あなたの戦後は? 
(期間:2010.12.1 - 2011.1.31)

メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。

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  • [No.351] Re: 学校の畑 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/27(Mon) 17:35
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    オアシスさん さんらく亭さん

    > 思い出したくないことを65年ぶりに思い出しました(;_;)(;_;)

    私の勤めていた学校のことですが
    終戦当時に
    私の恩師がここで、学生時代を過ごしたのだそうです。

    当時の思い出は、ただただ空腹であったということ。
    その頃のことを卒業生たちは
    りんご園のりんごをこっそりいただいたとか
    夜に畑の西瓜やトウモロコシを収穫しに行ったとか
    寮の内外に見かけた犬や猫が、あるとき突然いなくなったとか
    いろいろ同窓会誌に書いています。
    とうぜん
    広い学内の土地を耕して畑にして、できるだけ作物も収穫したそうですが。

    この恩師は実は
    高校の時の数学の先生です。
    ずっと後になって、同窓会名簿を見たら、恩師らしい名前を見つけたので
    手紙を出したら、やはりそうでした。
    それから、北海道の高校の校長室にその先生を訪ねて行ったことがあります。


    [No.350] Re: 学校の畑 投稿者:   投稿日:2010/12/27(Mon) 13:04
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    オアシスさん 同期の桜です

    > 物は食料と変え尽くし、南瓜や芋を分けてと何度頼ん
    > でも分けてくれず、“欲しけりゃとって帰れば、、、”と
    > つれない返事、背中とお腹がひっつきそうできょろ
    > きょろと当りを見回し、かぼちゃを盗って帰ったことも。


    もうとっくに時効ですから。。。(;_;)

    学校帰りに腹が減って、家へ帰っても食うものもなし、下校時にその辺の
    畑に立ち入って真っ赤に熟したトマトを2、3個もぎ取って口に放り込み、
    急いで走って帰宅したら口の周りに食べた跡が付いていて母親から厳しく
    追求され「そんな子に育てた覚えはない!」と叱られ泣かれて、とうとう
    その農家へ謝りに行かされました

    思い出したくないことを65年ぶりに思い出しました(;_;)(;_;)

          さんらく亭@甲子園


    [No.349] Re: 昭和39年/サザエさん  ジョニ黒 投稿者:   投稿日:2010/12/27(Mon) 11:51
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    男爵さん   こんにちは

    > 私はオールドパーが好きです。

    さすが男爵、お眼(舌?)が高い!

    スペイサイドの蒸留所、グランダランとクラガンモアを原酒とする銘酒です。
    敗戦後の拝米思想で迎合されたジョニ黒とちがって、明治の進歩的な先人は
    自分の舌で選んでオールドパーを好んだそうです

    因みにその名の由来の Mr.トーマス・パーは、ナント、80歳で初婚、2人の
    子をもうけ、122歳で再婚、152歳で亡くなりました。
    オールドパーを飲んで、あやかりたい(^_-)/


           さんらく亭@甲子園


    [No.348] Re: 昭和39年/サザエさん  ジョニ黒 投稿者:   投稿日:2010/12/27(Mon) 11:05
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    さんらく亭さん   こんにちは

    > >  ジョニ黒      
    > 大卒の初任給ぐらいの値段でしたが旨いとは思わなかったです。スコッチでも
    > オールドパーやバランタインやカティサークのほうが遥かに旨いと思いました。

    私はオールドパーが好きです。
    1981年にドイツへ行きましたが
    スーパーでビールをかたはしから飲みました。 ノンアルコールのビールも(よく見るとアルコホルフライ(Alkoholfrei)と書いてあります。英語のアルコールフリーのことですが、アルコールフリーと言っても0.5%未満の微量のアルコールが含まれています)。

    次にワインに挑戦しました。
    ひと通り飲んでから、ウィスキーがあるのに気がつきました。
    ジョニ黒も1500円くらいでした。
    早速買って飲みましたが、1年いたドイツ生活で、とうとう半分飲み残し
    捨ててきました。(もったいない)

    > 何故、ジョニ黒が高級ウィスキーとして崇拝(という感じ)されたかというと
    > 進駐軍の高級将校が好みで吉田茂から田中角栄にいたる政治家が進んで
    > これを持ち上げたという話があります。

    なんだか茅台酒みたいですね。
    人気ブランドが先行しているだけ。 高すぎる。

    > 長谷川町子さんの眼は鋭い!

    彼女は頭がいいですから。


    [No.347] Re: 昭和39年/サザエさん  ジョニ黒 投稿者:   投稿日:2010/12/27(Mon) 10:26
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    > 昭和39年

    >  ジョニ黒      
    >          ジョニ黒は当時高級酒としてもてはやされた。日本では一本一万円近くなので、ロンドンでは千四百円で売られていることを海外旅行した長谷川町子は描いている。

    大卒の初任給ぐらいの値段でしたが旨いとは思わなかったです。スコッチでも
    オールドパーやバランタインやカティサークのほうが遥かに旨いと思いました。
    何故、ジョニ黒が高級ウィスキーとして崇拝(という感じ)されたかというと
    進駐軍の高級将校が好みで吉田茂から田中角栄にいたる政治家が進んで
    これを持ち上げたという話があります。アメリカ迎合の現われでしょう
    そういえばヤクザ映画にはジョニ黒が出てくる場面が多かったです(;_;)

    長谷川町子さんの眼は鋭い!


