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[No.176] 一クラス80人。 投稿者:  投稿日:2010/12/12(Sun) 14:31
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  皆さん。

 私の住む市の中心部にある国民学校は殆ど空爆で焼失した所が多く焼け残った一つの学校の校舎に数校が集う事になり、其れは其れは大変でした、一クラス80人は当たり前で教室の通路は真ん中に人一人ヤット通れる程のが一つでした。

 廊下に出るのにクラスメイトの机の上を急いで渡るようにして移動しました。
又、一つの校舎に数校が集まっている訳ですので他校の生徒との間で県下が絶えず、校舎の窓ガラスは皆投石等で壊され雨の日は窓際は傘をさして授業を受け、冬は寒さに震え上がったりしました、とは言え終戦当時まともに授業など出来なかったですね。

 校庭は残らず掘り起こして耕され、さつま芋畑に変身していましたので、授業の変わりに芋掘り等をしていました。
 教科書も戦前のは全て破棄され、先生方がガリ版刷りで作られたのを教材変わりに使用しての授業でした。

 終戦から3、4年は何でも配給制でノート、鉛筆など辛抱して使っていました、学校靴(運動靴)はくじ引きだったのを覚えています。

 取あえず、此処まで。



                          〜〜 昭 〜〜 


[No.178] Re: 一クラス80人。 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/12(Sun) 18:55
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昭さん

>  私の住む市の中心部にある国民学校は殆ど空爆で焼失した所が多く焼け残った一つの学校の校舎に数校が集う事になり、其れは其れは大変でした、一クラス80人は当たり前で教室の通路は真ん中に人一人ヤット通れる程のが一つでした。

80人クラスとは
今のクラスの倍ですね。
大学の教養課程の講義室や集中講義などでは
100〜200人のものがありますが、効率がいいかどうかは疑問なことがあります。

>  教科書も戦前のは全て破棄され、先生方がガリ版刷りで作られたのを教材変わりに使用しての授業でした。
>
>  終戦から3、4年は何でも配給制でノート、鉛筆など辛抱して使っていました、学校靴(運動靴)はくじ引きだったのを覚えています。

くじ引きというのもあったのですね。
食べるものが不足していたのですから、紙とか文房具などは不足していたでしょう。

>  取あえず、此処まで。

思い出したら また書いてください。
多いほど歓迎します。
マーチャンも喜ぶでしょう。


[No.180] Re: 一クラス80人。 投稿者:   投稿日:2010/12/12(Sun) 20:03
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>  私の住む市の中心部にある国民学校は殆ど空爆で焼失した所が多く焼け残った一つの学校の校舎に数校が集う事になり、其れは其れは大変でした、一クラス80人は当たり前で教室の通路は真ん中に人一人ヤット通れる程のが一つでした。

すごいですね。80人とは! 空襲で焼失した学校は多かったはずですが、
どういうわけか80人ではなかったですね。
私が通った学校は、50人か55人でした。5組までありました。

>  廊下に出るのにクラスメイトの机の上を急いで渡るようにして移動しました。
> 又、一つの校舎に数校が集まっている訳ですので他校の生徒との間で県下が絶えず、校舎の窓ガラスは皆投石等で壊され雨の日は窓際は傘をさして授業を受け、冬は寒さに震え上がったりしました、とは言え終戦当時まともに授業など出来なかったですね。
>

考えてみると私など幸せだったのですね。
田舎に疎開した1年位の間も、お寺に来ていた東京の疎開児童はいましたが、
学校は至極平和でした。

校舎に寄りかかって、10人くらいでよく馬とびをしました。
5人も6人も馬になるので、飛び乗るのが大変でした。
男も女もなく、めためたに転んでいっしょくたでした。もしかしたら
女は私だけかも? 

>
>  終戦から3、4年は何でも配給制でノート、鉛筆など辛抱して使っていました、学校靴(運動靴)はくじ引きだったのを覚えています。
>
>  取あえず、此処まで。

いろいろな学校があったというか、私が無知だったというか、
勉強させていただきありがとうございました。                         


[No.186] Re: 一クラス80人。 投稿者:  投稿日:2010/12/13(Mon) 23:50
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男爵さん、あや さん、皆さん。

> すごいですね。80人とは! 空襲で焼失した学校は多かったはずですが、
> どういうわけか80人ではなかったですね。
> 私が通った学校は、50人か55人でした。5組までありました。

 50人と言うのは、25年に新制高校に入学した際のクラス人数で卒業の時は40人に減じていました。

> 考えてみると私など幸せだったのですね。
> 田舎に疎開した1年位の間も、お寺に来ていた東京の疎開児童はいましたが、
> 学校は至極平和でした。

> いろいろな学校があったというか、私が無知だったというか、
> 勉強させていただきありがとうございました。

 私も、終戦の年の7月2、3日頃から迎に来た叔母の所に個人疎開して12月初めに自宅に帰りました。6月28日の夜の佐世保大空襲で私の家の全滅を心配していたようです。

 22年4月より学校改革で新制中学に入りましたが、何しろ校舎が有りません、そこで旧海軍工廠に勤めていた人達の工員宿舎を校舎として使用しましたが、この校舎の直ぐ下が旧国鉄の佐世保線でしたので列車が通る度にSL機関車の吐き出す黒煙と轟音とで勉強になりませんでした。

