[掲示板へもどる]
一括表示

[No.2531] 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/01(Thu) 15:47
[関連記事

その時代、良く乗ったので記録しておきます。

何しろ、本数が少なくて良く混みました。通路に立ったり座ったり。一度は網棚に横になってる人を見たことがあります。連結器の上は始終でした。一度、石炭の上に乗っているのを見たことがあります。

少し経って、3段式の寝台車に乗れた時は感激でした。最上段で狭い空間でしたが。そのうちに、下段に横に寝れた時は幸せを感じました。今はもう普通の寝台車は無くなったんでしょう。

その後、ドイツでコンパートメントなる6人掛けの客車に乗った時は、国が違えばこういうものかと思いました。丁度、ザルツブルクへのI.Cで最後にドイツの若い女性と2人になった時は、何かと話が出来て思い出の旅となりました。用事が無ければ街をご案内出来るのですがで、残念な思いをしました。


[No.2532] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:マーチャン  投稿日:2015/10/01(Thu) 19:47
[関連記事

ザックスさん

> その後、ドイツでコンパートメントなる6人掛けの客車に乗った時は、国が違えばこういうものかと思いました。丁度、ザルツブルクへのI.Cで最後にドイツの若い女性と2人になった時は、何かと話が出来て思い出の旅となりました。用事が無ければ街をご案内出来るのですがで、残念な思いをしました。

 ヨーロッパからもコンパートメントカーがなくなりました。

 TGVなどもそうですが、日本の新幹線みたいに「速さ」が大切と思うようになったようです。

 それと「テロリスト対策」でもあるのでしょうね。

 残念です。


[No.2533] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:tenbosch  投稿日:2015/10/01(Thu) 21:38
[関連記事

  ザックスさん、マーチャン、こんばんは。

> その時代、良く乗ったので記録しておきます。

> 何しろ、本数が少なくて良く混みました。通路に立ったり座ったり。一度は網棚に
> 横になってる人を見たことがあります。連結器の上は始終でした。
> 一度、石炭の上に乗っているのを見たことがあります。

  終戦直後の汽車は本数が少なく物凄く込んだ居ましたですね、個人疎開をして
 いましたので迎えに来た者と帰る列車では佐世保に着く迄数時間立ちっぱなし
 だったのを思い出します。

 当時は乗り降りする際、乗降口以外に窓から乗り降りしていたのをよくにした
 ものです。昭和21年の6年生の時は、叔母の所が和傘の生産地でしたので傘を
 仕入れに何回も出向き、何時も往復共物凄い混雑に出会い困り果てました。

  又、列車の網棚に寝た記憶もありますが、寝心地は良くありませんでした。
 終戦直後の列車は、列車とは言えず単なる箱の乗りでした。



 
               〜〜 昭 〜〜


[No.2535] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/02(Fri) 11:53
[関連記事

>   終戦直後の汽車は本数が少なく物凄く込んだ居ましたですね、個人疎開をして
>  いましたので迎えに来た者と帰る列車では佐世保に着く迄数時間立ちっぱなし
>  だったのを思い出します。

立ちっぱなしは辛いですね。

>   又、列車の網棚に寝た記憶もありますが、寝心地は良くありませんでした。
>  終戦直後の列車は、列車とは言えず単なる箱の乗りでした。
               
網棚は狭かったですね。


[No.2534] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/02(Fri) 11:50
[関連記事

マーチャン

>  ヨーロッパからもコンパートメントカーがなくなりました。

座席はどうういう風になったんでしょうか。

日本、中国に負けて残念ですね。


[No.2536] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/02(Fri) 15:51
[関連記事

Re: 終戦前後の汽車
画像サイズ: 600×400 (61kB)
> 座席はどうういう風になったんでしょうか。

座席の1例です。


[No.2537] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/02(Fri) 16:03
[関連記事

Re: 終戦前後の汽車
画像サイズ: 312×438 (60kB)
少し新しいので古いのを上げます。


[No.2538] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:あや  投稿日:2015/10/02(Fri) 20:13
[関連記事

終戦前後にはあまり記者に乗るということはありませんでした。

母の実家のある新潟長岡へ疎開した時に、「上野」の文字を目にしました。
長岡へ着いたら、「上野」とあり、びっくり!

元へ戻ってしまったのかと思ったら、東京は「上野(うえの)」
長岡では「上野(かみの)」だったんです。

そんな思い出があります。


その後は、窓からの乗り降り、通路に寝るということをどのくらい繰り返したか。
楽しい山行きの時でした

ちびが窓からの乗り降りは大変でしたが、楽しかったです。


[No.2541] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/03(Sat) 09:15
[関連記事

> その後は、窓からの乗り降り、通路に寝るということをどのくらい繰り返したか。
> 楽しい山行きの時でした
>
> ちびが窓からの乗り降りは大変でしたが、楽しかったです。

そうだったんですか。でも当時は当たり前でしたね。


[No.2539] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:寒梅  投稿日:2015/10/02(Fri) 21:44
[関連記事

