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[No.4609] 続・新世界を旅する 1 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/06/30(Thu) 06:55
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続・新世界を旅する 1
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 さて、バッファロー空港は、アメリカ合衆国のテリトリーなのでここで合衆国「入国審査」を受けなくては乗り換えができません。(当時は「ビザ」は必要なかったのですが)
 ところがパスポートコントロールを出たところで、警察官みたいな人に、いきなりバッグからポケットまで、調べられた上で、腕を掴まれて、別室へ連れて行かれちゃったのです。
 どうやらロビーを巡回していた警察犬が、私を気に入ってしまったらしかった。
 おまけに、バッグの中から「薬包紙」に包まれた白い粉薬を見つけたようでした。
 (薬包紙というのは、正方形の折り紙大の白い紙のことをいいます。当時はこの紙に粉薬を乗せて五角形に包んだものでした。日本でも、その後まもなく「カプセル入りの薬」の時代を迎えましたが。)

 実は、出発前に風邪をひいて咳が止まらなかったので、念のため持参したクスリだったのです。
 クスリの検査が終わるまで、グシャグシャに引っ掻き回されたバッグとともに、別室で待たされること一時間。私は気が気じゃありません。ニューヨーク行きの飛行機に乗り遅れたら、当日中に牧師さんの家に着けないのです。最悪の場合は、牧師さんに、バッファロー空港へ「もらい下げ」に来て頂かなくてはならなくなります。
 しかし、係官は完全に、私を「被疑者扱い」にして相手にしてくれない。いや、困りました。

 一時間後、係官が、戻ってきて「鑑定の結果、この白い粉は『ヤク』ではなく、単なるクスリと判明した。よって無罪放免とする」みたいなことをいうわけです。そして、警察犬のアタマを撫ぜながら「コイツも風邪ひいたかな。鼻がおかしくなったらしい」みたいなことをいうのです。私は「ワンちゃんに、この風邪薬飲ませたら」といったのですが、意味が通じなかったみたいでした。
 まずは、搭乗券を見せて「とにかく出発時刻が迫っているの。なんとかしてよ」といい加減な英語で怒鳴りました。人間、興奮すると自国語でも、ちゃんと話せなくなるものです。まして、あなた、外国語でしょう。やむを得ないです。ま、とにかく、私の苦境を察したらしく、ボスらしい人が「手伝ってやれ」みたいなことをいってくれたようです。

 一人の係官は、搭乗券を見ながら電話をかけていました。別の係官は、グシャグシャになった荷物を、無理やりバックに詰め込んで、ファスナーが少し開いたまま、ぶら下げて突っ走って行きました。もう一人の係官は、私の腕をグイグイ引っ張って搭乗ゲイトへ突っ走ります。私は転びそうになりながら引っ張られ、なんとか、飛行機に乗れました。

 私は、未だに、合衆国に対する印象があまりよくないのですが、これは初対面?の印象が悪すぎたからかもしれません。


[No.4610] 続・新世界を旅する 2 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/01(Fri) 07:05
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続・新世界を旅する 2
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 ニューヨークの「ラガーディア空港」から、牧師さんのお宅のある、コネチカット州のスタンフォード(Stamford)までは牧師さんからの手紙に書いてあった通り「コネチカットリムジン」で一時間半。街のマリオットホテルの前で降ろしてもらいました。(いわゆるマイクロバスでお客さんは三人でしたが、乗り心地は悪くありませんでした)。

 この街は、我らが住む神奈川県藤沢市と同じく、ニューヨーク市の衛星都市、ベットタウンでもあり、日本人もたくさん住んでいるそうです。
 まあ、治安も比較的よく、アメリカの東海岸のなかでは「暮らしやすい街」と言われているそうです。

 牧師さんは、ホテルの前で待っていてくれました。そして、私をダサいクルマに乗せて、教会の敷地にある牧師館へと連れて行ってくれました。
 おくさんが玄関の外で待っていました。

 さあ、ここからは、このストーリーは、カナダ旅行記から、アメリカ日記に変わります。

 この一家は、スエーデン系です。お名前はバーナードさんとおっしゃいますが、奥さんは「ベルンハルト」と呼んでおられました。
 
 あとで聞いた話ですと、奥さんは「英語もろくに話せない日本人の女性が泊まる」ということで少し緊張されたそうです。しかし、すく打ち解けることができてよかった、と言っておられたそうです。
 私には、2階の、娘さんの部屋へ案内されました。娘さんは、そのときは、ニューヨークに住んでいて日系企業で社長の秘書をしておられたので部屋は空いていたのです。
 牧師さんは「家内が、粗末なものではあるが夕食を用意しているので一緒に食べよう」と一階の食堂(リビング・キッチンのようなところ)へ案内してくださいました。
 (写真は牧師館と道路を隔てたところにあるルーテル派の教会です)