 この校舎も窓ガラスは窓枠を含め一切有りませんでしたので黒煙は其の侭教室に入ってきますし雨の日は傘を窓枠の方に差しての授業でした、2年生からは別の所に移転しましたので助かりましたが、私達の1年後輩からは、こんな苦労は有りませんでした。


                           〜〜 昭 〜〜                        


[No.187] Re: 一クラス80人。 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/14(Tue) 06:47
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昭さん

>  22年4月より学校改革で新制中学に入りましたが、何しろ校舎が有りません、そこで旧海軍工廠に勤めていた人達の工員宿舎を校舎として使用しましたが、この校舎の直ぐ下が旧国鉄の佐世保線でしたので列車が通る度にSL機関車の吐き出す黒煙と轟音とで勉強になりませんでした。
>
>  この校舎も窓ガラスは窓枠を含め一切有りませんでしたので黒煙は其の侭教室に入ってきますし雨の日は傘を窓枠の方に差しての授業でした、2年生からは別の所に移転しましたので助かりましたが、私達の1年後輩からは、こんな苦労は有りませんでした。

これを読んで
岩手大学工学部の歴史を思い出しました。
戦前にあった盛岡高等工業学校(盛岡工業専門学校)が大学になったのは昭和24年ですが
終戦とともに
進駐軍に校舎を明け渡さなくてはならなくなり
かわりに学校関係者は
町はずれの旧陸軍の兵舎に移転させられました。

学生は勉強するところではなく、教授たちも研究するには劣悪の環境に
おしこめられ
当時の思い出を読むと、ノミとシラミに悩まされたそうです。


[No.208] Re: 一クラス80人。 投稿者:  投稿日:2010/12/15(Wed) 00:14
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男爵さん、あやさん。

> これを読んで
> 岩手大学工学部の歴史を思い出しました。
> 終戦とともに進駐軍に校舎を明け渡さなくてはならなくなり
> かわりに学校関係者は 町はずれの旧陸軍の兵舎に移転させられました。
>
> 学生は勉強するところではなく、教授たちも研究するには劣悪の環境におしこめられ
> 当時の思い出を読むと、ノミとシラミに悩まされたそうです。

 進駐軍が駐留した都市では多かれ少なかれ接収の憂き目にあったようですね。
私たちが入った旧工員宿舎ではその様な事はありませんでしたが、DDTのスプレー缶を進駐軍の兵士から貰ったのを覚えています。

 あや さん。

> やはり疎開をなさったんですね。学校からは「集団疎開」個人では「縁故疎開」
> と言ったのでしょうか。

 そうですね、集団疎開と個人疎開と言っていました。終戦の玉音放送は疎開地のラジオの有る家の前で聞きましたが雑音が多く良く聞き取れませんでしたが、周囲の大人達が日本は戦争に負けたと言って大騒ぎでした。

 国民学校の5年の4月からは授業は殆ど無く食糧生産の為の農耕作業ばかりで疎開するまで続きました。其の為何処でもでしたでしょうが学校の校庭は隅から隅まで耕され耕す個所が無くなると、山裾に行き其の周辺一帯を開墾したものです。

 今にして思えば、子供だけで耕した畑に薩摩芋やジャガイモでしたが良くぞ育てたものだと思います。



                             〜〜 昭 〜〜






 


[No.198] Re: 一クラス80人。 投稿者:   投稿日:2010/12/14(Tue) 20:13
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昭さん、みなさん

>  50人と言うのは、25年に新制高校に入学した際のクラス人数で卒業の時は40人に減じていました。

そうでしたか。

>
>  私も、終戦の年の7月2、3日頃から迎に来た叔母の所に個人疎開して12月初めに自宅に帰りました。6月28日の夜の佐世保大空襲で私の家の全滅を心配していたようです。

やはり疎開をなさったんですね。学校からは「集団疎開」個人では「縁故疎開」
と言ったのでしょうか。

>
>  22年4月より学校改革で新制中学に入りましたが、何しろ校舎が有りません、そこで旧海軍工廠に勤めていた人達の工員宿舎を校舎として使用しましたが、この校舎の直ぐ下が旧国鉄の佐世保線でしたので列車が通る度にSL機関車の吐き出す黒煙と轟音とで勉強になりませんでした。
>
>  この校舎も窓ガラスは窓枠を含め一切有りませんでしたので黒煙は其の侭教室に入ってきますし雨の日は傘を窓枠の方に差しての授業でした、2年生からは別の所に移転しましたので助かりましたが、私達の1年後輩からは、こんな苦労は有りませんでした。

大変な思いをなさったのですね。考えられないことです。