             さんらく亭@甲子園


    [No.346] Re: 学校の畑 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/27(Mon) 07:10
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    オアシスさん、みなさん   こんにちは

    > 機銃掃射まで、遂に縁故疎開で 母子4人 ほうほうの
    > 態で 石川県松任町へ縁故疎開。

    > お百姓さんはお金はもう要らないと、札を積み上げて
    > 尺祝いの時代でした。
    > 物は食料と変え尽くし、南瓜や芋を分けてと何度頼ん
    > でも分けてくれず、“欲しけりゃとって帰れば、、、”と
    > つれない返事、背中とお腹がひっつきそうできょろ
    > きょろと当りを見回し、かぼちゃを盗って帰ったことも。

    あの頃土地のある農民にとって
    終戦後は天国みたいでしたね。

    私も少しだけ畑に植える生活をしています。
    自分で作った野菜は格別美味しく感じます。


    [No.345] 昭和40年/サザエさん 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/27(Mon) 07:06
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    昭和40年

     お手伝いさん求人難  磯野家の近所のお金持ちの奥さんが、サザエにお手伝いさんが見つけられなくて困っていると訴えている。テレビ付き個室を与えて月一万五千円、ボーナス年三ヶ月、夏冬の着物をこさえてあげ、週一回の稽古ごとOK、という条件でも見つからない。というのでサザエがやることになる。

     チンドン屋  「サザエさん」にもしばしば登場したが、昭和40年7月28日を最後に見られなくなる。商店の開店披露の仕方が新聞チラシや各戸への投げ込みチラシなどに変わっていったためだろう。

     パンとコーヒーの朝食  サザエの用意するパンとコーヒーにマスオが「けさは味噌汁で食いたかった」と不平をもらす漫画がある。

     商店街の一斉休日  明日遠足なのでワカメは一人で買い物に行くが、商店街は一斉休業。そこでワカメはご近所を回って必要なものをかき集める。そのたくましさにフネもサザエもびっくり。人手不足の時代、従業員を定着させるには開店時間を明確にし、休日を増やすことが必要だった。そのため、このころから月一回程度の一斉休業や夏休み数日間(よく「従業員慰安旅行のため」などと書かれていた)がとられた。

     チャンネル争い  現代では各人がテレビを持つ家も珍しくなくなって、チャンネル争いは少なくなったが、昭和40年代はまだ一家に一台の時代だった。カツオの友だちとその祖父がチャンネル争いをしている。あわやつかみ合いになりそうになって、カツオと家人が仲裁に入る。元気なおじいちゃんがもたらした夏休みの悲劇というところか。

     エッチ  「変態」「変質者」の頭文字をとって、いやらしい男を意味する隠語だったが、「サザエさん」にも登場する陽語になった。 Hは「エイチ」が正しいが、日本人は「エッチ」と発音してきたので、こういう俗語が生まれた。発音どおりに「あの人エイチね」だと英知にあふれる人になってしまうわけ。

    歌謡曲
     愛して愛して愛しちゃったのよ (和田弘とマヒナ・スターズと田代美代子)
     さよならはダンスの後に (倍賞千恵子)
     まつのき小唄 (二宮ゆき子)
     柔 (美空ひばり)
     二人の世界 (石原裕次郎)
     夢みるシャンソン人形 (弘田三枝子)
     夏の日の思い出 (日野てる子)
     知りたくないの (菅原洋一)


    [No.344] 昭和39年/サザエさん 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/27(Mon) 06:00
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    昭和39年

     国民の中流意識  昭和59年の総理府の調査で、国民の90%が中流意識をもっていることがわかった。日本の近代社会では、1%に満たない上流階級と10%程度の中流を除いたら皆、下層階級あるいは極貧階級であった。したがって、中流階級というのはかなり豊かな階層であった。その意識は戦後もしばらく引き継がれ、高度経済成長期の昭和30年代に崩壊していくのではないだろうか。かくして中流意識が国民の間に広まっていく。
              サザエが新聞を持って近所のちょっとした金持ちそうな家に飛んでいく。その家の息子が新聞に載ったというのである。奥さんが出てくる。サザエが新聞を読み上げる。「恐喝をはたらいた高校生(A)は××会社重役の三男で、中流階級に育ちながら....」それを聞いた奥さん「まァひどい新聞社、訂正させるわッ!」「うちはれっきとした上流階級ざんす!」

     海外旅行自慢  この年から海外旅行が自由化された。この年渡航した人は約十二万人。現在(2002年)の年間千五百万人に比べたらごく少数の人たちだった。したがって、海外旅行が自慢できる時代がしばらく続く。海外旅行から帰った友人が毎晩やってきて自慢話をするので、うんざりするマスオとサザエを描いている。

