メロウ倶楽部の会員は日本全国で様々な体験をしてきました。
この機会に、「あなたの戦後は?」を色々書いてみてください。
メロウ倶楽部の会員以外の方からの書き込みも歓迎します。
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[No.31]
Re: 食糧難。
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/02(Thu) 18:39
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昭さん こんばんは。
> > ツワ取りのツワとは、どんなものでしょうか。
>
> 蕗はご存知でしょうか、形は良く似ていて葉や茎は此れより硬く又灰汁(アク)は非常に強く茎の皮を剥き水に数時間さらしていたようです。
ネットで調べたら
キク科ツワブキ属の多年草でしたね。
こちらでは
キク科フキ属のフキは食べます。
フキノトウのフキです。
こちらでは季節限定です。
[No.30]
Re: 戦後の日本/私の場合
投稿者:昭
投稿日:2010/12/02(Thu) 17:46
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> > いまのコッペパンと同じものでしょうか。
>
> 数倍の大きさだったように思います。いや、そのように記憶しているだけかも。
私の場合は、今のコッペパンと同じ大きさでしたが色が黒くて硬かったのを覚えています。
〜〜 昭 〜〜
[No.29]
Re: ヤミ米
投稿者:昭
投稿日:2010/12/02(Thu) 17:43
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カレチさん、皆さん。
> 子供が持てる程度のお米をお土産としてもって帰省途中
> 鉄道公安官によるヤミ米の取り締まりがあり、ヤミ米輸送の一味と間違われ
> 三ノ宮駅の鉄道公安官室へ連れていかれました。
カレチさん、大変な経験をされたようですね。
私の経験では、当時は米は統制品でしたので、即没収で私も2度ほど引っかかり没収された経験があります、1946年の春と秋でした。
又、当時の列車は今の大都会の通勤列車の比ではありませんでした、客車に乗れず機関車に乗って移動したことも再三でした。
[No.28]
Re: 行商。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/02(Thu) 17:33
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> 働き者でしたね。
> 大変でしたね。
> 和傘も日常ではもう見ることはなくなりましたね。
学制改革の年の前後は色んな意味で大変でした。
自分と同年輩の人は大小の差はあれ皆さん稼ぐ事を覚えさせられたのではないでしょうか。
此の他にも、神社等でのお祭りがあれば其処にチッチャナ店を出し、飴や煎餅等を売ったり、餡餅や竹輪、蒲鉾等などを総合病院の入院患者さんに売って回ったりしていました。
〜〜 昭 〜〜
〜〜 昭 〜〜
[No.27]
Re: 食糧難。
投稿者:昭
投稿日:2010/12/02(Thu) 17:22
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男爵さん。
> ツワ取りのツワとは、どんなものでしょうか。
蕗はご存知でしょうか、形は良く似ていて葉や茎は此れより硬く又灰汁(アク)は非常に強く茎の皮を剥き水に数時間さらしていたようです。
此れを剥くと手指の爪が赤黒く染まりこれが普通に戻るには数日を要しました。
其れほど灰汁が強いという事ですね。
今でも里山等に行けば自生してるのではないでしょうか、採取して食べられる方が居られるかどうかですね。
[No.26]
Re: 修学旅行の思い出
投稿者:
投稿日:2010/12/02(Thu) 16:57
[関連記事] URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/ |
[No.25]
Re: ヤミ米
投稿者:男爵
投稿日:2010/12/02(Thu) 14:25
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カレチさん こんにちは
> 小学4年で6時間もの1人旅をした私もしっかりしていたと自画自賛しますが
> それ以上に一人旅を許した親を偉いと思っております。
小さいのに、よく6時間の一人旅をしましたね。
お米は家まで持って帰られたのでしょうか。
それとも没収?
[No.24]
Re: 戦後の日本/私の場合
投稿者:Kenza
投稿日:2010/12/02(Thu) 10:26
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> いまのコッペパンと同じものでしょうか。
数倍の大きさだったように思います。いや、そのように記憶しているだけかも。
[No.23]
ヤミ米
投稿者:
投稿日:2010/12/02(Thu) 09:58
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1948年小学4年の時の思い出です。当時神戸に住んでおりました。
当時まだ食糧難で夏休みは農家だった広島県の母の実家へ1人行き
食事だけは不自由なく過ごしてりました。
子供が持てる程度のお米をお土産としてもって帰省途中
鉄道公安官によるヤミ米の取り締まりがあり、ヤミ米輸送の一味と間違われ
三ノ宮駅の鉄道公安官室へ連れていかれました。
電話も少なくご近所のお金持ちの電話を使わせていただくのが当たり前の時代でしたが
なんとか家に連絡がついて、母親が貰い下げに来てくれ無事解放されました。
私の人生で唯一警察に連れて行かれ留め置かれた記録で、ほろ苦い思い出です。
小学4年で6時間もの1人旅をした私もしっかりしていたと自画自賛しますが
それ以上に一人旅を許した親を偉いと思っております。
ただ息子が警察に連れて行かれたのは痛恨の思い出だったようで
「あの時はつらい思いをさせた」死ぬまで悔んでおりました。
[No.22]
Re: 修学旅行の思い出
投稿者:
投稿日:2010/12/02(Thu) 09:08
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あやさん こんにちは
>> 昭和20年8月15日、日本が戦争に敗れ、勤労動員で工場に勤務して
>> いた私たちは、その翌日から学園に復帰した。
>
>もうこのころ働いていらしたのですか。尊敬です。
あれま!勤労動員と言うのは、お国のために、兵器を作るために学生を動員して
使ったと言うことです。
文科の学生は繰り上げ徴兵されましたけど、理科の学生は、徴兵こそされません
でしたが、軍需工場に行って兵器を作りました。私も、桂にあった中日本重工の
工場で飛行機のエンジンの部品を作りましたよ。
戦後、その時の給料として、中学卒の公定?給与の5か月分(20年4月から
8月まで)二百何十円を郵便貯金通帳でもらいましったっけ。
紫竹の(小澤)
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