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[No.16362] 山下文男:昭和の欠食児童 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/02(Sun) 07:13
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山下文男:昭和の欠食児童 本の泉社 2010

江戸時代から多くの飢饉があった東北では
その気象条件から、昭和にも大凶作がたびたびあった。
凶作報道に見るやらせと誤解について、この著者は怒りをこめて書いている。

すなわち
凶作で貧しい農民の子どもたちが年季奉公に出ていったのは真実であったが
当時の新聞記事や学者の論文にあった、多くの娘たちが遊郭に身売りされた
というのは誇張であった。
たとえば
教師が吉原にひやかしにいったら教え子がいたという話はつくり話であったし
山形県伊佐沢村の役場に「娘身売の場合は、当相談所へ御出で下さい」という張り紙の写真は、救援物資や義援金の増額を企てて、役場と新聞社がしくんだ「やらせ」であった。
 この張り紙のおかげで大量の救援物資が各地から届いて、「村長は偉い」と近郷からも羨ましがられたという。

「山形県史」にある
「昭和初期の農業恐慌の時期から関東方面に、大量に婦女子が出稼ぎに行くようになった。その就職先は女工が一番多かったが、芸妓、娼婦になって行くものも少なくなかった」というのがこの問題の真実だったと著者は書く。

当時、身売り娘と呼ばれていた娘たちの「その大部分が売春婦であった」などと決めつけて書いている有名な学者の執筆による大手出版社刊行の「日本の歴史」に対して、厳重抗議を何度もするが応じなかった。
とうとう怒った著者は、それは中央公論社が昭和42年に刊行し、その後、文庫化された「日本の歴史」のNo.24「ファシズムへの道」であり、著者は大内力東大名誉教授であると書いている。
出版社に手紙を書いても返事がないので、とうとう学会の名簿で調べて、大内先生に直接手紙を送ったら、つぎのような返事がこの本の著者のもとに届いた。
「ご指摘のように少し誇張がされており、誤解を与えるような文章になっているようで、修正の機会があればなおした方がいいと思いますが、もう絶版になってそのことも久しく、また改訂版を出す計画もありませんので、何ともしようはなさそうです。ただ、直接に当時『醜業』といわれるような世界に入った娘たちのほか、女工さんとか女中さんとかになったものの中にも結局苦界に落とされざるをえなかって不幸な女性が多かったともいわれており、そのことも頭にあったこともご理解ください」

 これを読んだ著者は反論する。
これは単なる「誇張」ではなく、「事実誤認」であり、女中や女工さんの中には苦界に身を落とした人がいたのは事実だが、それをいうならば、反対に苦界から自力で這い上がって幸せな生活に戻った女性も少なくなかったということもある。要するに、それもこれも、当時の新聞が、同情の名において垂れ流した一種の風聞によるものであって「その大部分が売春婦であった」などという誤った断定を合理化する理由には全くならないと述べておいた。そして最後に、改訂版は先生にその意思があっても難しいと思うが、もし、何らかの機会にこのことについて書くとしたら、その点はもっとあっさりと訂正なり修正なりしたほうがいいとも書いておいた。

(これを読んで、活字になったものをことごとく信ずるのは間違いであることがわかる。また世の中には活字にならない真実もある。活字になったものはすべて真実で、活字に残らないものは真実ではないという態度は、真実から目を背ける態度であるということを示す一例でありました)
(こういうことを知っているから始皇帝は、気に入らない書物をことごとく焼いたりしたのであった。活字になったものが一人歩きする怖さを知っていたから。我々は書物の怖さを知り、正しい使い方をしなくてはいけないのです)

この本によると
軍事費は国家予算の30〜45%をしめ年々増額されていった。
その予算のしわ寄せが貧しい農民対策となって表れた。
政府は、貧困の農村の解決を、自力更生や経済更正運動という、
いわば精神運動におきかえ、
欠食児童への給食費も国の補受金はぎりぎりの最小限におさえ、できるだけ民
間の義援金や教職員の自己犠牲にたよって問題の解決をはかろうとした。
すべては、軍事優先、軍事費優先のためであって、国に依存せず、足りない分
はそれぞれの地方が努力し、自力でまかなって子どもたちに食べさせなさいと
いうのが政府の基本姿勢だった。

一例をあげれば、山形県では1934(昭和9)年の秋、欠食児童の急増によ
り、学校給食を必要とする児童数が全校生徒の約三割にもなると予想される事
態に至った。このままでは、予算が足りなくなって欠食児童に求職が出せなく
なる。
困った県下の校長らが集まって対策を検討した結果、県下約4000名の教師
たちがそれぞれ俸給の1/100ずつ出し合って当面の欠食児童たちへの給食
費に充てることにした。同様のことは岩手県の教職員組織でも行われている。


[No.16363] Re: 山下文男:昭和の欠食児童 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/02(Sun) 07:55
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> 山下文男:昭和の欠食児童 本の泉社 2010

 この記事を書くのに、パソコンが途中で動かなくなったり、 書いた原稿が消えてしまって、3度も書き直すことになった。まったく VistaというOSは困ったもんです。
 他の3〜4台のパソコンは Vistaにしなかったのだが、いろいろなファイルやソフトに対応するために、このパソコンは Vistaのままにしているのです。

東北大凶作で
ワラビを食べたり木の実をとったり、あるいは畑でとったばかりの大根をかじる少女たちの写真などが紹介されているが、これは当時の農村ではよく見られたことで基金でも何でもないのに都会生活者の誤解と偏見なのであろう。
(中国の留学生と話をしていたとき、彼は都会出身者であったのだが、ある地方出身者の友人のことを話したとき、その友人の故郷では住民が畑で大根をぬいて食べていたと私に話してくれた。要するに彼が言いたかったのは、自分は都会出身であるが、その友人のいたところは田舎であって、畑からぬいたばかりの大根を食べるような田舎であるということ。中国人はこの例のように、自分の出身地の自慢をするが、他の留学生の出身地のことは評価しないものである。みなお国自慢をするわけです)
ワラビも木の実も毎年、東北では季節のものとして食べますよ。

この本には、馬と一緒に生活する農民の家の中の写真が、これも飢饉のためという説明がついているが、それも誤解であって、東北の地方によっては、馬小屋と住居が一体となっているから、生活空間のとなりに馬がいるのは普通のことだった(曲がり屋のこと)。

この本には
東北大凶作のときに、友人たちと相談して納豆売りをしてお金をため
そのお金を東北に送った絵本作家の加古里子(かこさとし)のことを紹介している。
 (3年生の時)「折からの東北ききんを救うため」「ニュースか新聞の写真の影響だったのだろうが」、同級の友だち三人と語り合い「学校裏の納豆のお店のおかみさんに『東北の子にお金を送りたいから売らせて』くれと頼んだところ『えらい、おばちゃんも手伝うよ』と涙声になって協力してくれた」
「来意をのべ、四人が交互に事情を話すとどこでも快く買ってくれた。こうして一週間後におばちゃんが精算してくれ、上がりを新聞配達の店にいって『送ってくれと頼んだ』」
この話は、東北救済の美談の一つとして当時の新聞にも載っている。

このほか、この本には
東北の飢饉地への同情寄付を募る街頭募金活動の写真も載せている。

加古里子は私も別のことで手紙を書いて返事をもらったことがありますが
昨今は地震見舞いとか色々な名目で街頭で募金をしていますが
どうもあれは被害者に関係なく、実際は自分たちの資金集めをしていることが少なくないから要注意です。 困った世の中になったものです。