前の長いトンネルに入るころには、乗客は私一人になってしまっていました。

 (写真 左側 オーストリア国鉄 右側 旧ユーゴースラビア国鉄)


[No.4482] ヨーロッパのあっちこっちへ 4 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/26(Tue) 06:49
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 4
画像サイズ: 619×474 (32kB)
 そうなのです。国境駅のあるイエゼニツの手前のトンネルに差し掛るころになるともう誰も乗っていなかったです。
 と思っていると、後方の車両から、長身で恰幅のいい紳士がやってきて、にこにこしながら私の向かい側の席に腰を降ろしたのでした。
 ーーー暗いトンネルのなか。たった二人きりのオトコとオンナーーー。

 オトコは、さも親しげに筆者に英語で話し掛けるのでした。当然のことながら、いかに薹の立ったオンナでもオンナの方は警戒します。「もちろん、ヨーロッパにきたのは家族と一緒よ。主人と二人の息子とはスイスのインターラーケンで別れたの。 彼らはトレッキングをやっているはずよ。わたしは歴史が好きだから、オーストリアやスロベニア旅行を楽しんでいるの。今日、夕方には、主人たちがフィラッハ中央駅に迎えにきてくれるわ」「どうしてご家族と一緒にトレッキングをしないの?」「だって私、もう五十才をだいぶ過ぎていて(嘘つけ)ああゆうのは無理なのよ」「それはアンタのおかあさんの年令だろう。ところで家族連れでヨーロッパ旅行するなんて、あんたのところは金持ちだねえ。ダンナさんはどんな仕事しているの」「医者」「何科の医者」「ええと目医者じゃあなくて、そうそ、歯医者、歯医者なの」ーーー。
 嘘をつくのは下手ではないが、こういう、やや緊迫した場面で、しかも英語で嘘をつくのはシンドイ。


[No.4484] ヨーロッパのあっちこっちへ 5 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/27(Wed) 07:45
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 5
画像サイズ: 640×338 (34kB)
  トンネルを抜ける少し前、オトコは何処かへ行ってしまった。
 そして列車が国境のイエゼニツ駅の構内に差し掛る頃、オトコは再び現われた。この時は、左腕に「BUNDES POLIZEI(連邦警察)」という腕章をしていた。そして「ライゼパス・ビッテ(パスポート拝見)」という。
 ーーーしまった、と思った。年令なんてパスポートを見ればバレてしまう。しかし、ーーーオコトは筆者の差し出すパスポートの表紙だけをチラリとみてニヤリとしたあと下車してしまった。

 ーーー要するに、彼は、連邦警察の係官で、この列車で国境を越えるたった一人の乗客をユーゴースラビア国境駅まで送り届けにきたのであった。そして退屈なので筆者をちょっとからかってみたのに違いない。
 日本人の感覚では、連邦警察の出入国管理官とあろうものが執務中に「ナンパを仕掛ける」なんて、言語同断、まったく、けしからんことである。しかし、彼らの感覚では単に「一人旅で寂しそうなお客さんとおしゃべりすることで旅の無慮を慰めてやったのだ」ということなのであろう。

 そして、またまたフィラッハへの帰り道、再び、彼をイエゼニツの駅のホームで見かけたのである。列車の窓から手を振ると「いいか、この列車はフィラッハの中央駅には行かないんだぞ。フィラッハ西駅で乗り換えだぞ。そうしないと、ダンナと会えないぞ。分かっているんだろうな」と怒鳴って、またニヤリと笑っていた。

 そしてまあ、なんとか、リュブリャナ駅に着きました。さっそく両替しました。写真のように、列車の切符や銀行の両替書類までしっかり保存してありました。


[No.4486] ヨーロッパのあっちこっちへ 6 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/28(Thu) 06:51
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 6
画像サイズ: 466×303 (26kB)
 ここで、今着いた「スロベニア」という国について、お話させてくださいね。
 まず「チェコ・スロバキア」から分離独立した「スロバキア」とはまったく別の国ということです。
 あちらさんは「オースリアの北側」にありますし「スロベニア」は「オースリアの南側」にあります。

 Slovenia と Slovakia、名前も似ているし、場所が近い、もと旧ソ連の衛星国だった、と共通点が多いので、アチラの人たちも間違えるそうです。

 ただ15世紀以降、ずっと「ハプスブルグ家」の所領だった関係もあり、なんとなくオーストリアの匂いのする国です。
 西から延々と続いているヨーロッパアルプスも、いよいよここで終わりとなるところ。国土の半分は森林。地下水源に恵まれた自然豊かな国です。ブレッド湖、数々の鍾乳洞と、見どころもいっぱい、おすすめの観光地です。
 
 鉄のカーテンが取り払われた後、スロベニアは「2004年にはNATOとEUに加盟し、2007年にはさっさとユーロ圏に加わり、2010年にはOECDに加盟」というように、完全なる「西側諸国化」を済ませました。

 私が行ったリュブリャナは、現在はそのスロベニアの首都です。
 当時も、三本橋と称するユニークな橋や、その周辺の大聖堂などぶらぶら歩きにいい、落ち着いた「大人っぽい街」だったのです。そして、なんとなく「鉄のカーテンの西側の街」みたいな雰囲気でした。治安も比較的良かったようです。
 (現在も治安はいいようです。街角に「自販機」を設置できる数少ない国のひとつだそうです)


[No.4488] ヨーロッパのあっちこっちへ 7 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/29(Fri) 08:01
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 7
画像サイズ: 315×455 (28kB)
  街を見物したり屋台でランチを頂いたりしていても街の人達は、警戒する様子も、毛嫌いする様子もなく、普通に接してくれていました。屋台ランチも、500円くらいでした。メインが炙り羊肉だったと記憶していますが、割に美味しかったですし、雰囲気も明るかったと思いました。
 日帰り旅行ですから「5000円」くらい両替したのでしょうか。買うものがなくて、持って帰って来てしまいました。まあ、ソ連衛星国のお金なんて国外では紙くずも同然でした。
 街の中は「明るかった」と申し上げましたが、ちょっと街からはずれたところにあるアパートは、暗い、社会主義国カラーの建物でした。

