ラジオ深夜便で <特集・作家 五木 寛之 聴き語り昭和の名曲>を聴きました。
「船村 徹」の2回目です。
船村 徹は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒。
大学在学時は、米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたり、盛り場で流しをしたこともあるという。
大学在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した(高野は1956年に肺結核のため、26歳の若さで死去)。 「別れの一本杉」
前回は、「矢切の渡し」ちあきなおみバージョンをラジオで流したのは 船村はヒットした細川たかしの歌を評価しなかったかららしい。 作曲家(プロ) と一般大衆の感覚のギャップ。
「風雪ながれ旅」(北島三郎)で、アイヤアイヤとはやしを入れる件で、作詞家の星野哲郎にいやな顔をされたとか。星野も自分をひろってくれた船村にだけは頭が上がらなかったらしい。 このはやしをいれたから、すごくよくなったと五木も評価する。 中山新平がよく、作詞者の歌詞に、自分で考えたはやしを入れることを要求したことを思い出す。 「波浮の港」のヤレホンニサ、「カチューシャ」のララなど
作詞作曲した「希望(のぞみ)」を自分で歌って、「味がある、さすが」と五木寛之にほめられていた。
東洋音楽学校といえば淡谷のり子を思い出す。 彼女は演歌が大嫌いで、「演歌歌手を 束にして火をつけると」と言ったセリフを思い出す。
日本の場合、音楽大学で学ぶ音楽と一般大衆の好む音楽は乖離があり、いわゆる歌謡曲は音楽の専門家から相手にされない。
淡谷のり子の発言はそういう風潮のひとつのあらわれであるが、古賀政男や西條八十らはそれを批判する。 欧米など外国では、クラシック音楽も大衆音楽も区別されずいい音楽はどこでも誰にでも愛され評価されるのだと。(日本の純文学と大衆文学のわけかたもそうだ。外国ではそういうわけかたはないという人がいる)
だから 伊福部昭や古関裕而は正規の音楽学校の教育を受けていないといって 音楽専門家は認めようとしない。 二人とも海外の作曲コンクールで受賞して高い評価を受けているのに。 音楽大学出身者の狭い考えではないだろうか。
もっとも 東京芸大教授の下記のような発言もあるから、これから日本の音楽も見直されるかもしれない。
キャンディーズ「春一番」 かまやつひろし「わが良き友よ」 ピンク・レディ「ウォンテッド」 これらは、わらべ歌の音階でできている。 だから子どもからお年寄りまでに好まれる。
どうも、明治のとき、西洋音楽を取り入れることだけ考えて、日本の伝統音楽を捨て去ったことが問題のようである。
西洋音楽と日本音楽 自分たちの立場を守っていながら西洋音楽のいいところを取り入れたり、相互に影響しあう立場がよい。
諸外国ではそうやって積極的に伝統音楽を守っている。
小泉文夫フィールドワーク 冬樹社 1985
そういうわけで、昭和の音楽をいつか見直してみたいです。
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