メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。
メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。
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[No.181]
Re: シューシャンボーイ。
投稿者:
投稿日:2010/12/12(Sun) 20:09
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昭さん、こんばんは
> > > 駅周辺、繁華街特に米軍の兵隊が集まる箇所には10数人ずつ数箇所で行っていましたが、
> > 私の家の近くでは見かけませんでした。駅へ行くと居たように思うのですが、
> > なんかボーイというより小父さんか、お兄さんみたいなように思いました。
>
> > ガムをよくくれました。
> 矢張り米軍人の集まりやすい所などに店を出したいました、日本人は食べるのに精一杯で靴など磨く余裕はなかっはずです。
>
> 私も、ガム、チョコレート等を良く貰いましたよ。
>
そうなんでしょうね。日本人は靴など磨くなんてなかったと思います。
やっぱり、もらったんですね。そういえばチョコレートももらいました。
[No.180]
Re: 一クラス80人。
投稿者:
投稿日:2010/12/12(Sun) 20:03
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> 私の住む市の中心部にある国民学校は殆ど空爆で焼失した所が多く焼け残った一つの学校の校舎に数校が集う事になり、其れは其れは大変でした、一クラス80人は当たり前で教室の通路は真ん中に人一人ヤット通れる程のが一つでした。
すごいですね。80人とは! 空襲で焼失した学校は多かったはずですが、
どういうわけか80人ではなかったですね。
私が通った学校は、50人か55人でした。5組までありました。
> 廊下に出るのにクラスメイトの机の上を急いで渡るようにして移動しました。
> 又、一つの校舎に数校が集まっている訳ですので他校の生徒との間で県下が絶えず、校舎の窓ガラスは皆投石等で壊され雨の日は窓際は傘をさして授業を受け、冬は寒さに震え上がったりしました、とは言え終戦当時まともに授業など出来なかったですね。
>
考えてみると私など幸せだったのですね。
田舎に疎開した1年位の間も、お寺に来ていた東京の疎開児童はいましたが、
学校は至極平和でした。
校舎に寄りかかって、10人くらいでよく馬とびをしました。
5人も6人も馬になるので、飛び乗るのが大変でした。
男も女もなく、めためたに転んでいっしょくたでした。もしかしたら
女は私だけかも?
>
> 終戦から3、4年は何でも配給制でノート、鉛筆など辛抱して使っていました、学校靴(運動靴)はくじ引きだったのを覚えています。
>
> 取あえず、此処まで。
いろいろな学校があったというか、私が無知だったというか、
勉強させていただきありがとうございました。
[No.179]
Re: にごり酒
投稿者:
投稿日:2010/12/12(Sun) 19:52
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男爵さん
>
> > 私にもこのような思い出はあります。もちろん家では両親もいなく、作りません
> > でしたが、まさに密造酒だったはずです。
> > 近所の大人たちがそう言いながら、ぶどうを漬け込んでいたように思います。
>
> それっ、隠せ
> なんて言いながら対応していたのをちょっとだけ
> 記憶しています。
なんかよくわかりませんでしたが、あまりおいしいものではなかったようです。
>
> あとで時間があったら
> 宮沢賢治の
> 密造酒を調べる
> 税務署長の童話を紹介したいと思います。
> もっとも、これは戦争前の話ですが。
待っています。
[No.178]
Re: 一クラス80人。
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/12(Sun) 18:55
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昭さん
> 私の住む市の中心部にある国民学校は殆ど空爆で焼失した所が多く焼け残った一つの学校の校舎に数校が集う事になり、其れは其れは大変でした、一クラス80人は当たり前で教室の通路は真ん中に人一人ヤット通れる程のが一つでした。
80人クラスとは
今のクラスの倍ですね。
大学の教養課程の講義室や集中講義などでは
100〜200人のものがありますが、効率がいいかどうかは疑問なことがあります。
> 教科書も戦前のは全て破棄され、先生方がガリ版刷りで作られたのを教材変わりに使用しての授業でした。
>
> 終戦から3、4年は何でも配給制でノート、鉛筆など辛抱して使っていました、学校靴(運動靴)はくじ引きだったのを覚えています。
くじ引きというのもあったのですね。
食べるものが不足していたのですから、紙とか文房具などは不足していたでしょう。
> 取あえず、此処まで。
思い出したら また書いてください。
多いほど歓迎します。
マーチャンも喜ぶでしょう。
[No.177]
Re: シューシャンボーイ。
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/12(Sun) 18:48
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昭さん こんばんは
> 私も、「東京シューシャンボーイ」を思い出します。
>
> > 朝鮮戦争で日本の景気は立ち直したようです。
>
> 確かに朝鮮動乱のお陰で日本は立ち直りの大きなきっかけを作りましたですね。
> 其れと、日本の第二の発展はベトナム戦争のお陰ですね。
ベトナム戦争で
韓国経済が発展したということを
ある本で読みました。
韓国兵がベトナムに従軍すると、アメリカからお金がきて
それで韓国経済がよくなるほか(外貨が増えた)
軍需関連産業も忙しくなったとのことです。
[No.176]