[No.4611] 続・新世界を旅する 3 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/02(Sat) 06:46
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続・新世界を旅する 3
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 奥さんの用意してくださった夕食は、メインが、薄切りの焼き肉に茹でた大量のグリーンピースが添えられているお皿、というごく家庭的な食事でした。もちろん、牧師さんのお宅ですから、食事前には「短いお祈り」があります。

 食後、牧師さんは「さて、明日から、どこか見物したいところはありますか。あなたは、音楽が好きといっていたが、カーネギーホールとか、ブロードウエイとかに、お連れしましょうか」と聞きます。
 (この家で使われている言葉、いわゆる「アメリカ英語」ではなく、楷書の英語です)
 私の希望は「ここから、どこかへ行くのではなく、ご都合がつく限り、牧師さん、または奥さんのお供をしたい」と答えました。
 牧師さんは、まっすぐ私の目を見ながら「それは、私が貧乏牧師だから、遠慮してそう言っているのではないですか」と聞きます。

 私は「そんなことはないです。いわゆるニューヨーク見物は、2日後に勤め先のニューヨーク支店にいる先輩と友達が短時間ではあるけれど付き合ってくれることになっています。私が、牧師さんや奥さんのお供を希望するのは、牧師さんの日常のお仕事や、奥さんの家庭やご近所とのお付き合いのなかからアメリカを知りたいからなのです。いわゆる見物は別の機会にもできます。でも、この地域の方々の、普通の暮らしに接する機会は、これからも、なかなかないと思いますので」と答えました。これだけ言うのも考え考え途切れ度切れでしたが、なんとか分かってくださったようでした。
 牧師さんは「そうですか。じゃ、家内と二人で、あなたの希望に極力添える滞在を考えてみます」といってくれました。


[No.4613] 続・新世界を旅する 4 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/03(Sun) 07:44
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続・新世界を旅する 4
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 翌朝、朝食後「では、今日は教団が運営している保育園と老人ホームと病院へ行く日なのでついてきなさい」と言われました。
 まずは、牧師館から通りを渡ったところにある教会へお供をして行きました。
 実は、私は3才の時から「キリスト教」の幼稚園に3年間お世話になりました。特に両親がキリスト教に関心があったわけではなく、自宅がたまたま幼稚園のすぐ前にあったからだと思うのですが。戦争中は幼稚園も閉鎖されていましたが、中学生のときは教会学校に通っていたので、洗礼を受けたわけではないのですがキリスト教的な考え方はある程度理解している方だと思います。同じプロテスタントでも、牧師さんのところは「ルーテル派」、私の通っていた教会は「長老派」に属していましたけど、大きな差はありませんから。
 まず、礼拝堂に行き、ここは聖域(sanctuary)だから、と言われましたので、私も静粛にして牧師さんのお祈りが終わるのを待っていました。
 続いて「保育園」に行きました。
 たまたま、お絵かきの時間だったのですが、3才児のクラスなのに、白い上っ張りを着て「イーゼル」の上にキャンバスなんぞ乗せちゃって、もっともらしく絵筆を動かしていました。
 一応絵らしいものを描く子、ベタベタとやたら塗りまくる子などいろいろでした。
 牧師さんが「おう、どうだ、近頃は上手くやっているか」と何人かの園児に声をかけていました。
 「おぅっ」と声を返す子、ガッツポーズをする子、牧師さんの服の裾を引っ張って甘える子、などいろいろです。
 小柄な坊やがちょっとはにかんで、小さな声で「グッド」といっていました。
 「この子は日本人なんだよ」と牧師さんが教えてくださいました。(生まれた時から外国で暮らしていてもやっぱり日本人は「はにかみ屋さん」なのでしょうか)
 
 写真は、牧師館ももう一人の住人? 名前は「ペキン」です。


[No.4616] 続・新世界を旅する 5 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/04(Mon) 06:52
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続・新世界を旅する 5
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 午後は「重い病気の人が集まっている病院」へ牧師さんのポンコツ車で連れて行っていただきました。今風に言えば「ホスピス」でしょうか。
 玄関を入ると牧師さんは「受付窓口」においてあるカード箱の中を見ていました。
 カード箱には「面会希望者リスト」が入っているのです。
 「仕切り紙」の見出しには「面会を求められている人(ほとんど宗教家のようでした)」の名前が書かれていました。

