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[No.4542] 新世界を旅する  1 (1980年) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/25(Wed) 08:30
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新世界を旅する  1 (1980年)
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 この旅は、その年の2年前に行ったミュンヘンでの老牧師さんとの出会いからはじまった。

 その日は、「フレスコ画に彩られたオーバーアマガワ」「リンダーホーフ城」をみて来るつもりだった。
 しかし、当時からローカル線は本数が少なかった。なんとかミュンヘン6時45分発の列車に乗りたい。しかし、いくら朝の早いドイツでも、朝食は6時半から。ああ折角の朝食が食べられない。でも、ダメモトでレセプションのオネエサンに頼んで見た。「じゃ、6時にご用意しましょう」と言ってくれた。

 翌朝、広い食堂の隅のテーブル2つに明かりが灯り、コーヒーカップとお皿が置いてあった。  
 そして、隅のテーブルには、すでに誰かが座っていた。挨拶をするとその方は「お一人なら、こっちのテーブルへいらっしゃいませんか。ご一緒にいただきましょうよ」と声をかけてくれた。そして「自分は、アメリカ東海岸のコネチカット州でルーテル派の教会の牧師をしています」と自己紹介をした。「仕事でヨーロッパへ来たついでに「キリストの受難劇」で有名なオーバーアマガワへ行きたいと思いまして」と説明してくれました。
 
 「ああ、コーヒーのお代わりはいかがですか。お注ぎしましょう」といってくれ、話を続けた。
 「私は、日本の方が好きなのです。小さい時に母が亡くなりまして、私は乳母に育てられたのですが、その乳母が日系人だったのですね。立派な人でした。毎年、母の命日には、花輪を持って一緒に母の墓に参ってくれました。
 いえ。私は、スエーデン系です。が偶然ですが、娘が、いま、ニューヨークで日系企業の日本人社長の秘書をしています。どうも、日本にご縁があるようです」
 ―――などと、僅か30分の食事時間にいろいろな話をした。

 そして、住所を交換して分かれた。
 そのあと、手紙のやり取りをつづけていたが、あるときの手紙に「あなたは、ヨーロッパが好きなようだが、一度アメリカへ来てみなさい。粗末な家ではあるがよかったら牧師館に泊まってくれてもいい。ヨーロッパから、アメリカから、そしてアジアから世界を見ると、立体的に世界が見えるかもしれないから」とあった。またとない機会である。翌年、厚かましくも夏に休暇をとって数日間、牧師館にステイした。

 私は、英語はダメなのだが、「牧師さん」や「小学校の先生」などは、ゆっくり、はっきり話をして、都度、相手の反応を見ながら、別な言葉に置き換えたりしながら話をすすめてくださる。これはとても助かるのである。
 日本人だって同様である。「日本語会話入門」の類を持って恐る恐る「ハシマンシュラインヘの行き方がわかりません」という外国の方へ「アンタねぇ。行っちゃったんだよ、バスは。あっちだよ。歩いていきな」なんて平気で言う。こういう人と話していると語学に自信がなくなる。

牧師さんの教会は、コネチカット州のスタンフォード。我が藤沢市とよく似ている。ニューヨークから50数キロ。郊外の住宅地であり、工業都市でもあるが、アメリカとしては比較的治安の良い街でもある。


[No.4543] 新世界を旅する  2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/26(Thu) 06:32
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新世界を旅する  2
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  なぜか、子供の頃から、ヨーロッパには親近感があったが、私にとってアメリカは遠い国。新世界であった。実際には、成田→ミュンヘン9380km 成田→ニューヨーク10860km と距離的にはそんなに違わないのであるが。それと占領下でGHQ主導の教育を受けたためもあってアメリカに対する反発もあったのかもしれない。
 しかし、一度は行ってみるのも悪くはないんじゃないか、という気もしていた。自分の国が戦争をした相手、自分の国を占領した相手であるアメリカ人がどんな人達なのか知っておくこともいいのではないか。そんな気持ちもあった。

 ついでに、お隣のカナダへも足を伸ばしてみたいと思った。そこで、カナダ東部で、若いころ何かの本で読んだりして関心のあった土地をあげてみた。
 ノバスコシア、なかでも日本の初夏に百花繚乱の野となるアナポリスバレー、アカディア・トレイル、プリンスウドワード島、それに、首都のオタワ。

