マルチメディア館 

写真・絵などをアップできる部屋です。季節の風物詩や「こんなのいかが」と言った情報や力作をどうぞ。
公序良俗に配慮をお願いいたします。添付ファイルの容量は100KB以下です。
ツリー先頭部の ★ をクリックしてツリーを一括表示でご覧になることをお奨めします。

[新規投稿] [新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用] [問い合わせ]
[トップページへ] [総合メニューへ] [留意事項] [投稿の手引]
  • 以下は新規投稿順のリスト(投稿記事)表示です。
  • 48時間以内の記事は new! で表示されます。
  • 投稿者のメールアドレスがアドレス収集ロボットやウイルスに拾われないよう工夫して表示しています。

  • [No.14884] Re: いよいよブダペシュトへ 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 23:45
    [関連記事


    画像サイズ: 510×383 (48kB)
     同上のホーム写真。


    [No.14883] Re: いよいよブダペシュトへ 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 23:41
    [関連記事


    画像サイズ: 490×368 (56kB)
    船旅が終わったとき、あっしらはウィーン行きの切符を買うべく、ブダペスト東駅へ赴いた。ファッサードを眺めている余裕がなかったので、構内の写真を披露することにした。さすが完成当時はヨーロッパ一、と謳われただけあって、なかなか、壮麗な駅舎である。


    [No.14882] Re: プスタへ移動 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 23:14
    [関連記事


    画像サイズ: 630×139 (39kB)
    フイルムの番号から云うと、プスタの近辺と云うことになるのですが、これはきれいでした。ブルガリアでもヒマワリを植えていましたが、こちらの国々は観賞用でなく、
    みな油をとるために植えているようです。


    [No.14881] Re: いよいよブダペシュトへ 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 22:35
    [関連記事


    画像サイズ: 383×510 (42kB)
     別に自慢するわけではありませんが、このブダペスト・ヒルトン・ホテルほど素晴らしいホテルをあっしは知りません。マーチャーシュ教会、漁夫の砦はわざわざ歩くほどもない近さですし、ドナウや国会議事堂なども、指呼の間です。

     また、ホテル自身が、13世紀ドミニコ会修道院跡に建てられ、その遺跡をじつに巧い具合に、建物の中に取り込んでいます。


    [No.14880] Re: いよいよブダペシュトへ 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 22:05
    [関連記事


    画像サイズ: 383×510 (50kB)
     漁夫の砦の前にこの像がある。この国をキリスト教国として建国した聖イシュトヴァーンの騎馬像である。ここにも二重十字架が登場する。

     ちなみに、イシュトヴァーンは、この国ではざらにある名前で、よくあるアレキサンダーのような名である。ちなみに、芥川賞受賞者の宮本輝が、縁あって3年間自宅で面倒をみたハンガリー青年(当時)も、セルダヘイ・イシュトヴァーン君である。


    [No.14879] Re: いよいよブダペシュトへ 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 21:28
    [関連記事


    画像サイズ: 383×510 (49kB)
     先ほどのはドナウの向こう岸、ペシュト側だったが、今度はブダ側の『漁夫の砦』。夜通し明かりをつけたままで、非常に幻想的な感じを与える。

     マーチャンのにもあったが、こちらは夜景である。


    [No.14878] いよいよブダペシュトへ 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 21:14
    [関連記事


    画像サイズ: 383×510 (44kB)
     と威勢よく書きだしたのはいいが、ろくな写真はない。バスが連れて行ってくれた英雄広場。この『記念碑』のあるところは広場のごく一部で、とにかく広いのに驚く。

     この塔は高さが36メートルあって、てっぺんに首都の守護天使ガブリエルが立つ。たしかこの像は1900年のパリ万博で、グランプリ受賞と観光パンフに書いてあったはずだが、ウィキ―などには見当たらぬ。

     この大天使ガブリエル像は、片方の手にハンガリー王の正当性を称する王冠、もう一方の手に二重十字架を掲げている。


    [No.14877] Re: プスタへ移動 投稿者:   投稿日:2011/08/14(Sun) 14:08
    [関連記事

      男爵さん、みなさん、こんにちは、

    > そこで話題を変えて
    > ある本を読むと
    > フン族の末裔がハンガリー民族だと書いてありました。
    > しかし、これはまだ未確認でしょうね。

     ハンガリー人のルーツはウラル山脈周辺であって、フン族とは関係ないというのが定説のようです。

     『ハンガリー』は、なぜ、フン族を思わせるHungaryか。それは、5,6世紀のころ、中央アジアにおいて、マジャル人と、トルコ系のオノグル族が共存していたのが混乱のもと。

     両者を同一視した、周辺の国々の人間が、オノグルの国、つまりUngariaと呼んだためと云う明快な説明が現在、支配的であるようです。

     それが証拠に、ハンガリー人自身はけっして自分たちをハンガリー人とは呼びません。マジャルと云っています。

     しかし、外国人は相も変わらず、『ハンガリー』にこだわります。英語のハンガリーしかり、ドイツ語も、ウンガルン、フランス語もオングリー、イタリア語も、ウンゲリーア。そして、日本人も…。(-_-;)


    [No.14876] Re: プスタへ移動 投稿者:男爵  投稿日:2011/08/14(Sun) 08:40
    [関連記事

    唐辛子 紋次郎さん

    せっかくなので何かコメントをと思ったのですが.....

    そこで話題を変えて
    ハンガリーは東洋系で
    どうやら遊牧民族の歴史もあるみたいですね。

    ある本を読むと
    フン族の末裔がハンガリー民族だと書いてありました。
    しかし、これはまだ未確認でしょうね。
    ヨーロッパをおびえさせたフン族
    その跡かたとしてニーベルンゲン物語に少し記載されてあります。

    漢民族は北方異民族から侵略を受けていたが
    前漢武帝の時代に張騫を開拓者として
    シルクロード開発をはじめてから
    北方の異民族である匈奴に対抗することに成功し
    一部の匈奴が西に逃げてフン族となりヨーロッパを侵略したとされています。

    時代は進みモンゴルのロシア支配もあり
    これも中央アジアから生まれたトルコ族の大拡張がはじまり
    とうとうウィーンもあぶなくなったとき
    ハンガリーはオーストリア帝国の仲間としてトルコに抵抗し
    なんとかトルコを追っ払いうことに成功しました。

    ハンガリーもトルコも先祖を考えると近い民族だったかもしれませんが
    片方はハプスブルク帝国を内側から守り
    もう片方のトルコは外側から攻めたということでしょう。


    [No.14875] Re: プスタへ移動 投稿者:   投稿日:2011/08/13(Sat) 15:29
    [関連記事


    画像サイズ: 490×368 (58kB)
    入り口の空地には、飼葉用であろうか、乾し草が山をなしていた。


    | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80 | 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89 | 90 | 91 | 92 | 93 | 94 | 95 | 96 | 97 | 98 | 99 | 100 |


    - Web Forum -   Modified by isso