 そんなこんなで夕暮れ近く、また列車で、オーストリアのフィラッハへ戻りました。

 はい。もちろん、フィラッハ中央駅には、主人も息子も迎えに来ていませんでした。


[No.4490] ヨーロッパのあっちこっちへ 8 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/04/30(Sat) 06:43
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 8
画像サイズ: 615×243 (26kB)
 ドイツ語のイタリア 駐在さんのパスポートチェック

 もう、かれこれ15分もホームのベンチに腰をおろしてポケット・イタリア語旅行会話本を懸命に音読している。
 「部屋が空いていますか」は「ウナ カーメラ ウナ ノッテ」か、なるほど。

 ここは、オーストリアのチロル州からイタリア領にはいった国境の村、ドビヤッコ。
 ユーゴースラビア旅行の翌日、フィラッハからシュピタール経由でここにたどりついたのである。
 
 ということは、このたびの旅もすでに折り返し点をまわっているということを意味している。
 はじめてのイタリア。 おいしいオカズは最後までとっておくようにイタリアだけはまだ訪れていなかった。がこの年より、北から順に少しつつ見て歩こうとしているところだった。

 一日に4、5本しか止まらない列車の一つが止まり、私を含めて5、6人がここで降りた。
 ホームにはパスポートチェックのため、自転車で村の駐在さんがやってきていた。私を除いて
お互い顔見知りらしい。まだ、ユーロはおろか、EUによる域内パスポートチェックの廃止前のお話である。まったく、のんびりした田舎の閑散とした駅であった。
 駐在さんは、私にここで待っているようにホームのベンチを指で示した。列車を降りた人たちはパスポートの表紙だけを見せて駐在さんに挨拶して去っていった。そのあと、駐在さんは駅長さんとえんえんとおしゃべりをはじめた。
 もう一人、誰か残っているのを忘れてもらっては困るのである。そこで私は一段と声を張り上げて会話の本を読む。駐在氏はこっちをみて、うるさいな、わかっているよ、というような表情をする。

 10分ぐらいして、彼はやっとおしゃべりをやめ、私に待合室にくるように合図した。そして中のベンチに腰をおろし私にも腰掛けるようにいう。彼はおもむろにパスポートも手にとると「マサーコゥ、マサーコゥ」といいながらポケットから黒い手帳をとりだしてみている。恐らく国際おたずね者リストのようなものと照合したいるのであろう。

 無理もない。この時期、日本人のテロリストの記憶がまだ薄らいでいなかった。テルアビブ空港乱射事件の岡本公三、大道寺あやなど国際手配中のテロリストが何人もいたのだ。だから日本人のパスポートは、どこでも「要確認・要注意」であったのだ。
 駐在さんは、パスポートを返しながら「マサーコゥというのは、ファミリーネイムか」というようなことを聞く「違う」というともう一度パスポートを取り上げて「どうしてそれを早くいわんのだ」というようなことをブツブツいいながらまた手帳をしらべている。
 やがて、面倒くさそうに、パスポートを返すとまた助役さんと話をはじめた。


[No.4491] ヨーロッパのあっちこっちへ 9 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/01(Sun) 08:34
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 9
画像サイズ: 593×225 (22kB)
  不覚!「両替ができない」

 駅をでると人気のない通りにでた。早速、銀行を探す。あった・あった。BANKAなんとかという看板がでている。喜び勇んでいってみるとシャッターがしっかり締まっていて「CHIUSO」という札がぶらさがっている。30メートルぐらい先にもう一軒あった。しかしここも「キウゾ」である。私のおぼえた最初のイタリア語は、この「キウゾ」である。そしてこの先なん回となくこの単語を復習させられることになった。

 私はあせった。1円分のリラ(当時のイタリアの通貨)も持っていない。
 これではホテルに泊まるどころかコーヒー1杯飲むこともできない。仕方がないからオーストリアに引き返そうとおもって駅に行ってみる。ところが、もうその日はオーストリア方面行きの列車はないのだ。いよいよ野宿かと覚悟をきめてホームの方を見るとくだんの駐在さんと助役さんがまだしゃべっている。こっちをみて「どうしたんだ?」という表情をする。BANKA・BANKAというと「いいか、よくきけ。オッジはドメニカ(日曜)であり、ドマーニはフィエスタ(祝日)である。よってBANKAは今日・明日とも休みである。ところでアンタ、リラがないのか。それじゃあ困るだろう。よしよし、わしについてきなさい。なんとかしてあげよう」といって先にたって歩きだした。もとよりイタリア語が分かる訳はない。しかし、女一流の勘でなんとなくいわんとするところはわかるのである。

 通りの反対側に、いわゆるバルがある。バルといってもコーヒーショップ、煙草屋なども兼ねている。おまわりさんは私をつれてそこへ入っていった。レジのオッサンになにか話している。オッサンはドイツ語で「オーストリアシリングを持っているか」ときき、ここに出してごらんという。全部で4000円位あった。これを全部リラにかえてくれた。助かった。レートがどうだったんだかそんなことは考えでもみなかった.
 バルのオッサンに熱いコーヒーをたのむ。そして、ほろ苦いエスプレッソを一息に飲み干して店をあとにした。


[No.4492] Re: ヨーロッパのあっちこっちへ 9 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/05/01(Sun) 10:30
[関連記事

>   不覚!「両替ができない」

マーチャンの旅行記は、運動会の障害物競走に似ている。どんな難関でも最後にはなんとかかんとかしてクリアしていくのは、読んでいて気分爽快で、とても気持ちがいい。(^^♪ただ、

Bankaはチョット困る。イタリアではKは使わないのでbancaにしてもらいたい。それからフィエスタ。これはフェスタにした方がモアベターです。iが入るとだいたい、スペイン語になる傾向があるので…。★

 イタリアへいくと、商店の店頭などに営業日と非営業日が、ウィンドウなどに張り出してあることが多い。このばやい、

 平日は giorno feriale
 休日は giorno festivo となっている筈。

 下のフェスタ☆が休日というのは、その綴りからみてだいたい類推できる。が、上のフェリアと云うのを辞書で見ると、下のと同じように、やはり、休暇、バカンスなどと出ていて、戸迷ってしまう。ところが、最期まで読むと、カトリック用語では、土曜、日曜を除いた平日とある。こういうのは、もともと宗教界の用語から出ているのだろう。

