みなさんこんにちは。8月15日ですね。もう70年前を記憶している方は少ないのです、私は被害者意識でずうっと過ごしてきました。加害者側でもあったのですね。今日は反省の言葉がめだちます。反省を強制されても相手に不信をいだくだけですけどね、寒梅
寒梅さん, 今日は。> > 8月15日ですね。もう70年前を記憶している方は少ないのです、私は > 被害者意識でずうっと過ごしてきました。加害者側でもあったのですね。 > 今日は反省の言葉がめだちます。 > 反省を強制されても相手に不信をいだくだけですけどね、そうですねえ。人それぞれの思いがあるでしょう。私には「世の中というものが突然引っくり返った日」と記憶しています。 中学3年生だったのに学校には行かず、シャベルを背に疎開工場の建設に山間の地に強制的に通わされていたのに、あの日は作業を切り上げて寺の境内に集合して玉音放送を聞かされたのです。 よく聞き取れず帰り道で友人たちと論争になりました。戦争がはたして終わったんだろうかと。 翌日から学校が再開されました。万世一系といっていた歴史の先生が持論を変えて、南北朝の疑問を云い出し、呆れましたっけ。
YKOMAさん、こんにちは。>私には「世の中というものが突然引っくり返った日」と記憶しています。> 翌日から学校が再開されました。万世一系といっていた歴史の先生が>持論を変えて、南北朝の疑問を云い出し、呆れましたっけ。そうですね、一番困ったのは先生でしょうね。間もなく私たちは教科書の塗りつぶしで真っ黒になった教科書で勉強でした。そういえば教科書の順送りで1年上の先輩をみつけるのに苦労しました。 --寒梅
YKOMAさん、寒梅さん & みなさん、今晩は!> > 8月15日ですね。もう70年前を記憶している方は少ないのです、私は > > 被害者意識でずうっと過ごしてきました。加害者側でもあったのですね。 > > 今日は反省の言葉がめだちます。 > > 反省を強制されても相手に不信をいだくだけですけどね、> > そうですねえ。人それぞれの思いがあるでしょう。 私には世の中が静かになった日という感想です。朝学校に行くと「今日は玉音放送があるから・・・」と家に帰されました。その帰途、空が異様に青く、あたりが異様に静かだったのを記憶しています。そして、正午の玉音放送がすんでから、私はまた学校に行きました。 そうしたら、教頭の次席の先生が登校した生徒を一つの教室に集めて「これから学校制度がどうなるか判らない。しかし、どんなことをしてでも皆の勉学は続けさせてやる。」と言われ、漱石の「坊ちゃん」を読んでくださったのを記憶しています。 それから毎日、普通の授業が始まりました。福岡県では女学校は4年制でしたから新制への変更のときに学制の変更に対処しなければなりませんでした。つまり、旧制の女学校4年(福岡県と長崎県だけ女学校が4年制でした)で卒業するグループと、新制高校の2年に進学するグループ、旧制の専門学校などに進学する少人数のグループに分かれました。 そこに教科担当の熱心な先生がいらして「女学校4年卒業でも将来のために高校3年卒業と同等の学力をつけてやる」とおっしゃって、午後は特別クラスに分け、進学希望者には体育や家庭科などは卒業に必要な時間数だけは授業を受けさせ、あとは新制大学受験に必要な高校3年までに教わるような内容の授業をして下さいました。 8月15日が過ぎてしばらくすると、男の先生方はゲートルを巻かなくなり、女の先生方はだんだんにスカートや袴姿で登校なさるようになりました。私たち生徒はかなり長いことモンペでした。まや
寒梅さん > 8月15日ですね。もう70年前を記憶している方は少ないのです、私は> 被害者意識でずうっと過ごしてきました。加害者側でもあったのですね。日中国交回復したとき悪いのは当時の日本政府と軍部であって、一般の日本国民は被害者だから....(責めてはいけない)という中国政府の指導があったようですが周恩来がいなくなってから変わったようで...少なくとも広島や長崎の原爆で被害を受けた方々や子孫のみなさん、東京大空襲で亡くなった方々や遺族のみなさんは被害者でしょう。 > 今日は反省の言葉がめだちます。> > 反省を強制されても相手に不信をいだくだけですけどね、