 とはいえ、クルマを持たない人間が公共の交通機関だけを利用して、これだけの地方を回れるのだろうか。
 しかし、約束の日に牧師さんに会えれば、それまでの旅が予定通りに進まなくても、どうってことはないのである。行けるところへは行けばいいのだし、行けないところはスキップすればいい。それ以外にも面白いところがあれば予定外のところへ留まってもいい。そんな気持ちで「えっ。やっ」とばかり出発してしまったのであった。


[No.4544] 新世界を旅する  3 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/27(Fri) 08:36
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新世界を旅する  3
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  成田、ニューヨーク間はJAL。当時既に直行便が飛んでいた。飛行時間は13時間。たしかに時間的にはヨーロッパへ行くのとあまり変わらない。

 問題は、今夜泊まる予定のカナダ・ニューブランズウイック州のセントジョンへ行く飛行機は、ニューヨークからは飛ばないこと。まず、ボストンまで行かなくてはならないのだ。
 日本の旅行社で「このフライトは予約しなくてもいいの」と聞くと「切符は現地で買えばいいらしいですよ」といった。
 
 インフォーメーションで「ボストン行きシャトル」の乗り場は教えてもらえた。
 行ってみると、体育館のような場所に、人種の博覧会みたいに多種多様な老若男女が四列に並んでいた。
 そこへ行って「切符売り場はどこですか」と周囲の人に聞くのだが、みなさんの答えは「ここに並んでいなさい」だけなのだった。わけも分からず不安な気持ちで並んでいると係の人が迎えに来て、私の列の三列前くらいまでの人を連れて行った。私がなにか聞こうとすると「ネクスト」という。
 3−40分すると、またクダンのオネエサンが来て、残っていた人を連れて行く。どこに連れて行かれるのだろうと思っていると、な、なんとそのまま、飛行機に乗せられてしまった。
 席につくと、通路が辛うじて通れるくらいの胴回りのオバサンが、何かが印刷してある「わら半紙」のような粗末な書類を配っている。記入欄は、たしか、住所・氏名だけだったように思う。どうやら事故などに備えた保険の申込用紙のようだった。すぐさま、オバサンは、くしゃくしゃのわら半紙を回収し無造作に箱に突っ込んで降りていった。じきにドアーが締り、飛行機は離陸した。
(あとで分かったところでは、飛行機が墜落し、遺族が保険金を請求するときに、この、わら半紙に書かれた住所氏名が「誰かさん」が搭乗していた証拠になるのだということらしかった)


[No.4547] 新世界を旅する  4 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/28(Sat) 07:01
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新世界を旅する  4
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 「無賃乗車」の経験はまったく無くはないが、飛行機の「無賃搭乗」は初体験である。
 ところが、飛行機がクルージングスピードになると、戦前のバスの女車掌さんみたいなカバンをぶら下げた人が、通路を回りはじめた。やはり立派な体格で両腕が制服の半袖のポロシャツから突き出ている。  
 何やら言っているが、どうやら「切符をお切らせ願います」ではなく「切符をお買いください」らしい。ははぁ。切符は車内で買えばいいんだーーーとやっと理解できた。

 指定された金額(たしか、1万円位だったのではないか)を払うと、ちっぽけな切符とお釣をくれた。(さすがアメリカ、支払いはクレジットカードでもいいようだった)
 なるほど。切符は機内で買うのか。でももし、お金を持っていない人がいたらどうするのかしらと、隣席のアメリカ人らしいオジイサンに聞いてみたら「もろん、窓から放り出すのさ」と言っていた。だから客室乗務員は愛嬌よりも体力が尊重されるのかもしれない。

 とにかく、誰も窓から放り出されることなく、飛行機は、無事、ボストン空港へ着いた。
 あとでわかったことであるが、このシャトル便、朝や夕方などの繁忙時は10分から15分程度間隔で飛び立っているらしい。まさに地下鉄並だ。

 やはり「アメリカ」は新世界である。

 セント・ジョン行きのカナダ航空は、ごく普通のフライトであった。スナックの大きな紙コップに入った薄いコーヒーと、しょっぱい大量のサラミを挟んだバケットにむしゃぶりついているうちに、カナダ、ニューブランズウィック州の「セント・ジョン空港」へ向けて着陸態勢に入った。
 思えば、JALでの機内食以降、なにも口にする暇がなかったのであった。いくら空腹でもあの大量のサラミ・サンドイッチを征服するのは無理だった。
 金髪のオネエサンが、まだ3分の1くらい残っているパンを指差して「フィニッシュト?」といいつつ片付けてくれた。