 ☆フツー若い人たちの間の会話では、フェスタといえば、お祭りではなく、家に友達などを招くいわゆる『パーティー』などを指す。

 ★イタリア語ペンソ(わたしは考えるI think)は、スペイン語ではピエンソになる。


[No.4495] ヨーロッパのあっちこっちへ 10 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/02(Mon) 09:06
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 10
画像サイズ: 640×457 (93kB)
  やりくり三味のドビヤッコ暮らし

 これで急場はしのげたが4000円ではいくら当時は物価の安かったイタリアでも2日間はもたない。
 ここで、かりそめのバカボンドとしての自分をうしろにひっこめて銀行員としての自分に登場してもらう。
 方策としては2つ考えられる。一つはクレジットカードの通用しそうな国際観光ホテルに泊まる。恐らくコルチナダンベッツオまで足を伸ばせば見つかるのであろう。2つ目は、今日はこの村でつつましく暮らし、明日、ボルザノヘ出る。そこはトレンツィーノ・アルト・アデジェ県の県庁所在地であり、特急列車も止まる駅だから日曜日でも両替所は開いているはずである。検討の結果、後者の案を採用することとした。

 ところで4000円で臨時予算を組むとすると、まず宿賃と夕食代で2000円、ドビヤッコからボルザノまでバスで行くとなると800円ぐらいは計上しておかねばならない(列車の本数が少ないのでバスのほうが便利)。予備費として1000円は残して置きたい。これがギリギリの予算編成である。
 したがって、泊まりは、民宿になる。もともと、民宿は好きなので苦にならない。特にヨーロッパでは、部屋は粗末でも、一応清潔でナンキンムシなどはいないから安心である。

 なお、ドビヤッコなんて聞いたことがない、とおっしゃる方がおられましたので、地図を出させていただきます。ドロミテ山塊の谷間のようなところにあります。


[No.4497] ヨーロッパのあっちこっちへ 11 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/03(Tue) 07:29
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 11
画像サイズ: 537×480 (32kB)
  暮らしのなかに歴史が

 こうなると、先ず宿探しからはじめなければならない。ここ山間の村では、すでに陽も影ってきており、六月だというのに風も冷たくなっている。お寺の鐘のきこえるほうが村の中心地の筈なのでそっちの方向へ向けて歩きだした。しかし、村道はがらんとしていて観光客の影もみえないし、民宿らしい家もない。なんとなく不安になってきた。やっぱりスキーシーズンでも避暑シーズンでもない今は民宿はやっていないのであろうか。
 しょんぼり歩いてお寺のすぐ近くまでくると小さな農家の軒に「ZIMMER(部屋あります)」と書かれた板切れがかかっていた。家の前で子供が5人ほど遊んでいる。なかからおばあさんがでてくる。やれやれである。

 さっきの会話の本で憶えたとおり「ウナ カーメラ ウナ ノッテ」といってみる。
 するとおばあさん「ヤー ヤー」という。「ええと、クワント コスタ?(宿賃は?)」「フィユンフ タウゼント(5000リラ)」と答える。どうやらここではドイツ語一辺倒のようだ。これでは、国境の駅であわててイタリア語の予習をする必要はなかったんだ。

 いずれにせよ、心配していた宿賃のほうも朝食付きで1200円ということであればなんとかなるのでこの家に泊めてもらうことにした。お客を泊められるのは二階の一部屋で、骨董品的なダブルのベッドの他、タンスなどの家具があり、バルコニーにはいかにもチロルらしくゼラニュームの鉢がならんでいる。部屋も清潔でベッドには可愛い花柄のベッドカバーがかかっていた。部屋のそとにはトイレとシャワーがある。恐らくお嫁にいった娘さんの部屋かなにかだったのであろう。家庭的でくつろげる家である。
ここに決めた。


[No.4500] ヨーロッパのあっちこっちへ 12 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/04(Wed) 06:53
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 12
画像サイズ: 632×589 (45kB)
 夕方になって家族は牛の世話で忙しい。暮れなずむバルコニーでしばらくやすんでから人気のない村を散歩してみた。
 夕食、これも簡単に考える訳にはいかない。まず、開けているレストランがあるかどうか、予算内で食べられるか、など問題は多い。
 村のポストホテルのレストランが七時にあくことがわかった。七時きっかりにいってみると、当然のことながらお客は私ひとりである。メニューは値段の部から先にみる。結局は、サラダ、オムレツ、ワインという献立になる。これで七百円ぐらいになる筈である。
 十五、六の可愛いウエイトレスが「オムレツはケーゼのとシンケンのとがあるがどっちがいいか、それからザラドはゲミューターザラドでいいのか」などなどこれまたすべてドイツ語でたずねる。
 村の人は、すべてドイツ語を話すらしい。

 ところで、ここ南チロルは「第一次世界大戦の後の1919年、サンジェルマン条約によってオーストリアからイタリアへ割譲された地方」ということは私も知っていた。しかし、それは、この年からみれば60年前の出来事である。村民の大多数はイタリア領になってから生まれたはずである。このウエイトレスさんの場合、両親も割譲前のことは覚えていないはずである。民宿のおばあさんだって幼い日の思い出として微かにおぼえている程度であろう。それを当たり前のように、村民がドイツ語で話すのだもの、本当にびっくりした。
 少なくとも村の小学校・中学校では、イタリア語で授業をしているはずである。
 しかし、結局子どもは、学校で教わる言葉より家庭で使われている言葉が母国語になってしまうのだろうか。そんなことを考えた。
 後で考えてみると駐在さん、駅の助役さんは、土地っ子ではないのでイタリア語で話すのに違いない。もしかすると公務員はイタリア語を話す義務があるのかもーーー。
 ところで、人間、手許不如意になると、とたんにおなかがすくものである。ハウスワインは甘口でのみやすいがかなり強い。田舎風のバンをかじってはドシンとビンごと置いてあるワインをのみ、ワインをのんではパンを食べ、料理もすっかり済ませたころには、完全にできあがっていた。どうやってレストランから民宿に帰ったのか記憶に無い。夜中に目が覚めたら上着を着たままベッドにもぐりこんでいたことが分かった。