ザックスさん みなさんこんばんは

> 少し新しいので古いのを上げます。

そうそうこの形でした。高崎線も上り線は大宮の手前が一番混んでいまして
デッキにぶらさがって上尾駅をでます揺さぶられて中にはいるのです。片足の
下が線路だったなんてことも・・・。
新しくできた駅ホームに衝突で怪我をした(亡くなったかも)とゆう話もあった
のでした。

 その頃農家から買出したお米、野菜を大きな荷物にして背負ったおばさんたち
が乗り込んきましたね。闇やさん 赤羽駅ではそれぞれに散っていきました。
重かったでしょうねぇ。

昭和も24・5年のことでした。

寒梅


[No.2542] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/03(Sat) 09:19
[関連記事

寒梅さん 

> そうそうこの形でした。高崎線も上り線は大宮の手前が一番混んでいまして
> デッキにぶらさがって上尾駅をでます揺さぶられて中にはいるのです。片足の
> 下が線路だったなんてことも・・・。

何しろ混んでましたね。

>  その頃農家から買出したお米、野菜を大きな荷物にして背負ったおばさんたち
> が乗り込んきましたね。闇やさん 赤羽駅ではそれぞれに散っていきました。
> 重かったでしょうねぇ。

闇屋のおばさんが、よく駅の近くで荷を下ろしてお団子なども売ってましたね。


[No.2540] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:まや  投稿日:2015/10/03(Sat) 01:54
[関連記事

ザックスさん & みなさん、こんばんは!

> 少し新しいので古いのを上げます。

 私の記憶にある列車はこれより大変な状態でした。

 私が育った筑豊地方では石炭搬出のために鉄道が網目状態に走っていましたが
通勤通学の人を運ぶような支線の列車には半分以上に貨物車が使われていました。
客車に使われる貨車の箱の中央に太い木材を渡して(動物並み)、中には壁沿い
に板のベンチが設置されているだけでした。立っている人は大きな出入り口の横
木が頼り・・・振り落とされないように・・・大変でした。

 少し長距離を走る列車の場合はこの写真のような客車が使われていましたが、
人間は通路にまで溢れていました。夜行になると通路に寝ている人もいて、用足
しに立つのも大変な状態。それに列車がトンネルに入るとススが飛び込んできて
目を開けてもいられないありさま。

 昭和24年くらいになると、私は大学が関西なので東海道線で九州と関西を往
復することも多かったのですが、下り急行に乗る時には大阪まで出て、また、上
り急行に乗るときは博多まで行って改札から並んで列車にのることが普通でした。
それでも座席がなくて、最悪のときには上りも下りも広島あたりまで立っている
ことも度々でした。

 昭和29年、私は札幌で就職。大阪から急行「日本海」で青森までが24時間
かかり、青森から青函連絡船が4時間(?)で、函館から札幌まで7時間だった
ように記憶しています。

 昭和30年代に入ると、交通事情は目に見えて好転し、旅行も旅(たび)もだ
んだん楽になってきました。それと同時にいつも手近にあった分厚い交通公社の
時間表が姿を消してしまいました。

まや


[No.2543] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/03(Sat) 09:23
[関連記事

まやさん 

>  私が育った筑豊地方では石炭搬出のために鉄道が網目状態に走っていましたが
> 通勤通学の人を運ぶような支線の列車には半分以上に貨物車が使われていました。
> 客車に使われる貨車の箱の中央に太い木材を渡して(動物並み)、中には壁沿い
> に板のベンチが設置されているだけでした。立っている人は大きな出入り口の横
> 木が頼り・・・振り落とされないように・・・大変でした。

貨物が主だったんですね。

>  少し長距離を走る列車の場合はこの写真のような客車が使われていましたが、
> 人間は通路にまで溢れていました。夜行になると通路に寝ている人もいて、用足
> しに立つのも大変な状態。それに列車がトンネルに入るとススが飛び込んできて
> 目を開けてもいられないありさま。

私も良く鼻が黒くなった経験があります。


[No.2545] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:まや  投稿日:2015/10/03(Sat) 20:52
[関連記事

ザックスさん、今晩は!

> >  私が育った筑豊地方では石炭搬出のために鉄道が網目状態に走っていましたが
> > 通勤通学の人を運ぶような支線の列車には半分以上に貨物車が使われていました。
> > 客車に使われる貨車の箱の中央に太い木材を渡して(動物並み)、中には壁沿い
> > に板のベンチが設置されているだけでした。立っている人は大きな出入り口の横
> > 木が頼り・・・振り落とされないように・・・大変でした。
>
> 貨物が主だったんですね。

 貨車と客車と混合なんです。終戦前後のことで、客車が足りなかったのでしょう。
 山陽本線でも普通列車は座席も窓も板張りのものが走っていたくらいですから。


> >  少し長距離を走る列車の場合はこの写真のような客車が使われていましたが、
> > 人間は通路にまで溢れていました。夜行になると通路に寝ている人もいて、用足
> > しに立つのも大変な状態。それに列車がトンネルに入るとススが飛び込んできて
> > 目を開けてもいられないありさま。
>
> 私も良く鼻が黒くなった経験があります。

