画像サイズ: 635×478 (97kB) | みなさん こんにちは
数年前に「伝承館」に出した後どこかに仕舞い込んで行方知らずになってたのが最近断捨離の際に出て来たので改めてご披露します。
亡父(明治32〜昭和62)に終戦間際の昭和20年3月に召集令状が来て応召するとき、職場や知己の人達から武運長久を祈って寄書きされた日の丸です。吉田松陰の詩を囲んだ寄書きで筆頭の「辰馬汽船社長 山縣勝見」氏は当時の上司で戦後の吉田内閣で厚生大臣になった人物。右隅に「応召 昭和20年3月25日」とあります。
当時亡父は神戸市内で46才の会社員。「俺みたいな年寄りに赤紙が来るとは日本ももうアカンな」と呟いたそうな。私は母や弟妹と田舎へ疎開中で中学校の寄宿舎に居たとき、職員室へ呼び出され校長からそのことを知らされました。後で知ったことですが行く先は外地ではなく、青森県弘前にある捕虜収容所の副所長としてでした。汽船会社で貿易や海上保険の仕事で英語が多少はできるというのが理由だったと聞きました。戦後に上司である所長(陸軍中尉)はBC級戦犯に指定され横浜での国際軍事裁判にかかったそうですが幸いにも父は免れて比較的早期に復員してきたときの様子は今でもよく覚えています。
この日の丸は大切に持ち帰ったようですが秘かに隠してたので家族の誰も知りませんでした。死後かなり経ってから偶然に発見したものです。庶民の昭和史の一端を物語る記念の品として保管したいと思っています。
さんらく亭@甲子園 |