[No.4501] Re: ヨーロッパのあっちこっちへ 12 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/05/04(Wed) 10:53
[関連記事

>  十五、六の可愛いウエイトレスが「オムレツはケーゼのとシンケンのとがあるがどっちがいいか、それからザラドはゲミューターザラドでいいのか」などなどこれまたすべてドイツ語でたずねる。
>  村の人は、すべてドイツ語を話すらしい。


 昔からイタリアの領土であるのに、住民がドイツ語で話している。ということは、イタリア人というのはそれほど懐が深いのか、というのが、あっしの偽らざる読後感であった。日本人なら、日本語を強制しないだろうか。ドイツ人なら、どうか。

 ドイツには、これは移民を対象にした滞在法とかがあるようだが、その43条だかに、国の施す統合プログラムというのがあり、継続的に滞在を希望する外国人はこのプログラムに参加の『権利』がある。

 語学力が不十分のものは参加は義務となるので、これは権利と云うよりむしろ義務に近い。

 内容は600時間の語学コース、オリエンテーションは、30時間に及ぶドイツの法秩序の学習を主とするドイツ文化の理解などからなる。ドイツ語の学習については一応、600時間というしばりはあるが、繰り返し学習が出来るらしい。また、途中と最後にはもちろん、テストもあるようだ。ところで

 写真のレシートをみると、一応地名もイタリア語ドッビアーコが先で、ドイツ語トーブラッハが後だし、料理名もその順に印刷されている。←もしかしたら、これは、役所などへの手前もあるのかも。(^^♪


[No.4504] ヨーロッパのあっちこっちへ 13 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/05(Thu) 05:54
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 13
画像サイズ: 495×194 (16kB)
 お寺の鎌の音に起こされる

 カランコロン、カランコロンというややかんだかい鐘の音で目がさめた。あたりはすっかり明るくなっている。バルコニーから見渡すと、ここの家族は全員牛の世話にかかっている。今日は祝日のはず、といっても牛の世話にはフェスタもドメニカもないのであろう。
 窓を開ける音がしたせいかおばあさんが二階にあがってきた。「どう、よく眠れた? さあ、こっちにきてごはんをおあがりよ」といっているらしい。あとについて でていくと一階の居間に通された。八畳ぐらいの部屋で真ん中が太いタイルの柱になっている。「これは何?」ときくと「オーフン」とのこと。恐らくストーブの意味であろう。これを背に椅子が並んでおり座ると背中がホカホカと暖かい。一方の壁には小さなキリストの像をおまつりした仏壇か神棚のようなものがあり、一方の壁には息子さんのものらしいギターがかかっていた。多分、典型的なチロルの民家の茶の間なのであろう。 
 朝食はコンチネンタルでゼンメルパンとポットにはいったコーヒーと暖めたミルクである。そうそう、自家製のバターとジャムがたっぷり。初夏といっても山村の朝は寒い。おもわずストーブに背中をこすりつけていると「寒いの?」ときく。うなずくとおばあさんは部屋をでていった。
 しばらくすると、なにか持って戻ってきた。お皿の上にはポンドケーキのようなお菓子が。ポットには熱いミルクがもう一杯はいっていた。「これ、お祭りのお菓子、もちろんー私のお手製だよ」といいながら切り分けてくれたお菓子には干しブドウやクルミがいっぱいはいってしっとりした味だった。これをたべながらあったかいしぼりたてのミルクを飲むと身体もすっかり温まった。 
 やっぱり、ここに泊まったのは正解だった。大きなホテルにはこんな手作りのホスピタリティーはない。お勘定のとき、お礼に日本手ぬぐいをあげた。おばあさんはめずらしがって家族のもとに見せにいった。


[No.4506] ヨーロッパのあっちこっちへ 14 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/06(Fri) 06:29
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 14
画像サイズ: 490×309 (24kB)
 チロルの谷のお寺

 おばあさんによくお礼をいって宿をでる。バス停は村の中心、お寺の前にある。バスの出発時刻まで、まだ一時間もある。お寺の前には村人が4、5人集まっておしゃべりをしている。男は背広にネクタイ、女はスーツをきている。すでに日も昇って暖かくなってきた。だんだん、村人の数がふえる。ついに、広場は人で埋まった。村民の殆どがここへきているようだ。だいたい、服装は日本でいえば大正か昭和の初期のものとおなじ、なかには、チロルの民族衣装の人もいる。みんな精一杯おしゃれをしてきたのであろう。なんだか時代劇をみているような錆覚におちいってしまった。やがて時間らしく会員お寺のなかにはいっていった。この時期、こうやって正装で祝日にお寺参りをするところはヨーロッパ広しといえどそうそうはない筈。山村だということも確かにあろうが、そればかりではない。やはり、村の教会は心ならずもイタリア国民として生きていかねばならないチロルの民の心のよりどころでもあるのではなかろうか。


[No.4511] ヨーロッパのあっちこっちへ 15 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/08(Sun) 06:51
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 15
画像サイズ: 670×261 (30kB)
 ヨーロッパのあっちこっちへ 15

 チロルの谷をバスがゆく

 そうこうしているうちにバスがやってきた。バスで面白かったのはワンマンでなく車掌、しかもれっきとした若い男の車掌を乗せていたことである。それほど乗降客がいる訳でもなく、それほど、危険な山道を走るわけでもない。げんに、ドイツ、スイス、オーストリアの山中を走るポストバスは今まで見た限りすべてワンマンであった。 やはりこれはイタリアの失業対策に由来するものであろうか。

 バスはブレッサノーネ、キウザなど途中下車したい気持をおさえるのが難しい程、可愛しく、美しいチロルの山間の町や村を通っていく。この道は深い谷になっていてイサルコ川に沿った道の両側はバスの窓からは見えないほど高い山なみがつらなっている。こんな深い道を当時のひとびとは馬車で旅したのであろうか。

 でも、私はいま一つ、自ら組んだこの旅程に満足していない。「いつかイタリアへいく時はブレンナー峠を越えていく。かつてゲーテもモーツアルトもそうしたように」と、これはずっと以前から心に決めていたことであった。しかし、今回の旅程ではリユブリアナをいれるなど、かなり欲張ってしまったのでブレンナー峠の上に立つことはできなかった。これはやむをえないのである。
 道の両側は少しずつ開けてきて、約二時間後、バスはボルザノの街に着いた。