     ジョニ黒  カツオが波平に「ジョニーウォーカーの黒があるよ」と言う。波平は驚喜してカツオについていく。庭の物置の中だ、と言われて波平は入っていく。カツオ、外から戸につっかえ棒をして簡単に監禁してしまう。カツオ曰く「こりゃ大人も気をつけないと、案外かんたんに誘拐されるぞ」    
             ジョニ黒は当時高級酒としてもてはやされた。日本では一本一万円近くなので、ロンドンでは千四百円で売られていることを海外旅行した長谷川町子は描いている。

     オリンピックメダル  東京オリンピックが開催された。それを記念するメタル・切手・タバコなどが売り出された。いずれも行列をつくるほどだった。
                「サザエさん」では、連日行列して記念品を購入するので、顔つきが終戦当時とそっくりと奥さんに言われた男が描かれている。

     不快指数  不快指数はアメリカで使われていた気象用語。昭和36年から気象庁は、湿度を示すのに体感温度と組み合わせて、不快指数として発表するようになる。80以上あると全員が不快を感じる。
           近所のいじわるバアさん風の人にサザエが年齢を聞くと八十三歳だという。マスオ「じゃ、今日の不快指数とおんなじだ!」バアさん、ひしゃくでマスオに水をぶっかける。サザエ「だからあなたは社交性がないっていうのよ}

    歌謡曲
     夜明けのうた(岸洋子)
     ウナ・セラ・ディ東京(ザ・ピーナッツ)
     幸せなら手をたたこう(坂本九)
     アンコ椿は恋の花(都はるみ)
     お座敷小唄(松尾和子,和田弘とマヒナスターズ)
     智恵子抄(二代目コロムビア・ローズ)
     愛と死を見つめて(青山和子)


    [No.343] Re: 学校の畑 投稿者:   投稿日:2010/12/26(Sun) 22:16
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    男爵さん、みなさん。 男爵さんと一回り違いです。

    旧制中学(兵庫県立3中=芦屋中学)一年生の時は
    昭和20年、敗戦寸前でした。
    運動場は芋やカボチャ畑、校舎は焼夷弾で燃え 焼芋
    を掘って貰って帰った憶えがあります。

    6月に焼夷弾、一トン爆弾、空襲警報で帰る途中に
    機銃掃射まで、遂に縁故疎開で 母子4人 ほうほうの
    態で 石川県松任町へ縁故疎開。

    以後戦後の暮らしです。
    田舎のお百姓さんは 戦前都会生活者と生活レベルが
    違い、悪い言い方ですがざまぁ見ろとの思いの人も、、
    着物始め物と食糧を物々交換して貰って飢えを凌いだ
    暮らしでした。
    お百姓さんはお金はもう要らないと、札を積み上げて
    尺祝いの時代でした。
    物は食料と変え尽くし、南瓜や芋を分けてと何度頼ん
    でも分けてくれず、“欲しけりゃとって帰れば、、、”と
    つれない返事、背中とお腹がひっつきそうできょろ
    きょろと当りを見回し、かぼちゃを盗って帰ったことも。

    男爵さんとは丁度一回り年上、偉い違いの12年でした。


    > 中学生のとき
    > 中学校には各クラスの畑がありました。
    > 草取りとかはあまり熱心ではなかったが
    > 大豆やジャガイモが収穫できました。
    > 大豆は若いエダマメのときに収穫して
    > みんなでわけて家に持って帰って食べました。
    >
    > クラスの中には農家の子弟がいて
    > 彼らは畑仕事に慣れていて
    > 種まきから、こやし(化学肥料ではない)の与え方まで
    > みんなに教えるくらいでした。
    >
    > 同級生の中には、いまも現役の農業家もいます。 元気に働いているようす。
    > 風のたよりで元気なうわさを耳にします。
    >
    > 中学校の裏山には植林をして草刈りなども毎年したものでしたが。


    [No.342] Re: 昭和28年/サザエさん 投稿者:   投稿日:2010/12/26(Sun) 22:02
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    >> そういえば校庭で映画会がよく催されました。なんの映画だったか?
    >> 鉄棒にぶら下がったりしながら、見ていた時もあります。
    >> あまり興味のある映画ではなかったのか?

    >わが田舎では、CIE(占領軍の民間情報教育局)作成の民主主義教育映画と、科学映画
    >やマンガ映画がセットになっていました。科学映画では、コウモリが超音波を出しなが>ら障害物を避けていることが発見されたという映画が印象に残っています。

    よく覚えておいでですね。私はとんと思い出せません。
    大人が多かったことは確かです。

    娯楽のない時代でしたから、真っ暗な田舎道を30分も歩いて見にいきました。

    うわっ! 大変! それでしたら私は行けなかったでしょう。
    我が家は学校の門から近く、すぐ前は塀という感じでした。
    祖母などは、「お前の声が聞える。少しは女らしくしなさい」
    と言い、よく怒られたものです。

    > > それだと雨のときは悲惨でしたね。
    >
    > 悲惨も何も、雨の日は中止です。なにしろ、運動場が会場ですから。

    そうでしたよね。

    >
    > スクリーンは、白い布でした。

    覚えています。大きな広い布でした。風が吹くと画面が揺れるのです。


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