[No.529]
Re: サンデーとマガジン
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/12(Mon) 20:07
[関連記事] |
> 大野茂:サンデーとマガジン、光文社新書400
>
> 昭和30年代に全国的な漫画批判があった。
> 漫画ばかり読んでいると馬鹿になる。
それでもニーズはしっかりあった。マンガは売れていた。
1958(昭和33)年
2年前に創刊された「週刊新潮」の表紙の谷内六郎の絵が印刷されたマッチ箱を
駅前で配っているのを見た小学館の豊田亀一は
「そうだ、子どもの週刊誌って、まだないな....そろそろやってもいいんじゃないかな」と考えた。
こうして小学館は翌年5月5日に新しい週刊誌「少年サンデー」を出すことにして準備をはじめた。
しかし、どこでかぎつけたのか、講談社も対抗して「少年マガジン」を発行することになった。
それから大変、互いに相手より一日でも先に出そうとして、発売日はだんだん早くなっていった。
結局、両方とも3月17日に発売した。
「少年サンデー」と「少年マガジン」、ふたつの週刊誌は人気漫画家の争奪戦を演じた。また、新人漫画家の発掘にもつとめた。
結果的には漫画家という職業に日の光があたるようになって、漫画家をめざす若者が増えていった。
そんな中で、トキワ荘の寺田ヒロオの運命が変わっていったのである。
赤塚不二夫の「おそ松くん」は人気が急上昇したが
「おそ松くん」の繰り出すギャグの破壊力は、意外なところへの余波も生じさせた。
それまで手塚治虫と並んで少年サンデーのイメージの牽引役だった寺田ヒロオの影が、徐々に薄くなっていったことだ。
そもそもが、少年マガジンの「ちかいの魔球」で、寺田ヒロオの「スポーツマン金太郎」は古いタイプのマンガだというレッテルを貼られてしまっていた。そこに持ってきて、従来の概念を覆す赤塚ギャグが身内の少年サンデーから現れた。寺田にしてみれば、サンデー、マガジンの内外両面から自己の作品を時代遅れだと言われたようなものである。
「小学三年生」から「少年サンデー」に移籍した高柳には、こんな切ない思い出があるという。
「おそ松くん」の連載を始めてしばらく経って、居酒屋で寺田とお酒を飲んだときの会話。
「高柳さん、『おそ松くん』ね、あんなマンガやめなさい」
「何でですか」
「子どもは、おいしいものがあると駄菓子屋と同じで、すぐ取って口にやると、それで体を壊して虫歯もできる。そんな子どもが手に取るようなものばっかりやっちゃいかん」
「寺田さんと赤塚さんは、トキワ荘の親分・子分の関係じゃないですか。そんなこと言わないで下さいよ」
「やっぱり子どもは、育てる、守ってやる、与えるという存在ですよ。良い物を与えるというのが俺たちの務めだ」
「赤塚さんは、子どもを応援してやろう、子どもにはやっぱり好きなことをやらせてやろうっていう姿勢なんですよ」
寺田は杯をぐいっと空けるとぼやくように言った。
「高柳さんは、どうも赤塚におかされたなぁ...」
その後も、高柳とお酒を飲む度に、寺田は同じことを繰り返し愚痴ったという。
「そこは、寺田さんと赤塚さんの子どもに対する考え方・感覚の違いなんです。両方とも正しいと思う。サンデーは、両方とも大事にしたかった」(高柳)