 まず、駅の両替所にとびこんでリラを手にいれた。とにかく、当時でも日本円の四倍ぐらいにはなったので、すっかりお金持ちになったような気がした。ついでに、二日後のローザンヌまでのTEE(ヨーロッパ横断特急)、シザルパン号の指定券を買っておいた。ちなみに、シザルパンは古代ローマ時代の「北イタリア」地方の呼び方にござりまする。当時のTEEには「ヘルベチア号」とか「ラインゴールド号」とかヨーロッパ的な教養がないと理解できないような難しいお名前ばかりが並んでおりました。


[No.4512] ヨーロッパのあっちこっちへ 16  投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/08(Sun) 06:56
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 16 
画像サイズ: 477×425 (28kB)
  成る程、イタリア料理はおいしい

 もはや、お昼である。にわか成金としてはなにかおいしいものをおなかにいれたいところである。いそいそと街へ出て行った。
 駅からほんの、四、五分のところに、花の咲き乱れるお庭がある。その奥に誰もがはいってみたくなるようなレストランがあった。どうやらホテルのレストランらしい。「HOTEL LUNA MONDSCHEIN」と伊独両語の看板が出ている(お月様ホテルです)。
 しかし、料理は本格的なイタリア料理で、ワインのおつまみはグリシーニと呼ばれる鉛筆のように細いパンであった。 パキっとしていていくらでも食べられそう。なにより、印象に残ったのはラザーニャで、あつあつの中身が香ばしい焦げめの ついた皮に覆われているところがなんともいえず美味であった。且つ、これだけで十分お腹が一杯になった。
 にわか成金さんは昼だというのに、ロゼなんか頼んで、時間をかけてゆっくりと食事をしたのであった。

 やはり、ドイツ語圏であっても、本場の「イタ飯」はひと味違うな、と思った。
 当時は日本には、まだあまり本格的な「イタ飯屋さん」はなかったので、大いに感激したのかもしれませんが。


[No.4516] ヨーロッパのあっちこっちへ 17 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/09(Mon) 06:55
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 17
画像サイズ: 294×223 (75kB)
 メラノヘむかう

 いよいよ、今回の最終目的地メラノにむかう。ボルザノからは支線に乗り準えて三、四十分といったところ。ここのホームには連絡階段がないので、線路の上を歩いて列車にたどりつく。
 ここメラノはチロル地方の領主の居城があったところ、すなわち古都である。といっても山深いことろゆえ、そんなに華やかな都ではなかったであろう。1363年には、殿様がハブスプルグ家に領地を譲ってしまい、チロルの都は1420年にはインスブルックに移っているので遠い昔の話である。

 しかし、保養地としてはヨーロッパではつとに知られたところだとガイドブックに書いてある。単に山紫水明の地というのであればチロルはどこもそうである。ここは、これに加えてアルプスの南斜面に位置しているため気候温暖で晴天の日が多いことが一段と人気を高めているとのこと。また、こういう天候が幸いしてデザート用フルーツの産地としても有名なのだそうだ。なるほどそんないいところをイタリアにとられたのではオーストリアとしても諦め切れないであろう。
 この地に惹かれた理由の一つは、海外旅行が一般化される以前に書かれた、津田正夫さんの「チロル案内」を読んだためである。著者はチロル、なかでも南チロルを心から愛していた。その気持ちが読者の私をここまで連れてきてしまったのである。


[No.4518] ヨーロッパのあっちこっちへ 18 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/10(Tue) 06:54
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 18
画像サイズ: 613×242 (21kB)
  今夜の宿は峠の茶店

 駅の近くには大きなホテルもいくつかあり、静かな落ち着いた街である。街の中をパッシリオ川というアディジエ河の支流がごうごうと音をたてて流れている。やがて道は登りになり片側はブドウ畑になっている。日差しは一段と強くなって汗ばむほどだ。やはりここは北ヨーロッパの人たちが憧れたアルプスの彼方、「レモンの花咲く国」に属するのであろう。

 ブドウ畑に囲まれて白い壁の家がある。「ヤオゼ」という看板が出ている。ヤオゼというのは オストリアでよく使う言葉で「おやつ」のことをいうらしい。成る程、そういえば「峠の茶店」という感じの家だ。
 ブドウ棚の下のテーブルで四、五人のグループがお茶の時間を楽しんでいた。団子や甘酒こそないが大きなケーキに挑戦しているようだ。ブドウ棚越しに緑深い町、そしてそのむこうにはチロルの山なみが見渡せる。こんなところに泊まれたらさぞ楽しいだろうなと思っていると、なんとレジの上に「ZIMMER」なる札がぶら下がっているではないか。喜び勇んで建物の中にはいっていった。
 若い奥さんに案内された部屋は壁もシーツもまっ白、カーテンだけが真紅のビロード。窓の外には、さっきブドウ棚の下でみたのと同じ風景が広がっていた。宿貨はドビヤッコのおばあさんのところより300円程高い。バス、トイレはないが洗面台は何時でもお湯が使える。熱いお湯で身体をふいてさっぱりすると思う存分昼寝を楽しんだ。窓からは涼しく爽やかな風が入ってくる。


[No.4523] Re: ヨーロッパのあっちこっちへ 18 投稿者:唐辛子 紋次郎  投稿日:2016/05/11(Wed) 23:40
[関連記事

>  ブドウ畑に囲まれて白い壁の家がある。「ヤオゼ」という看板が出ている。ヤオゼというのは オストリアでよく使う言葉で「おやつ」のことをいうらしい。成る程、そういえば「峠の茶店」という感じの家だ。

やっとヤオゼのスペルが分かった。ヤオゼはJauseなんだね。女性名詞だからdie Jauseになるらしい。あっしの独和には載っていなかった。ヒュッテのようなとこでもやっているらしいし、引き八百屋じゃないけれど、その時間帯になると、廻って来るのもあるらしい。ヤウゼが来た!、Jause ist da!とかいう表現もあるようだ。


[No.4525] ヨーロッパのあっちこっちへ 19 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/12(Thu) 06:52
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 19
画像サイズ: 594×234 (28kB)
ありがたかった「通訳おじいさん」

