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[No.7366] 『かかわり本』番外編 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/11/14(Sat) 12:49
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徳川夢声と云えば、吉川英治の「宮本武蔵」の朗読で名高い。この人がまさか、隣の街に住んでいようとは、あっしも思わなかった。吉川英治の「武蔵」が全国を制覇したのには、夢声の功績が顕著であるというひともある。。

 大場通り。きのうは、小学校のクラスメートのK君に電話してみたら、さいわい家にいた。そこで、しばらく懐旧談に花を咲かせたが、井伏さんが大場(ダイバ)通りのことを「敗戦後、早稲田通りと変わり、次は日大通りとなって」と書いているのを確認すると、そんなことはない。今でも、自分たちは相変わらず、大場通りと呼んでいるというので、井伏さんのいた荻窪あたりでは、そう変わったのかも知れないが、それは一部の話で、現に住んでいるK君の住む阿佐ヶ谷では、いまだに、昔の名で呼んでいることが分かった。また、

 井伏さんは、骨董趣味のことをよく書くが、骨董に関しては、いまは西荻窪の方が阿佐ヶ谷や荻窪より盛んな気がする。西荻など、歩いてみると、事実骨董屋が多いし、骨董祭りなども定期的に催している。

 しかし、当時は青柳さんだけでなく、蔵原伸二郎だの、光成信男、著者の井伏さんなんかも釣られて、骨董品を見て歩いたらしい。ただ、骨董屋の場所、名前なぞが書いてないのは残念だ。はなし変わるが、

 子供の頃の便所は汲み取り式で、オワイ屋さんという人たちが、各戸を回って便所の汲み取りをしていた。肥え桶一杯を一荷と呼び、きょうは多かったので、2荷分頂きますとか云われて、代金を払っていたような気がする。その時、桶に宇田川とか筆字で書いてあった。

 井伏さんの「風土記」では、人糞の入った木製の肥え桶の話は出て来るが、それらを載せた大八車を押す「立ちん坊」の賃料のことしか出ていない。大八車にはその後、改良が加えられ立ちん坊の手を借りなくても、険しい坂を上がれるようになったとか。

 巻頭に、長谷川弥次郎という古老が出て来る。著者はこの人が「敗戦の年まで天沼の地主宇田川さんの小作であった」と書いている。またその先にも、「宇田川の荻窪田圃で麦を作り」と云うのが出て来る。この宇田川さんという人が恐らく、汲み取り人などを取り仕切っていたのではないだろうか。K君もたしか、そうだろうと云って、相槌を打っていた。


 関東大震災。この実見記は非常に貴重だ。「阿佐ヶ谷駅はホームが崩れて駅舎が潰れていた。」そんな話は一度も親父から聞いたことがなかった。荻窪駅は、大して被害がなかったようだ。当日の未明には土砂降りの雨が降ったことを記している。井伏さんは、後日の記録にある「この日は空が抜けるほど青く、蒸し暑い朝」だったという記事に異議を唱えている。この時の「雨脚の太さはステッキほどの太さがあるかというようで」といってあるので、余程強い雨だったのだろう。又たとえに「南洋で降るスコール」を挙げている。また、


 また、おっかない女、神近市子さんのはなしも面白い。市子はもと、社会主義者の大杉栄の愛人だったが、大杉が心変わりをして、神近から伊藤野枝を愛し始めたことから、激高して大杉を刺し、2年間ブタ箱生活を送る。いわゆる、日蔭茶屋事件である。

 文藝春秋社の出していた「文藝手帳」に左翼の闘士、神近女史の住所が鱒二と同じに記載されていたことから、警察が井伏さんに疑惑の目を向け始めた。もともとは、女史が出鱈目の住所を届けたことが原因で、無実の井伏さんは、二度までも警察に尋問され、大迷惑を蒙った。

 そのやり取りが、仔細に記録されている。一回目は「あなたと神近さんとは、どういう御関係ですか」に始まって、「住所が、下井草一八一〇番と言われるのは、どういうわけでしょうか」、「市子さんは、かつてお宅に下宿されていたことがありますか」「あなたか、またはあなたの友人が、神近市子さんと個人的にお知合いですか」

