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[No.16071] 小塩節:ラインのほとり 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/09(Tue) 11:25
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テレビのドイツ語講座を18年間勤めてから
著者は外務省の委嘱を受けて
当時西ドイツのケルンにある日本文化会館の館長につく。
中央大学教授を2年間休職して。

日本文化会館は日本文化をヨーロッパに伝える活動センターだから、国立近代美術館その他から90点もの明治以降の代表的日本人による西洋画を日本から運んできて展示したり、
1億円を投じて市川猿之助一座79人による歌舞伎「義経千本桜」を各地で公演したり、日本語講座を開設して数百人の生徒をかかえている。寅さん映画も見せたりしている。

おもてむきには日本文化紹介の広報活動が目立つし、効果もすぐあらわれる。
しかし文化紹介は長い時間のかかる仕事だ。魂から魂へ伝えていかねばならぬ。
ところで音楽のほうは、というと....
日本現代作曲家のものも紹介の機会を設けている。現代音楽評論家・上浪渡氏を招いてのシンポジウムもよかった。
若手一流の演奏家も、お礼が少なくて申しわけないが快くやってきてくれる。
実にうれしくてありがたい。

大学という世界しか知らない世間知らずの著者にとって何もかもはじめての経験だった。
どうやら演奏家や画家彫刻家という人たちは、自分が世界で最高唯一の才能だと思わないと生きていけないものらしい。
たしかにそれぞれの才能はたったひとつ、その人にしかないものだが。
猛烈な「売りこみ」が毎日のようにあって、そういう世界を知らなかった著者には、とうてい同じ日本人とは思えなかった。

恵まれぬ若くて苦労している日本人の芸術家たちに何とかチャンスをあげたいと思う。
いっぱい埋もれているのだから。
しかし、いわゆるお偉いさんの筋から強力におされてくる人や、自分で売りこんでくる人の多くは、実は才能のない人だ。
芸事が芸術の域に達するか達しないかは、紙一重の差でしかない。けれどもその紙一重の距離は無限である。

ほんものの芸術とはいったい何なのだろうか。
私たちはその周囲をめぐり、その中核をことばで打ち当てたいと苦しむが、むなしい。
芸術はそれ自身確固とした存在として存り、時代を超え国境を越えて人をうち、人の魂の密度を高めてくれるものだ。芸術に触れて、その出会いのなかで魂の旅をする人にとって。

筝曲のアンサンブルをしたら、大好評だった。当地の芸大の教授や学生をはじめたくさんの人が押しよせ、みなお琴のひびきにうっとりと耳を傾けている。
十年ほど前にロンドンとアイルランドの首都ダブリンで、古い日本の三味線や雅楽の会に出会ったが、そのときも同じような光景だった。

イタリアを母国とし、ドイツで完成したいわゆる西洋音楽は、いわばたて糸とよこ糸を幾何学的に構築しつくし、一分のスキもない。それはクラシックばかりでなく、ポピュラーでも同じことで、余白とか隙間のない石造建築のファサードに似ている。空間を音で埋めつくすのだ。

ところが日本の筝曲は、空間のなかに音を連続して流すまではなくポロンポロンと音を落としていくようなものである。
音楽に国境はないというけれど、著者にはやはり国境というか民族性なるものが厳としてあるように思われるのだが、三味線やお琴のようなまったく東洋の微妙な音を、ヨーロッパ人が音楽として楽しんでおり、心が清められ、慰められているのを見ていると一種異様な感動を覚えるという。

ヨーロッパの音楽は第一に表現しつくす音楽だが、日本の音楽は表現しない部分、余白、間に深い意味があり、何もかも音で表現しつくすことはしない。文学とも共通している特性である。
第二にヨーロッパの音楽は素材を用いつくして「動的」であるが、日本の音楽は素材よりも無言の美的感性を重んじて「静的」である。禅や神道の遺産かもしれない。

第三に、ヨーロッパ音楽はいついかなるときにもその中心に「人間」がある。
人間の自我が、神や世界や自然や他の人間を相手としながらも、限りなく強烈に自己主張を続けてやまない。
日本はそうではない。自然に即しながらいつも繊細に、むしろ植物的なありようをする。そこにも人間はいるのだが、世界の中心に立っておのれの意志を貫くというよりは、対象にやさしくつれそっていく。
そのなかで人間の運命のかなしさ、しなやかさが歌われていく。
つまりヨーロッパは徹底的に人間中心の世界なのだ。だから孤立した人間の孤独も深く、孤独な者同士の相互交流への意欲と必要も大きいのである。


[No.16072] Re: 小塩節:ラインのほとり 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/09(Tue) 17:30
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> 日本はそうではない。自然に即しながらいつも繊細に、むしろ植物的なありようをする。そこにも人間はいるのだが、世界の中心に立っておのれの意志を貫くというよりは、対象にやさしくつれそっていく。

ここは
原文では
日本はそうではない。自然に即しながらいつも繊細に、むしろ植物的なありようをする。そこにも人間はいるのだが、世界の中心に立っておのれの意志を貫く倨傲はなく、対象にやさしくつれそっていく。
となっています。

きょごう【倨傲】: おごり高ぶること。
この漢字が見つからなかったため、上のように簡単に書いたのでした。