[No.4549] 新世界を旅する  5 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/29(Sun) 12:05
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新世界を旅する  5
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 ところで、私の行ったのは カナダ、ニューブランズウィック州の「セントジョン(St.John)」なのですが、ここから北東部に位置する大きな島「ニューファンドランド島」の「ニューファンドランド・ラブラドール州」の州都は「セントジョンズ(St.John’s)」といいます。名前が似ているので現地の人でも間違えるそうです。こちらのほうが大きな街です。

 「なぜそんなところへ行ったの?」と思われるでしょうが、じつは、私の行きたかった「ノバスコシア」へは、当時は橋がかかっていなかったのでフェリーで渡らなければなりませんでした。その本土側の港が、セント・ジョンだったのです。
 民宿などありそうもなかったのでホテルを予約してきていました。
 ホリデーインです。
 予約したのは、ここだけです。あとは、その場その場で探していました。
 と言いますのも、当時は「郵便のやりとり」でホテルを予約するわけですから面倒なのですね。返事が来ても「その日は、たまたま空いていない」と言われることだってあったのです。
 
 当時の写真をみて、つくづく思ったのは「やっぱり当時は若かったのだな」ということです。だって、自宅をでたところから計算すると、実に40時間くらい経っているわけでしょう。それを疲れもみせずに、ホテルに荷物を置くとさっそく街の探索にでかけていたようですから。もっとも、初夏のカナダは、ほぼ白夜です。「知らない街の女の夜の一人歩き」という雰囲気はないのです。

 演歌に出てくる「最果ての港町」という雰囲気は感じませんでした。何か力強いオトコの街、冒険のできそうな街、というイメージでした。機会があれば滞在したい街です。


[No.4551] 新世界を旅する  6 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/30(Mon) 08:01
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新世界を旅する  6
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 このセントジョンという街のある「ニューブランズウィック州」のお隣の「ケベック州」。ここの公用語はご存知のようにフランス語です。
 ところで「ニューブランズウィック州」はカナダで唯一「公用語はバイリンガル」という州なのです。エドモントンという街など、93%の市民がフランス語を話すのですね。
 また、これから行く「ノバスコシア州」は、州名はラテン語で「新たなるスコットランド人の国
 (New Scotland)」の意味なのです(ま、早く言えば「カッコよく言ったわけですね」)。
 この、ノバスコシアには、まず、17世紀のはじめフランス人が移住しアカディア植民地をつくったのです。しかし、英国軍の手で、フランス系の人たちはほとんど追放されちゃいました。いまはこの州は、ほぼ完全な英語圏です。「アカディア」とはノバスコシア州など住む「フランス人移民の子孫」のことのようです。
 事ほど左様に、カナダもなかなか複雑な国なのです。
 
では、楽しい船旅に行きましょう。港には、なかなか立派な船が入港していますよ。
 その名も「Princess of Acadia」。これが、ノバスコシアの Digby まで、2−3時間で運んでくれます。もちろん、人間も乗っていましたが、貨物が多かったですね。
 お天気もよし、高波もなし快適な船旅でした。


[No.4555] 新世界を旅する  7 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/05/31(Tue) 09:19
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新世界を旅する  7
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 なかなか大きな船で、キャビンのほか、レストランや、キオスクもありました。
 が、私は甲板で外の景色を眺めていました。今でもそうですが、海を眺めていると幸せになります。

  当時のことですから、東洋人の女性の一人旅、というので珍しがられて、甲板に屯している乗客からいろいろ聞かれました。
 一人できたのか。どうやってここまで来たのか。なぜ、こんな所へ来たのかーーーなどなど。
 「ニューヨークからボストン経由で、セント・ジョンまできた」と言いますと「It’s a long way!!」と言っていました。
 
  3時間弱の船旅はじきに終わり、みなさんは、クルマをとりに船底のパーキングへ行ってしまわれました。
 私は数少ない「Foot Passenger」ですから、さっさと降りて荷物を持って、鉄道の駅に向かいました。
 クルマを持って乗らなかった数人のお客さんは、埠頭に家族などが迎えに来ているのです。