 二回目は「お宅に寄寓されていたことがありますか」「お宅の御主人が、神近市子さんのお宅に寄寓されていたことがありますか」「お宅のご主人が、神近市子さんのお宅に寄寓されていたことがありますか」「では、お宅のご主人のお父さんが、神近市子さんと同棲されていたことがありますか」「お宅の御主人は、かつて神近さんと同棲されていたことがありますか」うっせい、いつまでやってんだ、この野郎。とでも、怒鳴りたくなるしつこさ。二回目は井伏さんの夫人への尋問であった。

 神近市子はおっかないので、世間から、『噛み付き市子』とあだ名されていたらしいが、飛んだ迷惑人間である。さて、

 大地主では玉野さんと云うのもいた。とは、K君の発言で、これは井伏さんの「風土記」にも出ていて、完全に符合する。ここで興味深いのは、旧幕時代の話。このあたりで領主をしていた今川氏が当時『窓税』なるものを課していたらしい。なかなか、強かである。領民は堪らず、窓を塗りつぶして対抗した。ところが、先方はさらにうわ手で、今度は『窓塞ぎ税』をひねり出したという。こうなると、領民も、もう打つ手がない。

 「風土記」での、二・二六事件の記述を読むと、証言が錯綜して、デマの発生する舞台が見事に活写されている。


[No.7367] Re: 『かかわり本』番外編 投稿者:GRUE  投稿日:2015/11/14(Sat) 15:56
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紋次郎さんの文章は全くよどみが無く話題は果てしなく広がって行く。
あー、今日も又、道に迷ってしまった。帰り道はいずこにと探し回る
ばかりである。

こういう時は、どこかとり付けそうな部分を探してそこに食いつくに
限る。全部食べようなどと決して思わないこと。食べれば、この小さな
銀杏じゃなかった胃腸では、きっと消化を起こす。という訳で。

>  また、おっかない女、神近市子さんのはなしも面白い。市子はもと、社会主義者の大杉栄の愛人だったが、大杉が心変わりをして、神近から伊藤野枝を愛し始めたことから、激高して大杉を刺し、2年間ブタ箱生活を送る。いわゆる、日蔭茶屋事件である。

大杉栄と神近市子、伊藤野枝の関係はその通りだが、伊藤野枝とのことについて
目が留まった。

伊藤野枝については、まず青鞜社のことが挙げられる。1911年、青鞜社は
平塚らいちょうらによって創刊された。1915年それを引き継いだのが、伊藤
野枝。女性解放問題が生涯の課題。

青鞜社に参加する前に、福岡糸島から上京し上野高女に入学し当時英語教師で
あった有名なダダイスト辻潤と結婚していた。子供が2人いた。

青鞜社で頭角を現し、与謝野晶子などの蒼々たる女性解放活動家と親交を深めて
行った。

この流れの中で、無政府主義者(アナーキスト)大杉栄に接近していったのは、
必然のことだった。神近市子と大杉を争い、壮絶な事件にまで発展した訳。
結局恩師でもあった辻順と別れ大杉と結婚。

伊藤野枝の思想は急進化していったがそれも必然。1923年、関東大震災の際に
大杉と一緒にいた所を、大杉の甥の橘宗一と共に、憲兵大尉甘粕正彦に虐殺され
る。明らかに狙われていた。わずか28歳の無残な死に様が胸を打つ。

実は、甥の宗一が米国籍だったために、米大使館に抗議され政府(軍部)はお慌
て。しかし軍法会議で甘粕は死罪にはならず、満州に逃げていった。(この後、
満州で元夫の辻順と甘粕大尉の再会の描写を読んだことがあるが、丸で、ピストル
を抜かない決闘のような場の描写が壮絶であった。辻順は離婚しても野枝を愛して
いた。)

静岡市葵区に野枝が墓があり、「自由恋愛の神様」となっているようです。
全集も出されている。

辻順と野枝との間の長男が辻一(つじまこと)、彼のことも語り出せばキリがない。


[No.7368] Re: 『かかわり本』番外編 投稿者:唐辛子紋次郎  投稿日:2015/11/14(Sat) 18:24
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  GRUE さん、こんばんは。

 超ご多忙の中、丁寧なコメント、ほんとうに有難うございました。<m(__)m> 


> この流れの中で、無政府主義者(アナーキスト)大杉栄に接近していったのは、
> 必然のことだった。神近市子と大杉を争い、壮絶な事件にまで発展した訳。
> 結局恩師でもあった辻順と別れ大杉と結婚。


