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[No.518] 加太こうじ 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/11(Sun) 15:02
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人間の記録37
加太こうじ
日本図書センター

とてもおもしろい本。
父が病気で貧しい。弟と妹がいて一家五人を高等小学校を出た
加太こうじがみんなを養わねばならない。

84人受けてわずか2人しか受からなかった逓信省の給仕になったが、日給55銭で
月に16円50銭にしかならない。

彼は逓信省に採用されるまでにアルバイト的に紙芝居の絵を描く仕事をしていたが
それは月に45円から50円くらい稼いでいた。(子どものときから絵がうまかった)
母の兄の紹介で逓信省に職が決まったが、母も紙芝居の絵で稼ぐほうがいいと認めた。

紙芝居屋は最初はテキヤの盃をもらって神社や縁日のテキヤの縄張りで仕事をしていたが
縄張りの外でも仕事をしたくなりテキヤの親分に盃を返して、縄張りのない往来で仕事をするようになった。
そういう紙芝居屋の歴史も、紙芝居屋の雇い主から聞く。当時の紙芝居屋はテキヤの仁義がきれた。

加太こうじの本名は「加太一松(かぶと かずまつ)」なのだが、それでは呼びにくいから「かたこうじ」に変えたほうがよいと言われて{加太こうじ}と名前を変える。

彼は研究熱心なので映画の時代劇や江戸川乱歩の探偵小説を参考にして
ストーリーを考え意外性ももたせたりするから、収入がどんどん増えていった。


[No.519] Re: 加太こうじ 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/11(Sun) 19:32
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加太こうじが徴兵検査で丙種となったあと
山本たちと館山にあそび、山本との議論のうちに次のような考えをまとめた。

「芸術、非芸術という言葉は、芸術至上主義者やその残り滓をつけた、プチブルの考えである。同じ歌をテナーの藤原義江が歌うと芸術になり、芸者の市丸が歌うと芸術では
ないというのは、芸術主義者やプチブルが芸者や民衆を軽視しているから勝手にそうきめたのである。ここからが芸術、ここからが非芸術という区別はできないのに、自分に都合のいい芸術だけを認めているのだ。芸術はあらゆる階層の要求によって、形式や内容が決められている。ただ、大衆は娯楽と芸術に対する態度が明確でないから、楽しむことを通して芸術に接するのだ。ベートーベンやアンドレ・ジイドばかりが芸術ではない。浪曲も落語も流行歌も芸術であり、それが大衆に、どういう影響をあたえるかということが問題なのだ。今の日本では本来大衆のものであるべき芸術(浪曲や流行歌)が、大衆を盲目にするための支配階級の道具になっている」


[No.522] Re: 加太こうじ 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/12(Mon) 09:21
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この本では
すべて実名で書かれてある。
それを本人に断ってあると、 加太こうじは書いているが
もちろん悪口など書いていない。
 とうぜん、水木しげるも出てくる。 水木しげるの紙芝居時代があったのは加太こうじとの接触があったから。

戦争中の暗いときでも
加太こうじたちは男女わけへだてなくつきあっていた。
どうやら指導者の小学校時代の先生翠川淳(みどりかわじゅん)がすばらしいかったようだ。
この先生を中心に同級生たちが集まってきて交流はずっと続いた。
マルクスや社会運動も知っていたが、加太こうじは冷静に距離感を保っていた。
なにしろ彼は一家五人の生活を支えなくてはならなかったから。
警察や特高に踏み込まれたときのことも考えて日記や本も処分し、想定質問対策まで考えていたという。(マルクスはロシア人だと答える用意をしていた)

 加太こうじの幼なじみの同級生で仲良くしていた鶴巻秀子は同級生の体が弱い裕福な日下忠治と結婚したが、結核の夫と死別した。その後再婚して会津の柳津に行った。
 その後、加太こうじはモデルの高橋鈴江と親しくしていたが、彼女は別れた彫刻家井手則雄が忘れられず、加太こうじは彼女との結婚に踏み切れなかった。
 結局、加太こうじは大工の娘の榎本よし子と結婚した。