 一人で駅に向かって歩いている私を見つけると、続けざまに何台もの車が止まってくれました。
 「どこへ行くの。駅まで?そりゃ大変だ。乗って行きなさい」と親切に言ってくださるのです。駅までは、僅か15分程度の距離です。あんまり皆さんにご心配をおかけしてはと思い6人目くらいの方のクルマに乗せていただきました。クルマもさることながら、ご本人も高級そうなスーツをかっこ良く着こなしておられる白髪の紳士でした。
 下さった名刺には「Salomon Brothers」と書いてありました。当時が全盛期だったようですがアメリカで知らない人はないような会社でした。あの後じきに霞んでしまったのですが。きっとオエライサンだったのでしょう。彼は名刺を渡しながら「カナダでも合衆国でも、もし何か困ったことがあったら、ここへ電話をしなさい」と言ってくださいました。厚く御礼を述べて駅でお別れしました。幸いお世話になるようなこともなかったのですが。


[No.4558] 新世界を旅する  8 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/01(Wed) 06:49
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新世界を旅する  8
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カナダ国鉄(VIA)は、あの広い国土に東西南北にわたって路線を持っています。展望車付きの豪華列車もたくさん運行していますが、当時はローカルな路線でも営業していました。今はどうでしょうか。
 Digby駅はなかなか立派ですが、当時から貨物が主役で、人間様の利用は少なかったようです。
Annapolis Royalまでの鈍行列車には乗客は私以外には一人だけです。
Digby とAnnapolis Royal間は僅か20キロメートルくらいしか離れていません。あっという間に着いてしまいました。
 ノバスコシア州はさつま芋のような形の島(正確には半島)ですが、Digby もAnnapolis Royal もファンディ湾沿岸の内海に向いた町です。

 向かっているAnnapolis Royalは、一時はノバスコシア州の州都でしたが18世紀中頃、州都がハリファックスに移ってからは、カナダ東部にしては温暖な土地の利を活かして野菜や果物づくりで暮らしていたようです。

 まずは、今夜の宿を確保して荷物を預かってもらわなくてはなりません。たしか、民宿のことは、タウンホールのなかにあった村役場のオフイスのオバサンに教えてもらったと記憶しています。宿に電話で聞いてくれて「朝食だけでなく夕食も出せるそうよ」と言っていたので2食つきでお願いしました。「夕食は、ナントカ・タリアンだけれどいいですか、と聞いているわよ」といいますので「何のことかな」と思いましたが、みなさんの食べられるものなら私にも食べられるはずとオーケーしました。


[No.4559] 新世界を旅する  9 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/02(Thu) 07:31
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新世界を旅する  9
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 さて、その民宿へいってみますと、これがまた、結構な邸宅なのであります。
 パンフレットによりますと「ノバスコシア」が一番輝いた時代、1885年の建築とのことです。
 ステンドグラスといい、マントルピースといい、なんともクラシックです。客室7室が、それぞれ素晴らしいです。
 そして、オーナーの、バーバラさん、テイラーさんが、自分たちの仕事に誇りを持って熱心に取り組んでおられるのが嬉しかったです。

 民宿に泊まるというのは単に安いというだけでなくて「土地の人の暮らし方」や「その土地の家、家庭」についていろいろ知ることができるまたとないチャンスなのです。

なお、屋号の「Bread and Rose」は、20世紀初頭、紡績工場の女工さんたちが叫んだ言葉。「もちろん、生活が出来るということは大事よ。でもそれだけじゃなくて少しは身近に美しいものも欲しいわ」という言葉からとったものです。


[No.4560] 新世界を旅する 10 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/03(Fri) 06:59
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新世界を旅する 10
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 夕食の時間になりました。
 立派な食堂で宿泊客が一堂に会していただくのです。
 驚いたことに、前菜にも、メインにも、デザートにも「肉らしいもの」が入っていないのです。
 それを見て「ナントカ・タリアン」の意味がわかりました。はい。もちろん「オバタリアン」ではありません。「ベジタリアン」のことだったのですね。

 私は、今も昔も牛肉、豚肉はそんなに好きではありませんから、むしろ美味しく感じました。
 あとから聞いた話では「ベジタリアン」にも二種類あって「厳格派」と「まあまあ派」があるのですって。「厳格派」の人は「卵」や「乳製品」もご法度だそうです。完全なる精進料理を目指します。