 牧師さんは「ルーテル派教会のバーナード牧師さんへ」という仕切り紙のなかから、数枚のカードを出してきて見ていました。カードには「512号室のミセス・だれそれ」とか「308号室のミスター・だれそれ」というように「面会を希望する方」の名前が書かれているのです。どの方も牧師さんの信徒で、ご存じの方のようでした。
 牧師さんは、その方々の名前を書き留めてカードケースを受付のオバサンへ返していました。
 カード箱の仕切り紙は、14−15枚ありました。

 後で、牧師さんから伺ったところによりますとーーー
 同じプロテスタントでも「ルーテル派」「長老派」「メソジスト派」「聖公会」など幾つもの宗派がある。カリックも同様。ローマンカソリック、ギリシャ正教があり、さらにその中にも宗派があり、キリスト教以外にもいろいろな宗教がある。
 当時人口5万人と言われたスタンフォード市には、ヨーロッパを中心にいろいろな国から移民が集まっていました。それぞれの方が、それぞれご自分の宗教とともにアメリカへ移住してこられたのでした。多分、結婚式も、赤ちゃんが生まれた時も、そして最後のセレモニーも、この檀那寺にお願いするのでしょう。そのため、いろいろな宗派の教会があり、それぞれの教会にそれぞれの信徒がおられる。
 
 そして、いよいよ「医者に見放された時」、患者が頼るのは宗教家、それも先祖から受け継いできた自分の宗教・宗派の宗教家なのだとーーー。
 
 (写真は、華やかとは言いがたい玄関周辺の花壇)


[No.4617] 続・新世界を旅する 6 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/05(Tue) 06:33
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続・新世界を旅する 6
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 何人かの面談にお供をして、一番印象に残っている方は、70才前後と思われる女性の方です。大きなベットに小さくなってしまったカラダを横たえておられたその方に、牧師さんは、いつものように「私の日本の友達です。今日は一緒にあなたのお見舞いに来ました」とおっしゃいます。形式的なやりとりのあと、やっと彼女は絞りだすようなか細い声で必死に訴えるのでした。「パスター(牧師さん)」と呼びかけ、
 ―――私には残された時間があまりないことはわかっています。できれば、その日までに、私の故郷、エストニアの人に会いたい、そしてエストニアの歌が聞きたい。アメリカに来て40年、まあまあ幸せな毎日でした。しかし、私は、アメリカの暮らしに疲れました。英語に疲れました。
 故郷の言葉や歌を聞けば、きっと心が癒されるでしょう。ね。牧師さんお願いよ。ーーーというような意味のことを、ちょっと甘えたような声で必死に訴えておられたのです。

 牧師さんは、細くなった彼女の手の上に、自分の手を置いて「あなたのために、出来るだけのことはしてみましょう。今度の日曜日の礼拝でも信者の方々に呼びかけて、エストニアの方を探してもらうようにします」といい、帰り際に2人でお祈りをしておられました。

 わたしは、びっくりしました。アメリカに40年暮らしていても、いよいよのときは、若い時代を過ごした故郷がこんなに懐かしくなるのか。40年間、当たり前のように使い続けてきた英語も所詮彼女にとっては外国語でしかなかったのかーーー。

 でも考えてみれば、あの方は、当時は、ソ連の衛星国であったエストニアから、多分、亡命のような形でアメリカへきていたのでしょう。そして、ああいう時代でしたから、その祖国との、行き来はもちろん、手紙のやり取りなども自由でなかったのでしょう。だからこそ、懐かしさで胸がいっぱいになっていたのでしようね。


[No.4621] 続・新世界を旅する 7 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/06(Wed) 06:31
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続・新世界を旅する 7
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 その晩は、夕食後、牧師さんご夫妻がお茶会をしてくださいました。といっても、私以外のお客さんは4−5人です。日本のビジネスマンの方も招待してくださいました。しかし、会話はすべて英語です。

 奥さんは、サンドイッチと焼き菓子、ワインと紅茶をテーブルに置くだけでお話の場に加わります。
 お客さんは、飲みたい時に飲みたいものを飲み、つまみたい時につまみたいものをつまむ。
 後は、おしゃべりです。

 牧師さんが、私にお客さんを紹介してくださるのですが、必ず、聞かれるのが「いったい、牧師さんは、どうやってこの方とお友達になったのですか?」ということです。(当然です)。
 彼は、まるで読本を読み上げるように「私たちは3年前のある日、朝6時に、ミュンヘンのホテルの食堂で会いました。」といいます。私も「そうです。そうです。その通りです」と相槌を打つ。それを話の糸口にして、会話をスムーズに進めようと考えておられたようです。

