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[No.16479] 伊藤滋:昭和のまちの物語 投稿者:   投稿日:2011/01/31(Mon) 08:51
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著者は伊藤整の息子で東大農学部を卒業してから
工学部建築学科を卒業する。

時代が時代だったので
いろいろ苦労して、疎開したり、進学の準備をすることが書かれているが、それは省略。

東大理科II類に入って教養課程を終え、どの学科に進学するか考えた著者は
地理が好きだから地理学科に進もうかと父に相談すると
「地理か、地理では飯は食えねえな」と言われ、山歩きが好きだし
植物にも興味があるから林学科に進むことにする。

林学科のよいところは、何でも教えるということである。
道路づくりから、木を植えて育てて、それを切って材木にすること
それから、林業を職業とする人たちの生活の改善や将来の展望を考えたりすることまで
およそ山に関することならすべて勉強する。こういう総合的な学科はほかにない。
(実は鉱山も総合的な学問で、山を歩いて地質調査をして、鉱山会社をたちあげ、採掘し精製し、道路や鉄道をつくって出荷し、従業員の福利厚生までめんどうみるから経営もその範疇に入るのです)

北海道の富良野の近くに山部というところがあり、そこに広大な東大の演習林がある。そこに五月祭で儲けた旅費をつかって二十人の学生が三年生の夏休みを利用して演習に行った。
演習林を担当していたのは東大助教授高橋延清だった。
現場の演習林から離れず、一度も東大の教壇に立たず、教授となり定年を迎えた学者だった。
あだなは「ドロガメ先生」
この先生から、ほんとうの森林とはこういうものだという深い感銘を受けたという。

加藤誠平
 加藤誠平:橋梁美学 山海堂 昭和11年発行
 加藤は東大林学科を卒業してから、大学院では土木工学を専攻した。
 大学院を出ると厚生省に入り国立公園関する仕事にかかわった。
   日本の場合、橋梁は土木工学で扱います。建築ではありません。

著者は、森林利用学講座の加藤誠平助教授から
自分のように、林科を卒業してから大学院に進学することを勧められる。
そこで、建築学科か土木工学科で都市計画の分野の勉強がしたいというと
(都市計画は建築にも土木にもあります)
「サッカー部の後輩が建築家の都市計画をやっているから推薦状をかいてやる」
と言われ、その推薦状を持って行くのです。
親は大学院で研究することを内心喜んでいるようで全く問題はない。
しかし、肝心の建築の先生からは全くおとさたがない。
ぼつぼつ周りのみんなは就職が決まってきた。自分の学士入学は大丈夫だろうかと
心配しながら建築の先生の所に行くと、昨日の学科会議で学士入学は決まったと教えられるのでした。
 面接も試験もない優雅な時代でした。


[No.16480] Re: 伊藤滋:昭和のまちの物語 投稿者:男爵  投稿日:2011/01/31(Mon) 10:12
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> 北海道の富良野の近くに山部というところがあり、そこに広大な東大の演習林がある。

根室本線の駅を列記すると
 富良野-布部-山部-下金山-金山-東鹿越-幾寅-落合-新得
富良野から新得の間の途中は山の中、いや根室本線の中で最大の難所の峠
狩勝峠越えるのです。
新得に着くとホッとしたものです。

> 演習林を担当していたのは東大助教授高橋延清だった。
> 現場の演習林から離れず、一度も東大の教壇に立たず、教授となり定年を迎えた学者だった。
> あだなは「ドロガメ先生」

高橋延清の兄が、雪の博士といわれる高橋喜平だった。
彼らの弟高橋又郎の息子が直木賞作家の高橋克彦である。
したがって
高橋克彦にとって
高橋喜平と高橋延清は伯父にあたる。

高橋克彦
1983年 - 『写楽殺人事件』で第29回江戸川乱歩賞
1986年 - 『総門谷』で第7回吉川英治文学新人賞
1987年 - 『北斎殺人事件』で第40回日本推理作家協会賞
1992年 - 『緋い記憶』で第106回直木三十五賞
2000年 - 『火怨』で第34回吉川英治文学賞