 幸いなことに、このお宅は「まあまあ派」なので、「卵」や「乳製品」を上手に使ってヴォリューム感たっぷりのお食事を用意してくださったので大満足でした。

 ただ、気に入らないのが、コーヒー、紅茶の代わりに「ハーブティー」しか与えられないことです。正直「煎じ薬」みたいな飲み物は苦手です。

 まだまだ、当時の日本では、ダイエットだの、ベジタリアンなどと言うものは一般的でなかったのです。しかし合衆国もそうですが、カナダにも、健康志向、宗教的哲学的な動物殺傷反対主義者などなどいろいろなベジタリアンが大勢おられたのですね。
 あとで分かったのですが、この宿は「ベジタリアン」たちおすすめ宿だったのでした。

 少し疲れました。アチラでは、みなさんと会食するときは、黙々と食べてはいけなくて「おしゃべり」をしなくてはならないのですね。もちろん、おしゃべりは大好きですが、外国語でのおしゃべりは苦手。そこで、彼ら三組の中高年カップルは、私を「おしゃべりの仲間にひき入れようと、いろいろ話しかけてくださるのです。質問の意味を理解し、適切な答えを考えるのは不慣れな私には大変な「お仕事」でした。
 ああ、しかし「何事も経験」というお題目を唱えながら、一生懸命質疑応答に対応したのでありました。


[No.4562] 新世界を旅する 11 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/04(Sat) 06:42
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新世界を旅する 11
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 夕食後は、全員でお散歩です。緯度の高いところですし、夏時間とあって、まだまだ明るい。
 案内してくださる宿のご主人は薄いウインドブレーカーを羽織っておられたので、私もジャケットを着て、ついて行きました。
 先にお話したように、ここらは、アカディアの戦いの遺跡のあるところなのです。
 アカディアというのも、ケベック州の人たちと同じフランス移民なんですが、こっちのほうが古いのです。17世紀のはじめに合衆国のメイン州に上陸して入植したのですね。そこから、ここカナダのノバスコシアのアナポリスへ移ってきたのです。多分こちらのほうがファンディ湾の奥で、紀行が温暖だったのでしょう。だから、ここで、野菜や果物の栽培をして生計を立てていたのでしょうね。
 アカディアの語源は、ギリシャ語の「アルカディア(理想郷)」から来ていると言われています。
 しかし、イギリス軍の執拗な攻撃にあい、ここも理想郷ではなくなってしまいます。
 この戦闘の記念物や当時の建物が「遺跡」としてこの村に残されているのです。
 ご一緒した方は、カルフォルニアのご夫妻、カナダのオンタリオ地方の方、ご当地・ノバスコシアの方でしたが、皆さん、とても歴史や古い建物の保存などに関心の高い方のようで、ご主人の話に熱心に耳を傾け、質問をしておられました。
 何しろ、私は英語力が限られているので、中身はよくわかりませんが、一つだけ印象に残っているのは人口過疎地の悩みです。「この村の人口は、800人」と聞いて私が羨ましそうな顔をしたらしいのです。何しろ当時の日本は高度成長期、首都圏は人で溢れかえっていて、通勤電車に乗るのに「尻押しさん」が必要だった時代ですから。ご主人は「人口過疎地を維持していくのは大変なのです。どんな小さい村でも、学校や消防などの施設が必要。維持費は大きな村と大して変わらないのです」といっておられました。40年近く経って日本も過疎化に悩まされるようになり、あのときのご主人の「悩み」が理解できるようになりました。(因みに2013年の人口は481人です)。
 日が暮れてくると寒くなります。カナダはやっぱり寒いところです。
 宿に戻り、みなさんとハーブティーを大きなマグカップで飲んで温まりました。


[No.4592] 新世界を旅する 12 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/19(Sun) 20:11
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新世界を旅する 12
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 北米最古の町のひとつ、といわれているだけあってアナポリス・ロイヤルには当時の大砲など「戦争遺産」がたくさんありますが、翌日、私は、そういうものよりも北国の「短い春」を満喫したくて村の中を歩きまわりました。 
 古ぼけた写真ではありますが、お楽しみいただけましたら幸です。


[No.4593] Re: 新世界を旅する 12 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/19(Sun) 20:15
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Re: 新世界を旅する 12
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 続きです。


