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[No.111] 地震の被害 投稿者:   投稿日:2013/05/14(Tue) 20:18
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東日本大震災では、多数の犠牲者、巨額の被害が報道され、それとは、とても比較にはなりませんが、市の広報紙によれば当地でも、人的なものはなかったにせよ、公的なものに限っても6億7000万円以上の被害が出ているそうです。

 ところで、先日、当地の公民館で出している4ページ、タブロイド判の月刊紙を見たら安政江戸地震(1855年11月11日発生)のことが載っており、夜遅くに起こったこの直下型地震はM6.9という大型で、江戸の人々は慌てふためき大騒ぎをしたそうですが、この時の死者が10、000人を超えたと云います。佐倉藩においても、江戸の上屋敷(現神保町駅付近)が全滅しただけでなく、藩内でも民家や土蔵にたいへん大きな被害がでたそうです。

 城内でも、本丸に大きな被害が出、城門も一の門が大破、地面も各所で地割れが観測されたといいます。現在、こうしたことが詳しく分かるのも、やはり当時の年寄といわれる職にあった人が、丹念に日記を書いて呉れたお蔭です。(「佐倉藩年寄部屋日記」)

 また、あっしなぞの散策地に入っている、当地の旧市街、鏑木町所在の麻賀多神社の石燈籠には「安政乙卯十月就地震破損」と、明確に当時の地震の記録が残されているよしです。あっしは生来迂闊で、何度も訪れているのに、マッタク気が付きませんでした…が。(-_-;)

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 同上の書き込みは、主として下記の文章によったことを、お断りしておきます。

 参考:佐倉市中央公民館発行「なかま」平成25年5月号No.439金井義彰氏筆「安政江戸地震」


[No.115] Re: 地震の被害 投稿者:男爵  投稿日:2013/05/15(Wed) 06:56
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唐辛子 紋次郎 さん

>  ところで、先日、当地の公民館で出している4ページ、タブロイド判の月刊紙を見たら安政江戸地震(1855年11月11日発生)のことが載っており、夜遅くに起こったこの直下型地震はM6.9という大型で、江戸の人々は慌てふためき大騒ぎをしたそうですが、この時の死者が10、000人を超えたと云います。佐倉藩においても、江戸の上屋敷(現神保町駅付近)が全滅しただけでなく、藩内でも民家や土蔵にたいへん大きな被害がでたそうです。
>
>  城内でも、本丸に大きな被害が出、城門も一の門が大破、地面も各所で地割れが観測されたといいます。現在、こうしたことが詳しく分かるのも、やはり当時の年寄といわれる職にあった人が、丹念に日記を書いて呉れたお蔭です。(「佐倉藩年寄部屋日記」)

やはり記録は大切ですね。

この機会に安政時代のできごとをおさらいしてみます。

黒船が来航した1853年には、第12代将軍徳川家慶が死去し、第13代将軍に家定が就任するが病弱。

幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得られなかった。

安政5年(1858年)4月に大老に就任した井伊直弼は、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。

井伊直弼は反対派を容赦なく弾圧した。世に言う安政の大獄である。

9月に老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義らが上洛し、近藤茂左衛門、梅田雲浜、橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まった。そして、吉田松陰が最後の刑死者となる。

京都で捕縛された志士たちは江戸に送致され、江戸伝馬町の獄などで詮議を受けた後、切腹・死罪など酷刑に処せられた。

安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変において井伊が殺害された。

   蛇足  招き猫で有名な豪徳寺には井伊直弼の墓があります。
  http://www.odakyu.jp/station/gotokuji/

   ☆   ☆

河角広(かわすみ-ひろし)は 昭和時代の地震学者。
明治37年7月12日生まれ。昭和19年母校東京帝大の地震研究所教授となり,38年所長に就任。
多くの地震統計記録を集めて、南関東の地震69年周期説をとなえた。

だから
近いうちにまた関東大震災(級の地震)は起きると思います。