私は大正15年4月に草津尋常高等小学校へ入学、昭和7年3月同校卒業ですが、その頃は、町の行事や国の大行事の際は決まって小学生も旗行列にかり出されました。 印象に残っている一つは、大正15年9月、町の念願であった軽井沢から草津温泉までの全長55、5kmの草津電鉄が開通した時の旗行列のこと、もう一つは昭和3年11月、昭和天皇の即位式と大嘗祭…………当時はこれを御大典(ごたいてん)言っていましたが…………の時の旗行列です。 日の丸の小旗を振り、奉祝歌を歌いながら町中を歩かされました。奉祝歌は3番までありますが、1番だけ書いてみます。 三種(みくさ)の神器(たから)うけつぎて 天津日嗣(あまつひつぎ)の御位(みくらい)に 我が大君の即(つ)きたまう かしこき今日の大御典(おほみのり) 祝え、祝え、いざ祝え
変蝠林さん> 岩井の場合、小学校卒をも多数採用して居りました。> 彼等は「コドモ」って呼ばれて走り使いでしたが会社は社費でパルモアーと> 言う英語学校に通わせ卒業すると正社員にし海外支店にも赴任させて> ました。> 大体、当時の重役で大学出は殆ど居りませんでした。 そうでしたか。 私は、旧財閥系の銀行に勤めていましたが、ここでは「店童」と呼ばれていたようです。私が入社した頃には、すでに採用を止めていました。やはり夜間の商業学校へ通っていたそうです。 ただ、銀行では、偉くなるには、小学校卒ではとてもとても。 一流大卒でないと無理だったようです。
マーチャン & みなさん > そこのところが、当時の事情のわかりにくいところですね。> 小僧さんというのは、殆ど無給で無休ですよね。> ただ、チャンスとしては「店を持たせてもらえる」というのがあったのですね。 私が就職した会社は昭和十年代の四大貿易商(三井三菱岩井安 宅)でしたが安宅は商会、岩井は商店でした。 官営製鉄所の商権 を得て居たからでした。 岩井の場合、小学校卒をも多数採用して居りました。 彼等は「コドモ」って呼ばれて走り使いでしたが会社は社費でパルモアーと 言う英語学校に通わせ卒業すると正社員にし海外支店にも赴任させて ました。 大体、当時の重役で大学出は殆ど居りませんでした。 変蝠林(1917-)
変蝠林さん、みなさん > 尚、成年して一人前になると一軒分店を与えられる様でした。 そこのところが、当時の事情のわかりにくいところですね。 小僧さんというのは、殆ど無給で無休ですよね。 ただ、チャンスとしては「店を持たせてもらえる」というのがあったのですね。
マーチャン & みなさん> お話がちょっと遅くなりましたが。> 先日、1月16日は昔風にいうと「藪入り」でしたね。> 「藪入り」で休みをもらった小僧さんなんかもこういうところに遊びに来た のでしょうか。 話が此処まで来ると仕方が無い・私事に亘りますが恥を忍んで語りませう。 実は、私は母無し子でオバーちゃんに育てられました。 父は政治に忙しく常に不在、婆と孤児?は縁戚の叔母さんの所に預けられ ました。 其の家は床屋、今様なら理髪店、茶町と言う資産家の町でしたから床屋 とは言え親方として町内の旦那衆の溜り場となって居り尊敬される存在で した。 当時の床屋は理容学校も無く店員は総て丁稚、それも小学校卒業ホヤ ホヤの子供が住み込みで働いて勉強して居たのです。 其の寝床は二階で何時も四−五人居りました。 当時は蚊取り線香と蚤取り粉だけの世界です。 数回同宿した事がありましたが蚤獲り競争は今でも楽しい思い出です。「藪入り」には御小使いを貰って逐次親元に帰させられますが休業は出来 ません。 仕事の時は子供ですからみんな高下駄を履いて働いて居ました。 特に剃刀の手入れは重要です。ぶら下げた皮の砥石?で磨くのは最重要 科目です。 休業日には彼等に連れられて盛り場七間町の夜店に良く連れて行って 貰いました。 尚、成年して一人前になると一軒分店を与えられる様でした。 当時の街の様子は何れ又、時を得られました折に。 変蝠林(1917-)
不虻さん こんばんは当地は、日本海側ですが、地図を見れば分るように、若狭湾一帯はリアス式海岸で、小浜湾はその中央に位置します。内海ですから外海程の荒波ということはありません。ドンド焼きの開かれた場所は、夏には海水浴場として、多くの海水浴客で賑わう数百メートル続く砂浜です。風のない日は、冬でも穏やかです。ドンド焼きの行われた当日も、穏やかな日和でした。 季寿
季寿さん、こんなに遅い返信で申し訳ありません。> 今年も、昨日(1/14)近くの海岸で行われました> 祭壇が設けられ、神主の祝詞、市長の挨拶の後、地域の自治会長さんたちの手で、> 火が付けられました厳冬の日本海に面した海岸(行ったことが無いので、解りませんが)では大変なのでしょうね。東尋坊から南下していく国定公園の美しい海岸、その冬の姿がどうしても想像できません。教えて下さい。海岸での火祭りと言えば、以前ノルウエーを旅行したとき、ある海岸のホテルについたら丁度6月24日で、夏至祭りがありました。しかし海岸で火を燃して、花火が数発揚がってそれで終わりでした。ふとこんな事を思い出しました。
瀬里恵さん、こんなに遅い返信で申し訳ありません。 「ホンゲンギョウ」という呼び名は知りませんでした。福岡県、佐賀県方面の行事とか。 それにしても左義長の呼び名は随分多いのですね。一度図書館で各地方のこの行事について調べてみたいと思っています。
お久しぶりです。> 二南遣というのはボルネオ、セレベス方面担当では無かったでしょうか?17歳になる前にセレベス島マカッサルに赴任しました。その後、スンダ列島を転々、終戦後は一年ほど収容所生活も。結構、楽しかったですよ。
BUPさんもっと早くお礼をと思いながら、ここ数日間外出する用件があり、すっかり遅くなりました。やっと一段落しました。行軍将棋について、いろいろ新しいことを教えて戴き、有り難うございました。ウィキぺディアにあんなに詳しく出ているとは知りませんでした。> 不虻さんが戦時中に九州にお出かけの折の岡山のお話や、横須賀でのお話を拝見させて頂きました。以前伝承館に寄稿した海軍時代のことを読んで戴き、これまた有り難うございました。BUPさんも海軍に居られたのですか?随分お若かった頃ですね。私はよく知りませんが、二南遣というのはボルネオ、セレベス方面担当では無かったでしょうか?私の同期生も南方の特別根拠地隊には大勢赴任していました。海軍時代の思い出話も良いではありませんか。同期の友人とは時々会って懐古話をしています。