[No.4594] 新世界を旅する 13 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/21(Tue) 09:53
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新世界を旅する 13
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 さて、今度は「赤毛のアン」の故郷、プリンスエドワード島へ向かいます。
 それには、アナポリスからノバスコシアの州都であるハリファックスまでは、バスで行きます。
 アナポリスからハリファックスまで、なんとバスに揺られること4時間でした。
 北米大陸では、200キロ、300キロのバス旅なんて、ハイウエイに乗ればあっという間に行けちゃう、と聞かされていたので意外でした。
 そこから、更にプロペラ機で、シャーロットタウンのホテルに着いたのは、暗くなってからです。 
 (現在は、カナダ本土のニユーブランズウィック側から橋で繋がっています。瀬戸大橋みたいなものです)
 思えば、この三日間、飛行機→フェリー→列車→バス→飛行機と北米大陸にある公共交通機関を総動員したような旅を続けていました。

 写真は、アナポリスの春爛漫のつづきと、ハリファックス行きのバスです。


[No.4595] Re: 新世界を旅する 13 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/21(Tue) 09:54
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Re: 新世界を旅する 13
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 写真の追加です


[No.4596] 新世界を旅する 14 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/22(Wed) 08:32
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新世界を旅する 14
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 シャーロットタウンの宿は、The Islander’s Motor Lodge という、今の日本の感覚でいうところのビジネスホテルのようなところでした。特に問題はないのですが、いかんせん、レストランがついていないのです。そして、近くに飲食店や食品店もない。お腹の空いた私は、食べ物屋さんを探して歩き回っていました。そのうちにオフイス街というより霞が関の官庁街のようなところに入り込んでしまいました。日曜日だったこともあり、辺りは真っ暗、人通りもありません。間違っても食堂が営業していそうにありません。

 気が付くと、後ろからクルマの音がします。振り返るとパトカーです。中からお巡りさんが出てきて「アンタは、どこへ行きたいの」と聞きます。挙動不審と見られて職務質問されたのでしょうね。でも私は助かりました。「実は、夕食を食べたくて食堂を探しているのです」と答えますと「パトカーに乗るように言われました。そして、相棒のお巡りさんと、ゴソゴソ話をしているのです。話し終わると私の方を見て「アンタは、何が食べたいの。カナディアン・クイジーンでいいのか、それともフレンチ? チャイニーズ?」と聞きます。「何料理でもいい、ここから一番近いところがいいです」と答えました。
 パトカーは、私を乗せたまま、Uターンして、いくらか賑やかな通りに出ました。そこに小さい飲食店があり、テラスで、数人が食事をしていました。ポリスは私をここで降ろし「いいか、40分したら、迎えに来るから、食事を終わっても動かないでここで待っていなさい」と言い置いて何処かへ行ってしまいました。
 料理は想像していたより美味でした。もしかすると「クラムチャウダー」という料理かもしれません。魚介類と野菜の入ったホワイトシチューのようなものでした。デザートは、薄いコーヒーとスグリのパイです。お腹いっぱいになり、お値段もリーズナブルでした。そして迎えに来てくれたパトカーで宿に送っていただきました。親切なお巡りさんに最敬礼っ。日本のお巡りさんだったらこういう時にはどうするのかしら。


[No.4597] Re: 新世界を旅する 14 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/22(Wed) 08:33
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Re: 新世界を旅する 14
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写真の追加です。


[No.4598] 新世界を旅する 15 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/23(Thu) 07:53
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新世界を旅する 15
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 セントローレンス湾に浮かぶプリンスエドワード島というのは、そのままひとつのカナダの州でこの時点で私の居るシャーロットタウンが州都なのです。
 プリンスエドワード島の特産はジャガイモ。しかし、この島の名を世界に知らしめたのが『赤毛のアン』シリーズを書いたL・M・モンゴメリさん。彼女のおかげで、当時から、夏場は観光客で賑わっていたのですが、NHK朝ドラ『花子とアン』のおかげで最近は日本からの観光客も増えているそうです。

 翌日の午前中は、この街をぶらぶらしました。
 カナダが独立する際、カナダ建国会議が開かれたという由緒ある歴史を持つ島の州都らしく、ちょっと気取ったおしゃれな街でした。
 ところで、赤毛のアンAnne of Green Gablesを知らない女性なんていないんじゃないかしら。
 「あしながおじさん」の主人公ジュディもそうですが、アンも、カスバート家にくるまで、かなり辛い子供時代を送っていたのに、明るく前向きなのですね。持て余すほどの想像力を持ち、おしゃべりで目が輝いている女の子。私、こどものときから、アンが大好きでした。そしてこのストーリーのキモは、アンが成長して行くと同時にカスバートもマリラも成長していく、というか、年寄り二人もアンから得るところが多かったということですね。何度も読みましたし、そうそう、アニメも見ました。
 あのアニメもよかったですね。放映時、高齢だった亡母も、欠かさず見ていました。

