[No.16474]
Re: 梅津時比古:「セロ弾きのゴーシュ」の音楽論
投稿者:
投稿日:2011/01/30(Sun) 08:13
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> オーケストラ団員のセロ弾きのゴーシュは下手で
> 練習の時も、指揮者からたびたび叱責される。
> ゴーシュの演奏はみなから遅れたと叱られ
> 音程が合わないと叱られる。
> しかし、「これはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした」と説明される。
「あの人はテクニックはあるけれども音楽がない」
「日本の音楽教育はテクニック偏重で音楽を追放してしまった」
わかりやすく言えば、正確に弾いていたとしても感動が少ない、そういう音楽が日本人の演奏だということだろう。
この本では、珍しい音楽性の表現に成功した三人の日本人女流ピアノ演奏家を紹介し、彼女らはいずれも、ナチスから事実上日本に亡命してきたベルリン音楽大学のピアノ科主任教授のレオニード・クロイツァーの弟子であったことを述べている。
ゴーシュの場合は演奏が正確でないのがとがめられるが、一生懸命練習をしているうちに動物たちのアドバイスで、テクニックも音楽性も身につけてしまったようである。もしかしたら、音楽性を発揮することに成功して、いつのまにか正確性もついてきたのかもしれない。
ゴーシュの演奏の成功は
三毛猫や野ねずみとの交流を通して、文字通り体得したものであって
決して楽長から教わったものでなければ、楽団員から示唆されたものでもない。
ゴーシュは、楽器の身体性も、テクニックにおける二元性の克服も、動物たちに教わってきたのである。
ゴーシュの(アンコールの)最後の凄まじい演奏は、身体性を通して提示され、聴衆や楽団員も自らの身体性をもって関与し、その演奏を聴いていた。
それ故に聴衆や楽団員らは、(火事にでもあったあとのように)、つまり身体にダメージを受けたかのような、一種の放心状態に包まれたのである。