メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。
メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。
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[No.563]
Re: ナイロン・ストッキング
投稿者:
投稿日:2011/01/30(Sun) 20:04
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さんらく亭さん
> > 戦後、女と靴下は強くなったーーーと言われていました。
>
> > ま、女性のことは別途論じるとして「靴下が強くなった」ことは間違いありません。
> 気の弱い(男の)銀行強盗がナイロンのパンストを被るのはそのためかぁ?(゜゜)(。。)
現在のように「目出し帽(強盗のユニフォーム)」などというものを売っていなかったからでしょうか。
それにしても「女と靴下は強くなった」というのは、どなたの言葉でしょう。
大宅壮一さんあたりがおっしゃりそうな言葉ですが
どうも、そうではなさそうです。
[No.562]
Re: 東京オリンピックのころ
投稿者:
投稿日:2011/01/30(Sun) 12:42
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マーチャン みなさん
> 「より高く より強く より早く」という歌詞の
> あの歌は「高度成長期の歌」だったのですね。
あのころは第一線の企業戦士でオリンピックのTVをナマで見る時間もなかった(;_;)
ほとんど夜のニュースでハイライトを見るだけでした
アベベやヘイズやヘーシンクは記録に残る成績で金メダルをとりましたが、
わたしの記憶にいまだに残っている選手がいます
セイロン(現スリランカ)からたった一人で参加した長距離ランナーです。
名前は忘れました
1万メートル競走でビリッけつになりフラフラヨレヨレになりながら最後尾の
選手からトラック3周遅れでようやくゴールインしたときは拍手が鳴り止み
ませんでした。あれには感動しました
さんらく亭@甲子園
[No.561]
Re: ナイロン・ストッキング
投稿者:
投稿日:2011/01/30(Sun) 11:06
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> 戦後、女と靴下は強くなったーーーと言われていました。
> ま、女性のことは別途論じるとして「靴下が強くなった」ことは間違いありません。
気の弱い(男の)銀行強盗がナイロンのパンストを被るのはそのためかぁ?(゜゜)(。。)
さんらく亭@甲子園
[No.560]
ナイロン・ストッキング
投稿者:
投稿日:2011/01/30(Sun) 10:42
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「アメリカには、透き通って見える、丈夫な靴下があるそうな」という話は聞いていました。
日本に入ってきたのは、1952年といわれていますが、
1950年代の終り頃には、いわゆる「OL」の間では、使われていたように記憶しています。
絹の靴下は高価すぎる。
木綿の靴下はダサイ。
スフ(ステーブル・ファイバー)は弱すぎてどうにもならなかった。
ナイロン靴下は、ありがたい存在でした。それでも高いものでした。
ほつれてきたら(ランと呼んでいました)捨てる?
普通の「お勤めの女性(当時の言葉では「職業婦人」)」
にはそんなこ勿体無いことはできません。
当時は、街に「ストッキング修繕屋さん」という商売があって
(たいてい裏通りで戦争未亡人の方などが細々とやっておられましたが)
「ラン」一本につき、10円で直してくれました。
ありがたかったです。
戦後、女と靴下は強くなったーーーと言われていました。
ま、女性のことは別途論じるとして「靴下が強くなった」ことは間違いありません。
[No.559]
Re: 東京オリンピックのころ
投稿者:男爵
投稿日:2011/01/30(Sun) 05:44
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みなさん こんにちは
> 東京オリンピックへは行かれませんでした。入場料が高かったからか?
