大島龍彦/大島裕子編 新典社
あどけない話 智恵子は東京に空が無いといふ ほんとの空が見たいといふ。 私は驚いて空を見る。 桜若葉の間に在るのは 切っても切れない むかしなじみのきれいな空だ。 どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。 智恵子は遠くを見ながら言ふ。 阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。 (昭和3年5月11日作)
何も知らなかった(中学生の)私が この詩を読んだとき あどけない智恵子は子供だから 東京の空と福島県の阿多多羅山の空とは違うと思ったのだろう 子供はそんなものだと思ったのでした。
それから私も大きくなって 智恵子は時々里帰りして、やはり故郷はいい 東京には空が無い、と光太郎によく言っていたから 高村光太郎はこういう詩を作ったのだということを知りました。
この詩ができて50年もたったころ 上野駅に下りた私は 東京の空も空気も、東北のそれとは全く違うことに気がつきました。 感覚や感情が人より敏感だった智恵子は すでに未来の東京の空を予知していたのかもしれないと 気がついたのです。
この詩が書かれた翌年昭和4年には知恵の実家は破産し一家離散となり 昭和6年に光太郎が三陸に取材旅行中に 智恵子の精神分裂病の最初の兆候が現れるのを 上京した母と姪の春子が発見するのです。
昭和7年には智恵子はアダリン自殺未遂を起こし 昭和8年には光太郎は智恵子を連れて療養のため草津温泉に連れて行きます。 そして、それまで同棲していたのを智恵子の将来を考えて 8月23日に智恵子を入籍する手続きをとります。
高村光太郎と智恵子の結婚は、芸術家どうしの結婚で 同じ方面を志す者どうしの結婚は、互いにライバル関係なので なかなか難しいとされています。 智恵子は作品を文展に出したところ落選して プライドを傷つけられたため以後光太郎がいくら勧めても 文展に出品しなくなったというのが定説ですが この本では 光太郎も文展に関しては「浅薄卑俗な表面技術の勧工場」と酷評して 出品していないので 智恵子としては出品しなかったし、出品できなかったのではないかと推察しています。
しかし 智恵子は創作意欲は持ち続け創作活動は死ぬまであったのです。 それは生家の知恵子記念館に展示されている紙絵です。 智恵子がゼームス坂病院に入院したとき 姪の春子が看護婦として付き添い身の回りの世話をしましたが 智恵子の症状が落ち着いてくると 智恵子は病室でハサミと色紙を使って紙絵の制作を始めるようになります。 約2年間の間に千数百点もの紙絵を制作しています。 その中にいくつは、福島県二本松市にある智恵子記念館に展示されているのです。
紙絵の題材は、食材、花、魚、箸、スプーン、カップなどの身近な日用品から 二人が暮らしたアトリエや、光太郎の木彫り「蓮根」「石榴」などの 過去の記憶だけを頼りに作られたものもあったのです。 ゼームス坂病院で食事が運ばれてくると、それを見た智恵子は創作意欲にかられ 食事もしないで、紙絵制作にとりかかり、早く食べるようにと催促されることもあったそうです。 そして、光太郎がくると、作品をはずかしそうに見せて 光太郎の言葉をただ聞くだけであったそうです。 たった一人の鑑賞者のために、一生懸命に制作していた智恵子は そのとき最高に幸せだったのかもしれません。
というわけで 世間的にみれば、悲劇的な愛に終わった彼らの人生であって もし智恵子が光太郎と結婚していなければ別の人生をおくったかもしれませんが 光太郎との結婚で永遠に名を残すことになったし 光太郎にしても智恵子との結婚が永遠の作品「智恵子抄」をつくることができたので まあいい人生だったのではないでしょうか。
智恵子の生家の前を歩くと 丘 灯至夫作詞の 「智恵子抄」が流れてきます。 二代目コロンビア・ローズが歌ったあの歌は、丘 灯至夫にとっても最高の作品だったようです。 http://www.youtube.com/watch?v=s7wr5I1I9kg
丘 灯至夫の作品は 「あこがれの郵便馬車」「高原列車は行く」「山のロザリア」「高校三年生」 などがあります。
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