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[No.7943] 軽便鉄道 投稿者:男爵   投稿日:2017/09/28(Thu) 14:44
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ひところ
貧しい地方のための鉄道として流行ったようです。

まずは
芥川龍之介「トロッコ」に出てくる軽便鉄道

 小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。
  .......

  この小説は、大正11(1922)年に書かれたのです。

軽便鉄道は、当時の東海道線や東北線のような基準を守っている鉄道ではないから
建設費用も少ないが、輸送力も速度も劣るわけです。

当時の東海道線は、御殿場線だったから
 国府津(こうづ)−御殿場−沼津 のルートだったのです。
  東海道線 新橋〜神戸 明治22(1989)年開通

熱海まで軽便鉄道ができて、しかし沼津までの道は、丹那トンネルをぬけなくてはならず
トンネル技術者は大変な苦労をしたのです。

軽便鉄道からランクが上がり、丹那トンネルも開通として
東海道線が新しく 国府津−熱海−沼津 列車が走ったのは 昭和9(1934)年

金色夜叉の貫一とお宮は、どうやって熱海までいったのか?
まじめに調べている人がいます。

明治36(1903)年に亡くなった尾崎紅葉のあとに
芥川は、大正11年に「トロッコ」を書いているのですから。

  熱海駅の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E6%B5%B7%E9%A7%85
 この記事に 出典がまったく示されていないと、Wikipediaに注意書きが

-----

豆相(ずそう)人車軌道というのがありました。

当時、東海道線はまだ御殿場回りだったので
熱海に行くには、国府津から人力車に乗り換えないといけなかった。

それならと、小田原−熱海 ここに人車軌道ができたのは 明治29(1896)年

しかし、人車軌道は軌間が610mm、客車も上等4名、下等6名定員
この人車を押す従業員がいたのだ。
  まるでお祭りの山車みたい。

押し手の人件費もかかるし、効率が悪いというわけで
機関車をつかうことになった。

脆弱な人車軌道の線路を改修するとともに、軌間を610mmから762mmへと改軌した。
 (芥川龍之介「トロッコ」は、豆相人車鉄道が熱海鉄道へ改修する工事の用のトロッコをモデルにしていると言われる)

念願の動力化と改軌道改修工事が完了したのは明治40(1907)年

  岡本憲之:全国軽便鉄道  JTBキャンブックス


[No.7944] Re: 軽便鉄道 投稿者:男爵   投稿日:2017/09/29(Fri) 07:02
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Re: 軽便鉄道
画像サイズ: 886×532 (61kB)
> ひところ
> 貧しい地方のための鉄道として流行ったようです。

岩手軽便鉄道
  軌間762mm  花巻から仙人峠まで

大正2(1913)年にできたこの鉄道は
宮沢賢治の「銀河鉄道」のモデルとされ
昭和24(1949)年にいまの釜石線に発展した。

地元ではSLを走らせて、観光につとめています。

>   岡本憲之:全国軽便鉄道  JTBキャンブックス

写真は
敦賀にある「銀河鉄道999」  金沢全国オフの後に立ち寄ったものです。


[No.7950] 熱海まで行った尾崎紅葉 投稿者:男爵   投稿日:2017/10/09(Mon) 07:54
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> 当時の東海道線は、御殿場線だったから
>  国府津(こうづ)−御殿場−沼津 のルートだったのです。
>   東海道線 新橋〜神戸 明治22(1989)年開通

> 軽便鉄道からランクが上がり、丹那トンネルも開通として
> 東海道線が新しく 国府津−熱海−沼津 列車が走ったのは 昭和9(1934)年
>
> 金色夜叉の貫一とお宮は、どうやって熱海までいったのか?
> まじめに調べている人がいます。


佐藤喜一:鉄道の文学紀行  中公新書1830

一度読んだことがある本  改めて借りてきました。

金色夜叉が読売新聞に連載を始めたのは,明治30年1月1日から。
有名な熱海の夜が「1月17日」
この夜を明治30年としてよいかはさておき、と著者は推理をはじめる。

新橋から国府津までは鉄道があった。
国府津から小田原までは鉄道馬車。 これは明治20年10月から走り始めている。

小田原からは豆相人車鉄道  明治29年3月に全通。

だから、金色夜叉の主人公の貫一もお宮も豆相人車鉄道に乗ったであろう。

> 豆相(ずそう)人車軌道というのがありました。
> それならと、小田原−熱海 ここに人車軌道ができたのは 明治29(1896)年

> 押し手の人件費もかかるし、効率が悪いというわけで
> 機関車をつかうことになった。

> 念願の動力化と改軌道改修工事が完了したのは明治40(1907)年

尾崎紅葉は明治36年に死んだから、金色夜叉の主人公たちも熱海までの軽便鉄道は知らなかった。

ところで尾崎紅葉は熱海に行ったのだろうか。
この著者はそれも調べている。

明治26年2月、紅葉は硯友社(けんゆうしゃ)同人の石橋思案と熱海まで旅に出た。

小田原から,まだ二十代だった二人は、徒歩で熱海に向かう。
途中の吉浜(湯河原)で一泊し、翌日に熱海に着いた。