昭和の部屋 
[新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

[No.2848] Re: 今も生きている歌 投稿者:男爵  投稿日:2016/03/04(Fri) 18:43
[関連記事

Re: 今も生きている歌
画像サイズ: 841×655 (87kB)
Panさん、 みなさん、こんにちは。

>  これらの歌は今も生きていますが、もう100年余り前に作られた
> 歌のようですね。

>  春の小川    (1921) 「春の小川は サラサラ流る」
>  故郷(ふるさと)(1914) 「兎追いし彼の山 小鮒釣りし」
>  朧月夜     (1911) 「菜の花畑に 入り日薄れ」

>  これらの歌は同じ作詞者と同じ作曲者によって作られたと知り、
> もう一度驚いています。

>  作詞 高野 辰之 (1896〜1940)
>  作曲 岡野 真一 (1878〜1941)


千曲川沿いを走る飯山線。
替佐駅に到着すると、ここ出身の国文学者・高野辰之が作詞した「ふるさと」のメロディが流れます。
http://www.ningyoukan.net/trip02.php

替佐駅に降りて、高野辰之記念館を訪ねて
行ったものです。
http://www.city.nakano.nagano.jp/tatsuyuki/index.htm


岡野貞一は実は東京音楽学校に入る前
教会でオルガンを弾いていました。

滝廉太郎もそうです。

つまり
東京音楽学校で西洋音楽を学ぶ前に
彼らはキリスト教の教会でオルガンを弾いたり,讃美歌の影響を知らず知らず
受けていたのでした。

西洋音楽は教会音楽から生まれた要素はたくさんありますが
東京音楽学校で、讃美歌の影響を受けた西洋音楽を学ぶ前に
岡野貞一も滝廉太郎もすでに、教会で讃美歌の影響を受けていたのです。

日本の音楽教育に及ぼした讃美歌の影響を研究している人から
時々研究論文が送られてきます。

東京音楽学校いまの東京芸術大学の校長だった伊沢修二(銅像あり)は
アメリカからメーソンを招いて音楽教育の基礎をつくったのですが
そういうお膳立てをした最初の日本人はどうやら新島襄だったようです。
  新島襄の妻は、会津藩士山本覚馬の妹の八重ですね。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ※必須
文字色
書込暗証番号(必須 半角で7080を入力)
Eメール(必須 非公開を推奨) 公開   非公開
タイトル sage
URL
メッセージ  手動改行 強制改行 図表モード
画像File (←100kB程度まで)
暗証キー (英数字で8文字以内)
プレビュー   

- 以下のフォームから自分の投稿記事を削除することができます -
- 自分の投稿記事に返信(レス)が付いている場合は削除をご遠慮ください -

処理 記事No 暗証キー