 ぶどう棚の下でお茶を飲んでいると奥さんがきて何かいっている。ドイツ語である。何回もききかえしてみたがよく分からない。すると一緒にお茶を飲んでいたお客さんのうちのおじいさんが通訳をかって出てくださった。「こちらの奥さんがいわれるにはですな、われわれは十時過ぎには寝てしまうので、遅くお帰りであれば玄関の鍵をお預けしたいとのことです」。このおじいさん、オランダの方とのこと。まったく、北欧、ベネルックスの人たちの外国語の達者なのにはいつも感心する。こういう方は、エトランゼにもよく分かるように、ゆっくりはっきり話してくださる。その達者な通訳に何回も助けられている。とくに、オランダの方の親切にはいつも感謝しています。

 昼寝のあとで街にでた。まず、靴屋にいくことにする。
 なにしろメラノで一番、楽しいことは歩くことなのだそうだ。散歩道については、リハビリ向き、シルバー向き、家族連れ向き、一般向き、健脚向きとすべてのお客を滴足させる自信があるとのこと。そうであれば、明日一日はひたすらぶらぶら歩きまわることにしょう。とすると、先ず靴を買って来なければ。

 靴屋さんの店頭には、リラ、オーストリアシリング、ドイツマルクそれぞれでの値段が出ていた。バックスキンの実用一点張りのようなハイキングシューズが3000円足らずで買えた。実に軽くて歩きやすい。近頃は、日本でも「カッコいい靴」ばかりでなく「歩きやすい靴」が増えてきたが、当時は普通の靴屋さんには、そういう靴は少なかったのである。
 ドイツ製である。この靴は翌日のハイキングをこの上もなく楽しいものにしてくれたばかりでなく、帰国後も散歩や買い物のお伴をしてくれ、その後の海外旅行にも何回となく同行し、やや
よごれてはきたものの九年後の今も健在である。


[No.4526] ヨーロッパのあっちこっちへ 20 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/12(Thu) 06:59
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 20
画像サイズ: 610×249 (37kB)
 ヨーロッパのあっちこっちへ 20
 
 ハイキング日和

 翌朝は例の真紅のカーテンから差し込む朝日と鳥の声で目覚め、奥さんの作ってくれるフリューシエティックなるもの(朝食)をいそいそと済ませて買いたてのハイキングシューズをはいて外にでた。
 まず、プロムナードを歩く。この散歩道はパッシリオ川に沿って両岸にそれぞれあり、まわりには様々な樹木が植えられている。それも、北ヨーロッパ的な杉、リラ、マロニエのみならず、これに混じってヤシ、アーモンド、ビワなど南ヨーロッパでよく見掛ける樹木が沢山ある。

 ところどころに、花壇があり、ベンチも100メートルおきぐらいに置いてある。そんな散歩道が延々3キロぐらい続いている。ベンチに腰かけると対岸の景色とチロルの山やまが望まれる。本当に素晴らしいところである。こんなところだとリハビリのため歩いている人でもついつい沢山歩けてしまうのではないかと思った。八時を過ぎると散歩をする人が段々ふえてくる。
熟年、初老のカップルが圧倒的に多い。なかには、足の不自由なご主人に手を貸してあげている奥さんもいる。

 日本にも「散歩」を売りにする観光地が、もっとあってもいいのではないか、と思う。地域振興に「散歩村」はどうでしょう。
 道はつまずかない程度に整備して、100メートル置きくらいにベンチを置く。小公園があって、古民家を利用し、土地の食材を活かしたレストランと売店と休憩所がある。村に入るのには、入場券が必要だが、これは、昼食代、土産物代として使ってもらえる。もちろん、クルマは走らせない。道は、3キロから5キロくらいの長さのものを何本か用意する。そんな村、どなたか作ってくださいませんか。応援します。


[No.4529] ヨーロッパのあっちこっちへ 21 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/13(Fri) 09:50
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 21
画像サイズ: 544×475 (51kB)
 こんにちは

 私はここであるマーケットリサーチを試みた。むこうから来る人に声を掛けてその反応でどこからきた人か調べてみようというものである。私は日本語で「コンニチワ」とはっきりいう。

 その結果、まず、私の挨拶を無視した人は一人もいなかった。日本語で「オハヨゴサイマス」「コンニチワ」といってくれた人3名(もちろん日本人ではない)。「ボンジョルノ」2名、オーストリアの人がよくいう「グリュス・ゴット」で答えた人4名。「クッドモーニング」が8名。残り40名は「グーテンモルゲン」と答えてくれた。

 少なくともここはドイツ人でもっている保養地だということはわかる。そう考えてみるとここはいかにもドイツ人好みの場所だ。ペンションはオストリア並に清潔で治安もいい。大好きな散歩道は至る所にある。山紫水明のチロルにあって暖かい日差しに恵まれ、しかも、支払いが使いでのあるリラ(当時)でよいとなればドイツ人が嬉しくならないわけがないのである。
 そして、ドイツ語が使える。

 つぎはチルロ城へいく。ここは街から5、6キロ離れている。もちろん、この理想的な散歩道がずっと続いている。道は常に車道とは離れている。万一、車道と並ぶときには、必ず、間に
植え込みや樹木がある。しかも、カーブは人がもっとも歩きやすい角度を保っている。そしてカープを曲がるとかならず新しい景色が展開する。
 チロル城は休館だった。キウゾ、ゲシュロッセンの二つの札が仲良くぶらさがっていた。しかし、今日はそんなことは一向、気にならない。ここメラノのお目当てはやはりなんといっても戸外であり、自然である。


[No.4531] ヨーロッパのあっちこっちへ 22 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/14(Sat) 06:44
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 22
画像サイズ: 609×239 (22kB)
 山の天気はきびしい

 途中、町へおりてレストランでお昼を食べた(アスパラガスが素敵においしかった)以外 朝から四時過ぎまでじつによく歩いた。宿に帰って少し休み、また街に降りていった。相変わらず暑い。どこかで遠雷がきこえる。と思ったとたん、空が真っ暗になった。雨が「ざぁっ」とシャワーのように降ってきた。と同時に涼しくなった。やれやれと思ったが、今度は気温がぐんくん下がりはじめたのである。夏姿の私はがだがた震えていた。他の人達はと見ると、てんでにヤッケやらカーガディガンを取り出して羽織っている。中には皮のジャンパーなんか着こんでいる連中もいる。気候の変化の激しいヨーロッパの人たちは慣れているのである