 牧師さんは日本人とのお付き合いが多いので、日本人はどうも、パーティーが苦手ということをよくご存知なのですね。初対面の人とどう話をしたらいいのかわからない。そして、その理由を「自分は英語ができないから」と決めていることも。他の国から来た人は言葉なんか通じなくても、すぐお友達を作るのにーーー。
 そのとおりなのです。でも、正直、私も、このパーティーで「お友達」はできませんでした。どんな話題でどのように話をしたらいいのか、わからないので、うろうろしているうちに終わってしまったのです。
 最近は、わたしもわかってきましたので、こういう場面では、ご挨拶代わりに、iPad の琴アプリで「さくら」を弾いたりして会話の糸口をつかむようにしています。しかし当時は、そこまで至らなかったのです。

 写真でご覧いただけるように、牧師館には、暖炉がありました。そしてピアノも。(牧師さんのものではないのかもしれませんが)


[No.4623] 続・新世界を旅する 8 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/07(Thu) 08:09
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続・新世界を旅する 8
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ニューヨーク、ニューヨーク 1

 その日は「ニューヨーク見物」に行きました。ついでも、勤め先のニューヨーク支店へも行きました。
 勤め先の元上司が、ニューヨーク支店長になっていて「折角、東海岸にくるのなら、ちょっと寄りなさい」と言ってくださったからです。
 それでなくても忙しい元上司にご迷惑をかけるのは心苦しかったのですが「あなたの当時の同僚が何人かいるから、手分けして、アテンドさせるから」といってくださったので、半日くらいはいいかな、と思って伺いました。それと、海外支店の様子なども知りたかったのです。

 スタンフォード駅までは、牧師さんのポンコツで送っていただき、ニューヨークのセントラル・ステーションまで、バスで行きました。アメリカでは、珍しい中距離通勤電車です。我が藤沢駅から丸の内へ通う雰囲気です。座席は、ほぼ埋まっていましたが、サラリーマンが、ゆったりと新聞を広げて読めるようなゆとりがあり「尻押しさん」に詰め込んでもらってやっと乗れる東京の通勤電車とは大違いでした。

 セントラル・ステーションは、東京駅や、ヨーロッパの大都市の列車の駅に比べて「なにか薄汚い」と感じました。そしてコンコースに出るやいなや、チラシを渡されました。たしかニューヨーク警察からもので「観光客のみなさま、ようこそ、ニューヨークへ。でも、お気をつけ下さい。残念ながらスリやひったくりも、あなた様のお越しを大歓迎していますので」とありました。
 このチラシ、他にも何人から人がもらっていました。でも、どうして、私が観光客と分かったのでしょう。
 おまけに、地下鉄の駅でも、添付の写真のようなビラをもらいました。
 好奇心の旺盛すぎる私は「キョロキョロ」とあちこち見回してばかりいますから、スリにはいいお客さんなのかもしれません。ただし、残念ながら、大金は持ち歩いていませんし、パスポートもコピーだけしか持参していませんでした。
 しかし、用心して、タクシーで行きました。アフリカ出身らしい運ちゃんの言っていることは、さっぱりわからなかったのですが、行き先と地図をみせたらちゃんと連れて行ってくれました。


[No.4626] 続・新世界を旅する 9 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/08(Fri) 06:44
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続・新世界を旅する 9
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ニューヨーク、ニューヨーク 2

 実は、出発前に、この「ニューヨーク支店行き」の話を上司にしましたところ「せっかくだから、私が所属していたプロジェクトの仕事の専門家が、アメリカのC銀行におられるからお話を伺ってくるといい」と言われたのです。(当時は法人業務の開発部門にいました)
 そして、さっそくニューヨーク支店を通じてアポをとってくださっていたのです。
 これが、度重なる海外旅行に於ける、後にも先にも、唯一の「海外でのお仕事」でした。
 なかなか時間が合わせられなくて、結局、先方がビジネスランチをセットしてくださったのでした。もちろん、ニューヨーク支店の人がアテンドしてくれました。

 さて、出かける前に「お手洗いを拝借したい」と支店の人にお願いしますと、鍵の束を与えられ、これで、どこそこのドアを開けて、なかにはいったら、別の鍵でお手洗い室の鍵を開けてーーーと鍵の使い方の順を教えてくれました。「ああ、ニューヨークで働くということは大変なんだな」ということを実感しました。