 そうです。午後のバスで、私も、その「赤毛のアン」の住んでいたキャベンディッシュへ行ったのです。


[No.4599] 新世界を旅する 16 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/24(Fri) 08:27
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新世界を旅する 16
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 シャーロットタウンから「赤毛のアン」が住んでいたことになっているアボンリー村(モデルは、モンゴメリーさんの住んでいたキャベンディッシュ)はバスで4−50分くらいのところです。
 バスから見た海辺は、藤沢あたりから見る相模湾とは全く違います。
 土壌は、文字通りの「赤土」。この上に広がる起伏のないじゃがいも畑。海の色も違います。

 キャベンディッシュには、森や林も見えましたし僅かですが建物もあります。
 しかし、全体として、寂しそうなところです。
 「ああ、アンは、こんなところで育ったのだ」と、しみじみ思いました。

 モンゴメリーさんは、故郷に限りない愛着を感じていたから「赤毛のアン」のなかには、この地方の風景がひとつずつ出てくるのでしょうね。

 また、ここでも、まずは宿探しです。
 さいわい、通りにそったところに「Parkview Farm Tourist Home & Cottage」という大衆的な民宿に「Vacancy」という札がぶら下がっていたので、ここに決めて、チェックインしました。


[No.4600] 新世界を旅する 17 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/25(Sat) 06:32
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新世界を旅する 17
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 ここは、これまでの民宿とは違い非常に庶民的です。
 着いた時、宿のオバサンは、赤ちゃんをあやしていました。宿泊している一家の赤ちゃんなのです。
 私は、前日、忙しい旅をし、その日も、まだ昼食をしていなかったので、早夕食を兼ねて、村の食堂で安くてヴォリュームいっぱいの食事を済ませて宿に戻りました。宿から飲食店や僅かなお店のある村の中心までは1キロメートルくらいあるのです。
 宿にもどると、赤ちゃんの両親が戻ってきていて、宿のオバサンは家畜の世話で外に出ていました。赤ちゃんのおかあさんは「あれっ。もう夕食も済ませてきたの。そうそう明日の朝ごはん用のパンを買ってきた? ここは一切食事が出ないから、パンを買っておいて、キッチンのトースターで焼いて、冷蔵庫からミルクをもらって紅茶と一緒にそれを食べるのよ。ああそうだわ。私達、これから村へ行くからパンを買ってきてあげる。その代わり、ここでこの子を見ていてね」といってさっさと出て行きました。聞けばエジブトの方たちとのこと。

 旅って不思議ですね。だって、初対面のアジアの女性に、エジブトの夫婦が子どもを預けて出て行くなんて。
 でも、手のかからない、人見知りしない子で、抱き上げると「キャッキャッ」と声を上げます。
 しぱらく、この子と遊んでいると赤ちゃんのママが帰ってきて、私にひと抱えもあるパンの袋を渡してくれました。値段的には安いものでしたが、これは大家族用です。


[No.4601] 新世界を旅する 18 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/26(Sun) 08:33
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新世界を旅する 18
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 このエジブトの方、カミルさんご夫妻と夜、居間でいろいろ話をしました。
 ご夫妻とも看護師さん。ご主人は「将来、医者になるつもりで勉強している」とおっしゃっていました。当時カナダでは、看護師さんから医師になれるコースがあったらしいのです。
 ただし「豚が針の穴をくぐるより難しい」とのことでしたが。
 今も昔も「針にまったく穴の空いていない日本」から来た私には驚きでした。

 「私達、とても貧乏なの。このポンコツでモントリオールから来たのだけど、このクルマ、途中、3回も立ち往生したのよ」と明るく笑っていました。
 「でも、このオバサンの民宿は、とても宿賃が安いし自炊ができるから、助かるのよ」とも言っていました。
  多忙な看護師さんの仕事の傍ら、猛勉強をしつつ、子育てをしていて、その上、プリンスエドワード島での休日を楽しむ、逞しいご夫妻をみて、新世界で新しい人生を開く気力に圧倒されました。

