男爵さん、あや さん、皆さん。
> すごいですね。80人とは! 空襲で焼失した学校は多かったはずですが、 > どういうわけか80人ではなかったですね。 > 私が通った学校は、50人か55人でした。5組までありました。
50人と言うのは、25年に新制高校に入学した際のクラス人数で卒業の時は40人に減じていました。
> 考えてみると私など幸せだったのですね。 > 田舎に疎開した1年位の間も、お寺に来ていた東京の疎開児童はいましたが、 > 学校は至極平和でした。
> いろいろな学校があったというか、私が無知だったというか、 > 勉強させていただきありがとうございました。
私も、終戦の年の7月2、3日頃から迎に来た叔母の所に個人疎開して12月初めに自宅に帰りました。6月28日の夜の佐世保大空襲で私の家の全滅を心配していたようです。
22年4月より学校改革で新制中学に入りましたが、何しろ校舎が有りません、そこで旧海軍工廠に勤めていた人達の工員宿舎を校舎として使用しましたが、この校舎の直ぐ下が旧国鉄の佐世保線でしたので列車が通る度にSL機関車の吐き出す黒煙と轟音とで勉強になりませんでした。
この校舎も窓ガラスは窓枠を含め一切有りませんでしたので黒煙は其の侭教室に入ってきますし雨の日は傘を窓枠の方に差しての授業でした、2年生からは別の所に移転しましたので助かりましたが、私達の1年後輩からは、こんな苦労は有りませんでした。
〜〜 昭 〜〜
|