 本州から九州に入ると、建物の白壁が鼠色になっているのに気がついたことがあり
ます。当時は私たち女性はズボンをはきませんでしたから、スリップの裾20センチ
くらいが薄汚れて、どんなに洗っても白くならなかったのを記憶しています。

 札幌では春先の雪を触った手の白い手袋が降り積もった雪に混じったススで真っ黒
になって洗っても落ちないのに気付いたことがあります。

 石炭を燃やして出るススはありとあらゆるものを黒く汚していたのですね。石油も
化石燃料としては同じですが・・・

まや


[No.2546] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/04(Sun) 09:18
[関連記事

まやさん、

> > 貨物が主だったんですね。

昔は物が無かったから人よりモノだったんでしょうか。

今は青函連絡船なんてとうにない訳ですが、昔、学会が札幌であり、連絡船に乗りました。珍しくて船の中の風呂へ入ったのを覚えています。

又、学会の懇親会で野外でジンギスカン鍋を食べましたが、生まれて初めてで大変旨く感じました。昭和31年だったと思います。


[No.2547] Re: 洞爺丸事故 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/04(Sun) 09:32
[関連記事

Re: 洞爺丸事故
画像サイズ: 450×320 (48kB)
のちに台風でこの船が沈没し、飢餓海峡や氷点という本まで書かれて多くの人命が失われたのでした。水上勉の小説など、夢中で読んだものでした。写真は連絡船です。


[No.2548] Re: 洞爺丸事故 投稿者:まや  投稿日:2015/10/05(Mon) 00:19
[関連記事

ザックスさん & みなさん、今晩は!

> のちに台風でこの船が沈没し、飢餓海峡や氷点という本まで書かれて多くの人命が失われたのでした。水上勉の小説など、夢中で読んだものでした。写真は連絡船です。

 この洞爺丸事故のとき、私は札幌にいました。そして、教会関係で親しく存じ上げ
ていた宣教師が同乗の人に救命具を譲って事故死したニュースに接したのでした。

 長年日本にいらした宣教師でしたので、みんなに惜しまれて、私たちは悲痛な思い
で葬儀をしたのを記憶しています。

まや


[No.2549] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:まや  投稿日:2015/10/05(Mon) 00:36
[関連記事

ザックスさん、

> 今は青函連絡船なんてとうにない訳ですが、昔、学会が札幌であり、連絡船に乗りました。珍しくて船の中の風呂へ入ったのを覚えています。
>
 
 さすが、お医者さま。
 私は3等専門ですから、風呂はありません。ただ、当時の国鉄の普通乗車券では
青函連絡船の乗下船のときに並ぶのが最後になりますから、札幌在住者の入知恵で
連絡船だけは「船だけ2等」と指定して国鉄の乗車切符を購入していました。それ
でも畳を敷いた広い空間を仕切った場所があるだけの場所だったように記憶してい
ます。

まや


[No.2550] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/05(Mon) 11:33
[関連記事

まやさん、

>  私は3等専門ですから、風呂はありません。ただ、当時の国鉄の普通乗車券では
> 青函連絡船の乗下船のときに並ぶのが最後になりますから、札幌在住者の入知恵で
> 連絡船だけは「船だけ2等」と指定して国鉄の乗車切符を購入していました。それ
> でも畳を敷いた広い空間を仕切った場所があるだけの場所だったように記憶してい
> ます。

等級があったんでしたか。広い空間は何となく記憶にあります。

そう言う偉い宣教師さんもいらしたんですね。今やトンネルで繋がっているんですから。それも新幹線も。


[No.2554] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:マサちゃん  投稿日:2015/10/06(Tue) 06:56
[関連記事

ザックスさん まやさん  おはようございます

>  さすが、お医者さま。
>  私は3等専門ですから、風呂はありません。ただ、当時の国鉄の普通乗車券では
> 青函連絡船の乗下船のときに並ぶのが最後になりますから、札幌在住者の入知恵で
> 連絡船だけは「船だけ2等」と指定して国鉄の乗車切符を購入していました。それ
> でも畳を敷いた広い空間を仕切った場所があるだけの場所だったように記憶してい
> ます。

 僕も出張の際は青函連絡船を利用したことがあります。
最初は三等で、畳を敷いた大部屋に乗り、船が揺れたりするとずるずる滑ったりしました。
お茶のサービスがあって、飲んだ後は茶碗に10円のチップを入れたものです。
2回目以後は、船だけ2等にしました。
フカフカの椅子がある部屋を選んで乗るようになりました。


[No.2556] Re: 終戦前後の汽車 投稿者:ザックス  投稿日:2015/10/06(Tue) 16:38
[関連記事

マサちゃん

> お茶のサービスがあって、飲んだ後は茶碗に10円のチップを入れたものです。

よく覚えていますね。

> フカフカの椅子がある部屋を選んで乗るようになりました。

検索でこのようなのが出ました。青函ではありませんが。