 もしかして、これって、辻順ではなく、辻潤ではありませんか。ところで、

ウィッキー日本版の解説ではただ、翻訳家、思想家と切り捨てていますが英語版では、作家、詩人、エッセイスト、劇作家、翻訳家、ダダイスト、虚無主義者、美食家、尺八奏者、俳優、フェミニスト、ボヘミアン(浮浪者?)と随分詳しいですね。

 辻潤と云う人物。最後には、仏教にまで救いを求めるに至っては、しょうじき、支離滅裂というか、あっしには、理解不能の人物ですね。


[No.7369] Re: 『かかわり本』番外編 投稿者:GRUE  投稿日:2015/11/14(Sat) 20:59
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紋次郎さん、こんばんは、

>  超ご多忙の中、丁寧なコメント、ほんとうに有難うございました。<m(__)m> 

私こそ、読んでいただいて感謝です。

> > この流れの中で、無政府主義者(アナーキスト)大杉栄に接近していったのは、
> > 必然のことだった。神近市子と大杉を争い、壮絶な事件にまで発展した訳。
> > 結局恩師でもあった辻順と別れ大杉と結婚。

>  もしかして、これって、辻順ではなく、辻潤ではありませんか。

その通りです。 辻順 → 辻潤 の間違いです。

>ところで、
> ウィッキー日本版の解説ではただ、翻訳家、思想家と切り捨てていますが英語版では、作家、詩人、エッセイスト、劇作家、翻訳家、ダダイスト、虚無主義者、美食家、尺八奏者、俳優、フェミニスト、ボヘミアン(浮浪者?)と随分詳しいですね。

思想家ですから、一言で言えば、ダダイストというのでいいのではないでしょうか。
他の諸々は、それを表現する手段ということになりそうです。全集を見れば、翻訳
が多いようです。

>  辻潤と云う人物。最後には、仏教にまで救いを求めるに至っては、しょうじき、支離滅裂というか、あっしには、理解不能の人物ですね。

思想家ですから、宗教もその一部なんではないでしょうか。

ダダイズムは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A0
で大体分かりますね。

1910年代、すなわち第一次大戦時代、日本では大正時代。つまり、大正
デモクラシーの時代とオーバーラップしています。

この時期は、激動の時代で、色々な思想が流行しています。その中で、どの
ような思潮に関心を持つかは人それぞれなんでしょう。

時代批判として、戦争に対する抵抗と虚無思想。彼がとらわれたのはこの方向
のようです。そして、この方向でも、抵抗ではなく、虚無思想に傾いていった
と思われます。抵抗が強まれば無政府主義とかに向かうのでしょうか。
ただ、精神の自由の確保という点は重要なポイントであったと思われます。

しかし、時代は、関東大震災や世界恐慌など、急速に悪化していきます。
この中で、大正デモクラシーも抑圧され逼塞していきます。虚無思想も
生きて行きにくいでしょう。ならば正面から向き合うか、それも彼には
選択に入らなかったのかも。

伊藤野枝は、極めてアクティブな女性です。社会を変える(女性の解放)を
進めることに関心があります。辻潤から大杉に気持ちが移ったというのは、
ありえます。そして、この気持ちを辻潤は認めてやった訳ですが、心安ら
かであったとは思えません。

こうしたことが辻潤の精神を狂わせていったと思われるのですがどうでし
ょうか。時々半狂乱状態になり、最後は孤独な餓死でした。


[No.7380] Re: 『かかわり本』番外編 投稿者:あや  投稿日:2015/11/16(Mon) 21:40
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紋次郎さん、こんばんは、

番外編の終わり? にやっと少しばかりのレスです。

やっとの思いで読むだけは読んだものの、なんとレスをつけてよいやら!
私の知識では追いついていけません。読んだだけでお許しを<(_ _)>
GRUE さんとは違うことにも恥じ入ります。

> > 結局恩師でもあった辻順と別れ大杉と結婚。
>
> >  もしかして、これって、辻順ではなく、辻潤ではありませんか。
>
> その通りです。 辻順 → 辻潤 の間違いです。

は楽しかったです。