麻雀荘のテレビで
開会式の聖火台の場面は見ました。オリンピックよりも麻雀ゲームになりました。
翌年春には
見学旅行で、オリンピック競技場や
高速道路や新幹線の工事現場を見て説明を受けました。
我々の仲間はつくるほうの仕事をするのですから。
[No.558]
Re: リンゴの唄
投稿者:男爵
投稿日:2011/01/30(Sun) 05:39
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マサちゃん、 唐辛子さん、みなさん こんにちは
> あの頃、朝鮮から引き揚げてかなり飢えた生活をしていました。
> この歌を聞くとあの赤いリンゴの甘酸っぱい思いで生唾が空腹にこたえました。
> 小学生高学年の、もっともがっついていた時代でした。
高校の恩師は大陸育ち。
中国の瀋陽から引きあげてきたそうです。
南満州鉄道の瀋陽から大連まできて、大連から船で帰国。
引き揚げ時期のリンゴの思い出があるそうです。リンゴは中国大陸で食べたのか、日本に帰ってきたからなのか。
私のいる町にはリンゴ畑が多いですが
終戦後のもののない時期に工業専門学校の生徒たちは空腹で
ついリンゴのお世話になったそうです。
同窓会誌の思い出話は食べ物の話が多いです。
もう一人の高校の恩師は、この町の工業専門学校の卒業生で、やはり空腹だった思い出を語ります。
[No.557]
Re: 東京オリンピックのころ
投稿者:
投稿日:2011/01/29(Sat) 21:52
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東京オリンピックへは行かれませんでした。入場料が高かったからか?
前年祭には行きましたね。どういうことで行かれたのかわかりません。
誰が連れて行ってくれたのか、抽選にでも当ったのか?
それはすごかったですよ。日本の有名な祭りがたくさん見られたような
気がします。
夫は、「東京オリンピック大全集」という本の表紙に後ろ姿が写って
いるのです。開会式の聖火台のすぐ下ので、写ったと言っていました。
[No.556]
Re: リンゴの唄
投稿者:
投稿日:2011/01/29(Sat) 21:48
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唐辛子さん こんばんは
> 『赤いリンゴに くちびる寄せて』という出だしからして素晴らしい。スゴク元気の出る歌です。
あの頃、朝鮮から引き揚げてかなり飢えた生活をしていました。
この歌を聞くとあの赤いリンゴの甘酸っぱい思いで生唾が空腹にこたえました。
小学生高学年の、もっともがっついていた時代でした。
[No.555]
Re: 父の手紙
投稿者:
投稿日:2011/01/29(Sat) 21:43
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さんらく亭さん、こんばんは。
留守にしていて遅れました。
> あやさん これはたいへんな心の遺産ですね
> 宝物です。いつまでも大切にしてください。お父上の
> 子を想う気持ちがヒシヒシと伝わってきます
あと2日で終りますね。手紙の内容を書く時間があるかどうか、
おっしゃるように宝物です。書いてある内容も私たち姉弟、祖母を
想う気持ちだけです。
>
> わたしの亡母は戦時中から当用日記を付けていて、数度
> の引越しや改築などのたびに捨てるといいましたが私が反対
> して今は昭和26年から平成19年までの56冊が残っています。
> 読むことはないですが「存在」を感じます
すばらしいではないですか! 50年以上のものではないですか。
大事にしないといけませんね。
>
> 昭和26年の元日のところにはお年玉のことがあって姪へ
> ¥100、甥には¥200をあげた(男女差別だ(^_-)/)とか
> 百人一首や追羽根で遊んだとあります。満99歳3ヶ月で
> 亡くなる2週間前まで日記をつけていました
>
すばらしい方ですね。99歳で亡くなり、2週間前まで書いていたとは。
でも、継いでくれるさんらく亭さんがいたからとも言えますよ。
私も若いときのものはあることがあって、そこで全て捨てました。
そんなことで、1991年11月17日からの分しかありません。
それらもいつ止めようかと考えたりしています。
[No.554]
Re: 小池朝雄を覚えていますか?
投稿者:
投稿日:2011/01/29(Sat) 12:14
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> ピーター・フォークは小池さんのお蔭で大ブレーク。どうやらアメリカでは無名に近かったかれも「コロンボ」のお蔭で急に名が売れ出し、終いには神さんまで取り替えてしまった。
「刑事コロンボ」はほとんど見ているといっていいでしょう
あの小池朝雄の声は独特で魅力がありました
彼が亡くなって石田太郎に代わった当座はしばらく違和感があって馴染めなかった
時期がありましたねぇ;;
コロンボは最初に犯行場面があって犯人はわかっているのですが、一昨日(1/27)
のは普通の推理モノと同じく最後まで犯人が誰かわからない、コロンボ物としては
異質でした。「カミサン」も出て来ないしネ(;_;) つまらなかった(;_;)
さんらく亭@甲子園
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