 旅をするということは、その土地の人たちと交流できるだけでなく、旅人同志で知りあったり助けあったりすることなのだな、と改めて感じました。


[No.4604] 新世界を旅する 19 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/27(Mon) 08:24
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新世界を旅する 19
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 翌日は、もちろん「赤毛のアン」の舞台となったアボンリー村に行きました。
 作者、ルーシー・モンゴメリーさんの生まれ育った村です。基本的には当時とあまり変わっていないので、繰り返し繰り返し読んだ「アンの世界」に浸ることができました。
 もし、日本の神奈川県藤沢市に、50年前の物語の主人公の住んだ場所を懐かしんでこられた方があっても、それは無理です。精々、当時の面影をとどめているのは江の島くらいです。そこへ行くとヨーロッパやカナダの地方では、百年前、二百年前とそう変わっていない土地が多いように感じます。

 ただ、この風景はカナダとしては特別なものではないと感じました。
 「お化けの森」にしても、私自身が小さい時に遊んだ東京・杉並の「お伊勢の森」よりは規模が大きいものの、ヨーロッパの「赤ずきんちゃん」や「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる森に比べると小規模です。
 ただ、村のはずれが海―――というのはヨーロッパやほかの土地ではなかなか経験できない風景でしょうが。

 なにより素晴らしいのは、こういう「どこにでもある村の風景」のなかに「おハゲの森」や「恋人の小道」や「輝く湖」を見出して楽しんでいたアンという子がいたということです。
 ご両親を早くなくし、辛い少女時代を送られ、のちには、モンゴメリーさん、ご主人ともに、うつ病を患われていたとのことですが、そういう著者だからこそ、普通の田舎の風景のなかに「幾つもの物語」を発見されたのかなーーーと思いました。


[No.4605] 新世界を旅する 20 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/28(Tue) 07:32
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新世界を旅する 20
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 さて、この写真にあるチューリップですが「オタワ」はチューリップ・シティーと呼ばれているのですよ。
 「あれっ。チューリップはオランダじゃないの?」と思われる方も多いと思います。

 第二次世界大戦中、ヨーロッパのたくさんの王族がカナダに亡命したり疎開したりしていました。とりわけ、ドイツに占領されたオランダについてはこんな歴史があります。
 オランダがドイツに占領される直前にウィルヘルミーナ女王はロンドンへ亡命したのです。  
 そして英国のチャーチル首相の支援の下、ここへオランダ王国の亡命政府を作りました。しかしロンドンも、相次ぐ空襲で、もはや安全ではなかった。そこで、ユリアナ王女をカナダへ疎開させたのですね。
 ところがユリアナ王女が、このオタワ滞在中に出産を迎えたのです。オランダ国内で生まれなければ王位継承権が与えられないオランダの法律に配慮して、カナダ政府は特別な措置として入院していた病院の産室をオランダ領としオランダ国旗を掲げた。すなわち、この「産室はオランダの領土である」と宣言したわけです。
 この時に生まれたのが、ユリアナ王女の三女(ベアトリクス前女王の妹)マルフリーテ王女なのですね。

 オランダ王室はこの恩義への返礼と感謝の意を込めて、毎年チューリップの球根を贈っているのだそうです。 オランダとの友好を意味するチューリップが毎年5月にチューリップ・フェスティバルの会場いっぱいに咲くことから、オタワは「チューリップ・シティ」とも呼ばれているのです。その数は10万本以上で世界最大規模のチューリップ・フェスティバルとなっているんですよ。この会場以外でも、あちこちでチューリップの花を楽しむことができます。


[No.4607] Re: 新世界を旅する 20 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/28(Tue) 07:38
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Re: 新世界を旅する 20
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 写真の追加です。


[No.4608] 新世界を旅する 21 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/29(Wed) 07:33
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新世界を旅する 21
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 さて、ガーデンシティーといわれているオタワのロッククリフにも「公園」があります。
 当然のことかもしれませんが、ここにも季節の花が咲き乱れていました。
 とにかく、オタワは、お散歩好きな方には向いています。

 機会があったら、ぜひ、カナダへいらっしゃってくださいね。そして、オタワへもお立ち寄りください。合衆国とは地続きですが、合衆国とはひと味違う国であることがおわかりいただけると思います。

 もっとカナダに居たかったのですが、翌日は、アメリカの牧師さんのお宅へ伺う日になってしまいました。残念ながら、カナダとはお別れです。
 その日は、トロント経由で、合衆国のバッファローへ行き、更に、ここからニューヨークの「ラガーディア空港」へと乗り換え乗り換えの続く空の旅で一日を過ごすことになりました。
 なお、バッファローは、ナイヤガラの滝への観光客で賑わうところです。