男爵さん> 日中国交回復したとき> 悪いのは当時の日本政府と軍部であって、一般の日本国民は被害者だから....> (責めてはいけない)という中国政府の指導があったようですが> 周恩来がいなくなってから変わったようで...周恩来さんには よい印象をもっています > 少なくとも> 広島や長崎の原爆で被害を受けた方々や子孫のみなさん、東京大空襲で亡く> なった方々や遺族のみなさんは被害者でしょう。空襲受けた地域でしたら、もっと広範囲ですね、だから日本国民は被害者・・。兵隊さんはもっともっと被害者でしょうね。
寒梅さん みなさん 私は、当日、夏休みで、草深い山村の伯父の家で「玉音放送」を聞きました。 伯父は「情報通」で、はじまる前から「重大放送は、多分、戦争に負けた」という話だろうと言っていました。 周囲の人達は 「とんでもない。そんなことがあってたまるか」と言っていましたが結局その通りでした。 「これからなにが起こるかわからないからお前は、とにかく一応家に帰れ」と言われて ひとりで帰りました。ローカル線を乗り継いで帰るのですが、汽車はどちらも平常通り動いていました。 家には母がいて 「さっき、隣の奥さんが家に来て『おくさん、戦争が終わったそうです』 というので『勝ったのですか、負けたのですか?』と聞くと、首を傾げて 『さあ、戦争が終わったそうです』と繰り返して帰ったのよ」と言っていました。 灯火管制が解除されたので、夜「電灯ってこんなに明るいものか」と感激したのを覚えています。 ーーそれが、70年前の、8月15日の記憶の全てです。
寒梅さん、YKOMA さん、男爵さん、マーチャン、みなさん こんにちは。私は1932年 9月11日うまれで、YKOMA さんの一つ下、寒梅さんの2つ年上です。現実には縁故疎開していた金沢市の郊外松任に 母と姉 弟で暮らして居ました。まともに家のラジオで聞いたんでしょうが、郊外の砂漠を歩きながら聞いたと云う強烈な印象が頭にこびりついています。そして「世の中がでんぐり返った」、んだと思いました。もっと若い小学高学年で、吉田松陰に心酔していました。それも誤解で尊皇攘夷の人 吉田松陰にです。実は 真の開国論者の吉田松陰なのに、、、混乱した話ですが、で、私は 強烈な愛国主義者でした。 オアシス> > 8月15日ですね。もう70年前を記憶している方は少ないのです、私は> > 被害者意識でずうっと過ごしてきました。加害者側でもあったのですね。> > 今日は反省の言葉がめだちます。> > 反省を強制されても相手に不信をいだくだけですけどね、> > 寒梅
オアシスさん、マーチャン皆さんこんにちは。昭和1桁生まれ(マーチャンはちょっとお若いけれど)でもそれぞれですね オアシスさんはとっても頭脳明晰な方でしたのね、とてもとても幼稚な私は学童集団疎開組みでしたが、信州のお寺さんにおりまして班長さんは集められ玉音放送を聴きました雑音も激しく内容も理解できませんでした。 敗戦 児童の間で噂が広がりました、「女子供は並べて寝かされて戦車で轢かれる」そうな・・・。 東京のお母さんを思って泣きました。 でも、その日は親元を離れた子供たちを村人がお盆に接待してくれる予定になっておりました。村人は取りやめずに好意で実行してくださいました。 おおきなスイカを井戸から吊り上げて負けたけれど大丈夫なのだと思いました。 寒梅
NHKのTV見ましたか。日を追っての記録、迫力に満ちていました。一部には徹底抗戦を主張した軍人もいたようですが、よくぞ無事に1週間を終えたものだと感慨溢れるものがありました。再放映があればいいですね。見逃した人のために。
ザックスさんこんにちは。"終戦" 知られざる7日間 ですね 台所に立ちながら見ました。子供の立場での敗戦感と違って それは大人たち政治家・軍人たちの在り様ですね、ながらではなくもう一度じっくり感じたいです。再放送 "終戦" 知られざる7日間 総合テレビ2015年8月28日(金)午前1時30分~2時28分 (27日の深夜) 寒梅
寒梅さん こんにちは。> 再放送 "終戦" 知られざる7日間> > 総合テレビ2015年8月28日(金)午前1時30分~2時28分 (27日の深夜)お知らせ、有難うございました。観てない方は録画してご覧いただきたい所です。戦争は始めるのは簡単でも終わらせるのは大変なんですね。 私は列強が続々植民地を作るのを傍観できずに、日本も真似をしたと見ています。