| > 竹内途夫:尋常小学校ものがたり
 > 著者は岡山県の農家に生まれた。
 > 父の兄たちは農家をつかず外に出て就職したが
 > 三男の父は農家の跡取りとなった。
 > 父の弟は東大を出たという。
 
 昭和4年は世界大恐慌の嵐が吹いて不況のどん底だった。
 小津安二郎の映画「大学は出たけれど」の題名はそのまま時代を象徴する流行語となった。
 
 それを地でいく男がいた。
 それは一番下の叔父で、
 叔父は東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。
 
 卒業しても就職できず実家に帰ってきて待つこと半年
 やっと就職できたのは神戸の小学校の代用教員だった。
 
 翌年心配した祖父が様子を見てこいといって
 著者に大枚五円を奮発してくれたので
 海水浴をかねて従兄の中学生と一緒に二人で
 岡山から神戸の叔父を訪ねた。
 
 六畳二間の新築の家に、通い女中を使っての生活は結構満足しているように見えた。
 それは暇を見つけて京都や奈良の古寺を訪ね、大学で専攻した美術史の仏像彫刻の研究ができるようになったためで
 慣れぬ学校勤めのうさばらしにもなっていた。
 
 勤め先の学校はずいぶん居心地が悪るそうで、校長や同僚とも打ちとけず
 子どもの扱いにも当惑しているらしいことは、叔父の話しぶりから想像できた。
 
 その日は、叔父は日直で不在だったので、何気なく開けた机の引き出しには
 四枚の教員免許状と一通の辞令があった。
 免許状は師範学校・中学校・高等女学校の国語、漢文、日本史、西洋史の文部省の教員免許状であり
 辞令は小学校の代用教員を命じたものであった。
 (師範学校は小学校の先生を養成する学校である。その師範学校の先生になれる資格があるのに、なぜ小学校では正式の教師になれないのだろうと疑問に思った)
 
 代用教員でも、月額九十円を給するのだった。帝大出は違うものだなと思った。
 
 約一年間辛抱した叔父は、神奈川県の平塚農学校の国漢の教師になった。
 給料は月額八十五円になった。
 
 貧しい百姓の子らは給料取りが羨ましかった。
 
 給料取りも、学校の教師や駐在所の巡査のように、退職したら恩給がつくのが本物で、恩給のつかない役場の吏員やできたばかりの信用組合の事務員とははっきり区別していた。
 
 恩給のつく本物のサラリーマンの最たる者が、村の学校の校長先生だった。
 
 校長は百二十円の給料で、教頭は九十円、師範での若い先生は六十円、代用教員は三十円の月給だった。
 
 子ども達は計算した。米一俵を六円とすれば
 校長は月二十俵、年に二百四十俵の米を家に運ぶことになる。
 当時の農家の場合、一反五俵が平均収量だったから、校長は一人で五町歩近い田圃を耕す大百姓ということになる。
 
 一町歩を作る百姓は、家族三人ぐらいが汗水たらして働き、収穫する米は年五十俵、金にして三百円ぐらいだった。
 
 子だくさんの当時は、このうち飯米として少なくとも半分ちかくは確保しなくてはならなかったから
 売る米は二十五俵で、百五十円から二百円の収入ということになる。
 
 代用教員でも、月給三十円は、米にすれば月五俵、年六十俵になるから
 たった一人で一町二反の田圃を耕す中規模百姓ということになる。
 
 
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