一クラス80人。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/12(Sun) 14:31
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皆さん。
私の住む市の中心部にある国民学校は殆ど空爆で焼失した所が多く焼け残った一つの学校の校舎に数校が集う事になり、其れは其れは大変でした、一クラス80人は当たり前で教室の通路は真ん中に人一人ヤット通れる程のが一つでした。
廊下に出るのにクラスメイトの机の上を急いで渡るようにして移動しました。
又、一つの校舎に数校が集まっている訳ですので他校の生徒との間で県下が絶えず、校舎の窓ガラスは皆投石等で壊され雨の日は窓際は傘をさして授業を受け、冬は寒さに震え上がったりしました、とは言え終戦当時まともに授業など出来なかったですね。
校庭は残らず掘り起こして耕され、さつま芋畑に変身していましたので、授業の変わりに芋掘り等をしていました。
教科書も戦前のは全て破棄され、先生方がガリ版刷りで作られたのを教材変わりに使用しての授業でした。
終戦から3、4年は何でも配給制でノート、鉛筆など辛抱して使っていました、学校靴(運動靴)はくじ引きだったのを覚えています。
取あえず、此処まで。
〜〜 昭 〜〜
[No.175]
Re: シューシャンボーイ。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/12(Sun) 14:03
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男爵さ、、こんにちは。
> > 戦後彼方此方の都市でシューシャンボーイが出現したと思います。
> > 私の住む街も、旧海軍の軍港都市でしたので米軍が進駐し多数の子供がシューシャンボーイとして一生懸命働いていました。
>
> シューシャインボーイといえば
> 暁テル子を思い出します。
> 「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」は代表曲。
私も、「東京シューシャンボーイ」を思い出します。
> 朝鮮戦争で日本の景気は立ち直したようです。
確かに朝鮮動乱のお陰で日本は立ち直りの大きなきっかけを作りましたですね。
其れと、BHQが急遽日本の再軍備を指示して保安隊(現自衛隊)が出来ましたね。
其れと、日本の第二の発展はベトナム戦争のお陰ですね。
思い出し思い出ししながら書き込みしましょう。
〜〜 昭 〜〜
[No.174]
Re: シューシャンボーイ。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/12(Sun) 13:52
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あや さん、こんにちは。
> > 駅周辺、繁華街特に米軍の兵隊が集まる箇所には10数人ずつ数箇所で行っていましたが、殆どが戦災孤児のようで、長崎に投下された原爆で孤児になった子供達も可也居ました。余りに多くて客の奪い合いで喧嘩になったりしていました。
> 私の家の近くでは見かけませんでした。駅へ行くと居たように思うのですが、
> なんかボーイというより小父さんか、お兄さんみたいなように思いました。
> 気前のいい兵士には会いましたね。お金は貰いませんが、ガムをよくくれました。
> 笑顔ももちろんくれましたが!
矢張り米軍人の集まりやすい所などに店を出したいました、日本人は食べるのに精一杯で靴など磨く余裕はなかっはずです。
私も、ガム、チョコレート等を良く貰いましたよ。
〜〜 昭 〜〜
[No.173]
Re: 戦災孤児2
投稿者:ナッツ甲
投稿日:2010/12/12(Sun) 12:07
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男爵さん
> 実は
> 小学生のときの先生が
> あるとき教室で
> 自分の祖父が風呂上がりで
> 家の前でしゃがみこんで、そのまま亡くなったという話をしてくださいました。
> 行いの良い人はその一生を最後に飾るというのです。
> 良い人生を送った人はきれいな体で苦しまずに亡くなる。
そういう話は、正直、辛いです。よい死に方は、誰も選ぶことは出来ない。
行いがいいから、きれいな体で苦しまずに亡くなる、とは、当人や家族への慰めや
褒め言葉にはなるでしょうが、では苦しんでボロボロの体で死んだ人は、行いが
悪かった、ということになるのでしょうか?
今、病床で、やせ衰えて、自分の意思を他人に伝えることも出来なくなっている夫は
行いが悪くてこんな体になっているのか・・・戦災や事件事故などで無残な体で死んだ
人も行いが悪かったのか・・・
男爵さんは、そんなおつもりで書かれたのではないと思いますが、それはごく内輪での
時に話して欲しかったなぁ、と思いました。
本筋から外れたコメントでスミマセン<(_ _)>
でも、最後に言わせて! 人の最期に行いの良し悪しは関係ないと思います。でないと、
私は怖くて死ぬことも出来ません(^^ゞ
[No.172]
Re: にごり酒
投稿者:ナッツ甲
投稿日:2010/12/12(Sun) 11:45
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男爵さん
> > ちなみに、甘酒は、ごく普通にあちこちの家庭で作られていて、私は好きでした。
>
> この甘酒は酒粕でつくるのでしょうか。
酒かすで作る簡易甘酒なら、昔も今も何の問題もないはず。
もちろん、お米と麹から作る本格的甘酒です。仕込んで、布だか毛布だかでくるんで
掘り炬燵で保温して作っていたようです。
地元では、甘酒とも言いますが、アマカイ、つまり甘粥と言っている家も多かったです。まさに、甘いお粥ですね(^^ゞ
> 天然のヤマブドウのシュースもしばらく置いておくと
> ワインになるはずです。
なるほど、するとあの密造酒は簡易ワインではなく、本格的なワインだった可能性が
大ですね。
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