 なぜか、先方の指定の場所はお寿司屋さんで畳の部屋に、先方の担当者の方(日本流で言うと副部長とのこと)が同伴してこられた通訳の方が 日本語が達者なのですが中国人の方でした。
 「和室」であぐらをかいている「青い目のビジネスマン」と「日本語の達者な中国人女性」という不思議な環境でしたが、ビジネスに関することは、お互いとてもよく分かってお話は捗りました。
 ただ、あちらの通訳の方が「あなた、ニューヨークのお寿司は世界一美味しいのよ。残すと、あとで後悔するわよ」と言われたのには「えっ」と思いました。確かに、ネタは良かったです。

 写真は、あまり海外で買い物をしない私が、五番街で買った「ニナリッチ」のバッグです。
 使い古しましたがご健在。40年近くも、よくもったと思います。


[No.4628] 続・新世界を旅する 10 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/09(Sat) 06:39
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続・新世界を旅する 10
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 ニューヨーク、ニューヨーク 3

 アテンドしてくださった方が、とても個性的で楽しい方でした。和歌山県の出身なのですが「和歌山弁の英語」をしゃべるという不思議な特技?をお持ちでした。「ザット・イズ・マイ・リスポンシビリティーですがな。ハッハッハッ」とかいわれるとアチラさんも、さぞ、びっくりされたことでしょう。残念ながら若死してしまいました。

 その後は、支店長が、支店長車で案内してくれたのです。「私は、いつも一人旅をしているので、放っておいても大丈夫。どうぞ、お仕事優先でお願いします」といいますと彼は「それは分かっているけれど、一旦ここに呼んだ人は、ここから帰るまでは、きちんとアテンドするのが仕事だから」
といっていました。
 行き先は、なぜか、「自由の女神」でも「タイムズ・スクアー」でもなく「聖パトリック寺院」と、あとは一般に知られていない場所でした。
 記憶に残っているのは「運転手さん」です。背の高い初老の白人でした。支店長も彼に指示するときは「ねえ、ジョン、あの通りを公園のところで右折してくれる? そうそう、その辺りで待っていてくれよ」とやさしく丁寧に話をしていました。
 たまたま、予定より早くクルマに戻ってきたとき、車の脇でタバコを吸っている彼のニヒルで、悲しそうな表情を見てしまったのです。どういう経歴の持ち主で、どうして日本企業で運転手をしているのかーーー。

 ごめんなさい。私「景色」より「人」に興味を持ってしまうのですね。だから「人との接点の多い一人旅」が好きなのかもしれません。
 夕食に、支店長のほか、存じ上げている方数名と「シーフードレストラン」で楽しいお食事をして、電車でスタンフォードに戻りました。牧師さんが駅まで例のポンコツ車で迎えに来てくれました。

  写真は電車の時刻表と、牧師さんの奥さんとのツーショットです。
 


[No.4629] 続・新世界を旅する 11(最終回) 投稿者:マーチャン  投稿日:2016/07/10(Sun) 06:26
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続・新世界を旅する 11(最終回)
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 帰国前日は、牧師さんご夫妻が、例のポンコツで、コネチカット州ニューヘイブン市にあるイェール大学へ連れて行ってくださいました。いわゆるアイビー・リーグのひとつ。名門大学なんですが「お高く止まっている」と思っている人も多いそうです。(たしかに、白人の賢そうな学生ばかり多いようでした)。
 この学校の観光の「目玉」は図書館だそうです。
 とくに、世界にたった48冊しか残っていないと言われている「グーテンベルク聖書」の一冊が保存されていることでも有名です。

 いつも、思うのですが、外国の大学って、どうして、こんなみどりがいっぱいの公園みたいな環境にあるのでしょうか。ここも環境絶佳です。

 お昼は「ニューイングランド風」のレストランで「クラムチャウダー」をご馳走になりました。
 
 午後は、奥さんがポンコツを運転して、スーパーへ行くことになり、訪ねてきていたお孫さんと同乗させていただきました。お孫さん、とても緊張していました。 
 スーパーでは、ビニールの袋に、トリが10羽位入ったものなど、買い物がハンパじゃないのに仰天しました。どこのご家庭にも、人が2人くらい入れる大きさの冷蔵庫があるのですって。食生活を楽しむためには、東海岸の静かな街には住むべきではないのだそうです。確かに「冷蔵庫」のものばかりなんてーーー。
 
 夕方には、息子さんとそのお嫁さんも来られました。お二人とも「普通の勤め人」だそうです。

 帰国日には、牧師さんが、ニューヨークのJFK空港まで送ってくださいました。
 牧師さんには、本当にいろいろお世話になってーーー。
 斯くして、私の「新世界の旅」は終わりました。実りの多い旅でした。