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アメリカで薄いコーヒーが飲まれる深〜いワケ イギリスでは紅茶が好まれるのに対して、イギリスから独立したアメリカではアメリカン・コーヒーという紅茶をまねたような薄いコーヒーが好まれている。 なぜ、このような違いが生まれたのか。その理由は、アメリカ独立戦争(1775〜83)にある。 1773年にイギリス政府は「紅茶令」を出して、紅茶を買い入れすぎて経営危機におちいったイギリス東インド会社に、アメリカ植民地で独占的に紅茶を売る権限を与えた。 それに対して、植民地の紅茶の9割を売買していた貿易商人を中心に反対運動が強まっていく。イギリスへの反感は、紅茶への反感にかたちを変え、アメリカの女性の政治結社「自由の娘たち」では、イギリスの紅茶を飲む男とは結婚しない、というスローガンを掲げるほどだった。 そうした中で、紅茶を満載した東インド会社の3隻の船がボストン港に入ると、インディアンに変装した約60人の急進派が船に乗り込み、342箱の紅茶を海中に投棄した。 この「ボストン茶会事件」をきっかけに、アメリカ独立戦争へと進んでいく。 戦争が始まると紅茶の輸入が困難になり、ブラジルから輸入されたコーヒーが盛んに飲まれるようになった。 兵士たちも、戦場で砂糖、ミルクぬきのブラック・コーヒーを飲んで士気を高めたという。そうしたことから、薄いコーヒーがアメリカ社会に定着していった。
ヨーロッパの大不況の受け皿になったアメリカ西部 ヨーロッパは、1870年代半ばから20年間、大不況とよばれる長期の不況におそわれた。 1830年代以降に鉄道建設や蒸気船の航路開発、冷凍船の出現などによりアメリカ大陸やアジアから安価農産物が大量に輸入され農村が不景気になったことと、1830年代以降ヨーロッパ大陸にも産業革命が波及して工業製品も過剰に生産されたことが、規模の大きな不況が起きた理由だ。 その反面、都市化が進む中でヨーロッパの人口は著しく増加し、失業問題は深刻化した。ヨーロッパ諸国は国外に商品市場を求めて激しく争いあい、ナショナリズムを高揚させて国民の不満を国外にそらそうとした。 それが、ヨーロッパが植民地の獲得をめぐり強国が互いに争いあう帝国主義に入っていった理由になる。 「3C政策」を掲げて広大な植民地を囲い込もうとするイギリスに、新興のドイツが「3B政策」を掲げて食い込みを策し、第一次世界大戦につながっていく。 南北戦争(1861〜65)により内戦を終え近代国家の建設に乗り出したアメリカにとって、広大できわめて不便な西部に鉄道網というインフラを整備することは大事なことだった。 政府は、当面の利益を見込めない鉄道会社に対して、40マイル鉄道を建設するごとに線路の両側の広大な土地を無償で払い下げ、鉄道を1マイル建設するごとに、無償期限30年間、年利6%、額面1000ドルの国債16口を無償で提供した。 1869年にはオハマとサクラメントを結ぶ最初の大陸横断鉄道が開通、西部の鉄道建設は急ピッチで進んだ。鉄道は総合産業であり、多くの鉄鋼、機械が必要だった。アメリカの工業生産は南北戦争後の30年間でイギリスをぬき、アメリカは世界一の工業国になった。ヨーロッパからの4000万人に及ぶ移民の流入、不況にあえぐヨーロッパからの資本流入がそれを支えた。 国庫補助により政府主導の鉄道建設が牽引する経済成長は、政治家の腐敗を招いた。この時代は、政治家のみならず牧師にいたるまでの階層が金に踊った金メッキ時代(金ピカ時代)とされる。不況のヨーロッパを尻目に、狂乱の経済成長がなされたのである。 ーーーーーーーーーーー
イギリスがアヘンを中国に売って儲け味をしめたから、こんどは余った紅茶を植民地アメリカに売ろうとして反発をかいアメリカ独立戦争になってしまった。 誰だって高い紅茶をおしつけられたら怒る。
ヨーロッパからの移民を引き受け発展していったアメリカ しかし、西部への鉄道建設には中国からの苦力のような犠牲的移民労働者があったことを忘れてはならない。 彼らは正式な移民もあったが多くは生死をかけた密航による者だったという。 孫文の妻となった宋慶齢をはじめとする、いわゆる宋家の三人姉妹の父親もそんなアメリカ密航者の一人だった。 一旗あげる夢にとりつかれアメリカに渡たる中国人はその後もあとをたたなかった。 こうした移民の中国人労働者が本国からもちこんだインフルエンザが、第一次世界大戦のアメリカ兵士を通じてヨーロッパに伝わり、スペイン風邪となったという。
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