> 長谷川町子の年表調べです。 > > 1920(大正9)年 佐賀県に生まれる。 0歳 > 1932(昭和7)年 福岡高等女学校入学 12歳 > 1933(昭和8)年 父死去 13歳 > 1934(昭和9)年 一家で上京 山脇高等女学校に編入 田河水泡に弟子入り 14歳 > 1936(昭和11)年 山脇高等女学校卒業 田河水泡の内弟子となる 16歳 > 1944(昭和19)年 一家で福岡市に疎開 24歳 > 1946(昭和21)年 4月「夕刊フクニチ」で「サザエさん」連載 12月 一家で上京 26歳 > 1947(昭和22)年 「夕刊フクニチ」で「サザエさん」連載再開 27歳 > 1949(昭和24)年 12月 「夕刊朝日新聞」に「サザエさん」連載 29歳 > 1951(昭和26)年 4月 「朝日新聞」朝刊に「サザエさん」連載 31歳 > 1974(昭和49)年 2月 「朝日新聞」で「サザエさん」連載終了 54歳
その後、この本も読みました。(どうやら2度目 以前に読んだ記憶がある) 長谷川洋子:サザエさんの東京物語
著者は姉妹の末の妹
52歳で夫を亡くした、長谷川町子たちの母親は クリスチャンの親友から、「一緒に祈りましょう」と誘われ教会に通うようになる。
すっかり神様にすがるようになった母は 病に伏した父にも安らかに天国に行けるようにと、父をはじめ一家五人が洗礼を受けた。
しかし冷静な著者は 母や牧師の熱意も父は迷惑に感じていたと思う と述べている。
力ずくでも信じさせようという母の熱意に 「信じられないものは信じられないよ」とうるさそうにいう父だった。
父のベッドから見える位置に二枚の絵がかけてあった。 ゲッセマネの園で祈るキリスト像 聖母子像 ある日、父はお手伝いさんに命じて、この二枚の絵を外して片づけさせた。 > 16歳のときに田河水泡の家に住み込みで内弟子となったが > ホームシックにかられ数ヶ月で実家に戻ってしまう。
十一ヶ月で家に戻った長谷川町子 でも、田河水泡の推薦で、「少女倶楽部」に作品が掲載された。 彼女の影響で、田河水泡夫妻はクリスチャンになったという。
著者は女子大を受けるのに、理数系にしようと思ったが、町子姉から強引に文科系(国文科)にするよう押し切られた。 合格した女子大だが、なぜか毎日学校までの道に迷った。(方向音痴?) 心理学の先生に言わせると、それは女子大が嫌いだから。 あの瀬戸内寂聴さんの卒業した女子大です。
長女は菊池寛の連載小説の挿絵を描いていた。その縁で著者は菊池寛に紹介され、女子大をやめて会社で働くよう勧められ、文芸春秋の社員になってしまった。 おやおや
「サザエさん」が売れに売れて、期待して貯金通帳を見た町子と姉まり子は、思ったほど金額が記載されていないので母に抗議をする。
「私たちは十分すぎるくらい、豊かに暮らしているじゃありませんか。余ったものは神様からの預かりものだから、足りない方、困っている方たちに使っていただくのが当然のことでしょう」 「自分の所有物だと思ったらとんでもない間違いです。町子の才能も出版社が順調に発展しているのも、みんな神様から与えられたお恵みなんだから! 自分たちの働きだと思ったら思い上がりもいいところだ。ちっと反省しなさい」
これに対して町子たちが反論するのももっとものこと。 「私たちの老後のことも考えてよ。花咲爺さんみたいにまいて歩くばかりで、人にはだまされるわ、いかがわしい団体に寄付するわで、お母様のやり方には計画性も方向性もないじゃないの」
この著者洋子は結婚して娘二人をもつ。新聞記者の夫は35歳で死ぬ。 どうやら,サザエさんのムコのマスオは、この洋子の夫がモデルみたい。 容貌や性格はともかく、シチュエーションは目の前のモデルを長谷川町子は使ったのだろう。
> 戸籍的にムコではなくとも、マスオさんは娘夫婦と同居するという波平・フネにとって好ましいムコなのだろう。
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