 私は近くのバルに飛び込んだ。そしてなにか注文しようとするとヒゲのおにいちゃんは私になにも言わせず、なにやら作りはじめた。コーヒーカップにブランデーをなみなみと注ぎ、その上に熱い紅茶をいれ、レモンの薄切りを乗せ、お砂糖をたっぷりいれて私の前に置くと手真似でぐっとひと息で飲めという。いわれた通りにすると、やがて身体中がほかほかしてきた。恐らく、ここに着いたときの私は唇の色が青くなっていたに違いない。散歩道だからよかったようなものの、ハイキングコースだったら困ったに違いない。山岳地帯独特のきびしい変化しやすい気候というものが少しばかり理解できた。


[No.4533] ヨーロッパのあっちこっちへ 23 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/15(Sun) 06:28
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 23
画像サイズ: 372×328 (16kB)
  峠を降りる

 いよいよイリアを去る日が来た。例によって、奥さんにお礼の日本手ぬぐいをあげる。奥さんがお礼にと駅までクルマで送ってくれた。
 一旦、ボルサノに出てベローナ行きに乗り替える。列車は深い谷をどんどん下っていく。この谷の東側はかのドロミテアルプスであり、ここも津田正夫さんが推奨してやまないところである。アルプス越えのルートとしては一番楽なこのブレンナー峠越えのルート、ヨーロッパの歴史の舞台として、たくさんの才能ある人々がここを通っていった。彼らはより才能を豊かに開花させるためここを通ってイタリアへと急いだのであった。
 例えばモーツアルトは(当時は悪路だったので)馬車から転げ落ちそうになりながらアティジエ河の川音をロンド形式にまとめていたかもしれない。彼は、その頃すでにかなりイタリア語が上手だったらしい。この天才は音楽のみならず、商学、数学も好きだったとか。彼の手紙はいわゆる「モーツアルトの手紙」として有名だがこの中には、旅で接した自然のありさまはほとんど出てこないということが指摘されている。おそらく、風の音も、木の葉の間から漏れてくる南の国の日差しも、白い雪で覆われたやまなみも、言葉にはせずに音楽にしてしまったに違いない。

 ゲーテは教育パパの指導よろしきを得て一生懸命勉強したイタリア語がいよいよ彼に立つときがきたことに胸をときめかしていたに違いない。そしてここに来るまえにすでにミニオンに歌わせてしまった「君よ、知るや、南の国」を馬車のなかで口ずさんで、馬車が揺れて舌をかんだかも知れない。ゲーテのイタリア紀行を読むと、なにかにつけて知りたがり屋で感激屋のわれわれ日本人と非常に似たところがあって親近感をおぼえると同時にほほえましくなってくる。

 そんなことを考えているうちに少しつつ谷が開けてくる。トレントまでは駅の標識等もドイツ語、イタリア語が並記してある。しかし、ロベレートまでくるとイタリア語のみになってしまう。    
 そして、次のベローナでミラノ行きに乗り換える。列車はロンバルディア平原をまっしぐら、そしてミラノに着いた。イタリアのほんの入り口であるミラノから去るのはなんとしても残念である。しかしゲーテのように、二度もゴッタルト峠に立ちながら「まだ、その時期ではない」と言ってイタリアへ行かずに引き返したのとはわけが違う。単に予定の休暇が終わったから帰国しなくてはならないだけのことである。
 ところで着いた駅はミラノ中央駅ではなく、ミラノ・ガリバルジ駅という、大変偉そうな名前の駅で、ここから中央駅迄は3キロほどあり地下鉄で行かなければならないとのこと。やれやれである。


[No.4538] ヨーロッパのあっちこっちへ 24 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/20(Fri) 06:48
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 24
画像サイズ: 602×389 (43kB)
 ミラノ中央駅8番線

 私の読んだ本によると、「ミラノの地下鉄には一車両20人位のスリが乗っています。特に、ナポリのドロボー学校の卒業シーズンの春から初夏にかけては実習生がたくさん乗ってきます。気を付けましょう」とあった。地下鉄のなかで私は緊張した。昼間ですいているので一車両22、23人の乗客しか乗うていない。−――とするとこのなかでスリでないひとは私のほかには一人しかいないはず。あの、おじいさんも、杖をついている人も、赤ちゃんを抱いたひともみんなスリなんだろうか。ばからしい。と思っているとほんの4、5分程でミラノ中央駅に着いた。

 この当時はパリ・ミラノ間はシンプロン越えのシザルパンが主役であった。駅の掲示によるとTEE「シザルパン」は10線から発車することになっており、ここにはスーツケースを引きずりながら大勢の人が集まっている。名物の駅弁を買おうとしたが例のセットになったものは売り切れで仕方なくサラミサンドとジュースを買った。列車は遅れている。私は心配になってきた。ジュネーブに行くについてはローザンヌで「遥かアムステルダムからケルン、バーゼルを経由してやってくる、かのラインゴールド」に乗り換えたいのだ。しかし、列車は姿を見せない。ややあって、アナウンスがあった。聞いている人の表情、動きなども合わせて判断すると、どうやら間もなく来るらしい。ただし、12番線に変更になったようだ。「ビナーリオ・ドーディチ」というのが私にも分かる。乗客はまた、てんでにスーツケースを引きずって12番線に移動する。乗客の大部分が例のヨーロッパ的なテンポで12番線にむけ、ゆうゆうと歩き、まだ着かないうちに突如、TEEは8番線に堂々と入ってきた。今度はアナウンスもない。バック一つで身軽な私はとにかく、一応8番線にいってみた。やっぱり到着した列車はレッキとしたシザルパンの看板をぶらさけている。私はあわてて飛び乗った。事態に気がついた人々が、ぞろぞろ12番線からやってきた。ところが、まだ、何人もの人がホームに残っているのに列車は走りだしたのである。そして、まるで、遅れたのはわれわれ乗客の責任ででもあるかのように長い車体をふりながら、もうぜんとスピードをあげていくのである。

 なお、遅ればせながら、昨年、ミラノ中央駅を訪れたところ、電光掲示板ができていて、発車10分前までには、番線が分かるようになっていた。


[No.4539] ヨーロッパのあっちこっちへ 25 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/21(Sat) 06:48
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 25
画像サイズ: 619×353 (38kB)
  いいえ、スイスは追いつきます

 列車に辛うじて乗れたお客たちは荷物を棚にあげて席に着くやいなやイタリアの悪口を言い出した。ドイツ語、フランス語、英語と言葉は違っていてもいっていることは一つ。イタリアのいい加減さである。言っていることは分からなくても、彼らの表情から言わんとすることはよくわかる。それでなくても、私は今まで、ヨーツパのあちこちでイタリア人の悪口を散々聞かされてきた。とくに、オーストリア、スイス、フランス、ドイツなど近隣諸国の人々は夢中でイタリア人の悪口をいう。彼らのいうことはいちいちもっともと思う。ただ、一つ納得できないのは、そんなに腹の立つ国にどうしてわざわざ遊びにくるのかということである。

 おどろいたのは私が隣の席の中年の婦人(スイスの人らしい)に「ローザンヌでラインゴールドに乗り換えたいのに定刻より40分も遅れしているから駄目でしょう」と話すと、彼女はまるで自分がスイス国鉄の総裁であるかのように、きっぱりと言った。「いいえ、あなたはラインゴールドに乗ることが出来ます。なぜなら、スイス国鉄は常に、イタリアの遅れを取り戻していますから。とにかく、スイスは全力を尽くします」。シザルパンがスイス国内を走るのはわずか2時間半である。その短い時間にどうして40分もの遅れを取り戻すことが出来るのであろうか。
 しかも、ドモドッソラまではイタリア国鉄が運転するはずである。

 しかし、ローザンヌにこのシザルパンがついたのは定刻に遅れることわずか4分。隣のホームにいたラインゴールドに乗り換えてから発車するまで充分に、時間があった。もちろん、スイス国鉄は頑張ってしゃにむにシンプロン峠を越していった。しかし、イタリア国鉄だって必死で走ったのである。


[No.4540] ヨーロッパのあっちこっちへ 26 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/22(Sun) 06:18
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 26
画像サイズ: 608×245 (20kB)
 知らないほうがいいことも

 翌日、チューリッヒからスイス航空で成田に向けて帰国。ごく普通のフライトであった。南回りだから、カラチ・香港を経由して成田につくという長旅である。
 うとうとしていると、機内アナウンスで「都合により、先に成田へ着陸し、その後、香港へ向かう」と言っていたようだった。
 日本人にとっては有難たい変更である。

 どこのエアラインでも着陸2時間前になると、キャビンの窓を開け、電気をつけて、お客を起こし食事を配り、食後の飲み物を注いで回る。食事が終わってお膳を片付け終えてしばらくすると、飛行機は着陸の準備をする。
 しかし、時間的には、もう成田上空に来ているはずなのに、一向に着陸態勢に入らないのであった。
 どうやら、旋回している模様。しばらくすると機長のアナウンスがあった。「まだ成田から着陸許可がおりない」というような内容であった。
 成田空港は、いろいろ揉めた末どうにか開港に漕ぎつけたわけであり、まだまだ反対派の激しいデモも行われていた時期であったので、そういうこともあるだろうと思い、あまり気にしていなかった。
 ところが、その後、なんと、通路に「アルコール飲物、つまみ、リフレッシュメント」を積んだカートが登場したのである。珍しいことである、と同時に「これはきっと長引くな」と思った。    
 しかし、乗客のなかには、旅仲間と楽しそうにビールで乾杯しているひともいた。


[No.4541] ヨーロッパのあっちこっちへ 27 (最終回) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/24(Tue) 06:06
[関連記事

ヨーロッパのあっちこっちへ 27 (最終回)
画像サイズ: 254×435 (12kB)

 知らないほうがいいこと 後編

 楽しんでいた「飲み会」は、急遽中止となり、スチュワデスさんは、バタバタと片付け始めた。
 そして、突如、着陸態勢に入ったのであった。

 飛行機を降りて、パスポートコントロールを通り過ぎたところで、我々は、何人かの男性に包囲された。そのうちの一人が「Y新聞のナントカと申します。無事でよかったですね。怖かったでしょう」と仰せられたのである。聞かれた方は「きょとん」としていた。逆に乗客側から「何のことですか」と質問する始末。

 実は、乗っていた飛行機の機体は、マグダネル・ダグラス社のDC10。
 この機種は、それまでもいろいろトラブルがあったらしいが、 極めつけは1979年5月25日にはアメリカン航空のロサンゼルス行き191便がシカゴのオヘア空港を離陸した直後に墜落、死者273人を出した大惨事。この事故が機体そのものの欠陥によるとの見方から、アメリカ連邦航空局はDC-10の耐空証明(自動車の車検に相当)の効力を一時停止したため、他の国の航空当局も追随、全世界のDC-10が急遽、運航禁止になった。(これは、のちに冤罪で機体整備上の問題とわかり、7月11日に解除された) ところが、それを知ってか知らずか、スイス航空は離陸してしまったのであった。

 香港も、日本の運輸省(現・国土交通省)も、乗り入れを拒否した。ついに、スイス航空は「さまよえる航空機」になってしまっていたのであった。
 機長と管制塔との激しいやり取りが続いていたようだ。そしてついに「いよいよ燃料がぎりぎりになりつつある。他の空港を目指すという選択肢はない。乗客のうち80名は成田でおりる。その乗客のなかに大勢の日本人がいるはずである。この乗客を道連れにすることは覚悟のうえだろうな」と言い出した。これを聞いて当局は慌てたらしい。そして、おそらく官邸に相談の上、人道上の理由で「着陸許可」を出してくれたらしい。
 機長が情報を公開しなかったために我々は何も知らずに、キャビンでたのしく過ごせたのである。
 ときには「知らないほうがいいこと」もありますね。(知ったところで我々には、何もできないもの)
 ―――という訳で、この旅も無事終わりました。お読みいただきましてありがとうございます。

  明日からは「新世界(カナダ・アメリカ)の旅(1980年)」をお送りします。
 よろしくお願い申し上げます。