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[No.342] 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/13(Wed) 13:03
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街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。
北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。
一里くらい離れた山から柴などを刈って来ていたようです
長州風呂なぞと言うものが広まったのは
ずっとあとだったような気がします

敗戦後しばらく その父の生家の屋敷内のあばら家に
家族5人で身を寄せていましたが
生家の家族7人くらい入ったあとの五右衛門風呂は
湯がトロンとしていました。


[No.343] Re: 風呂事情 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/02/13(Wed) 14:03
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> 街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。

 就職して勤務支店に行ったら合宿所に入れさせられました。
 当然其処には風呂場が有りました。
 銭湯と云うものに行った事が無かったので当初怖かった思い出が。

                             変蝠林(1917-)


[No.349] Re: 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/14(Thu) 23:32
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>  銭湯と云うものに行った事が無かったので当初怖かった思い出が。

温泉場育ちの子供は、毎朝起きると服を抱えて温泉風呂場へ駆け込み、温泉に浸かってから着替えていました。

 昭和7年、長野の中学へ入り、郷里を離れて、女学校へ行っていた姉と一緒に下宿しました。その家には勿論風呂はなく、銭湯へ行かねばならなかったのですが、それまでは家の温泉にしか入ったことのないので、銭湯が怖くてどうしても行けませんでした。やむなく姉が見かねてその家の台所の一隅を借りて大きな盥をおいて行水させてくれました。

 慣れるに従い銭湯が好きになりましたが、当時は石鹸が高価品で、先ず「垢すり」という20cm四方くらいの布を持っていき、先ずそれで身体中を擦って垢を落とし、その後で石鹸を手拭いに軽く着けて身体を洗いました。

 昭和26年、やっと我が家を建築したとき、最も嬉しかったのは我が家に風呂を作ったことでした。井戸水を薪で湧かしましたが、近所の人も喜んで入りに来ました。


[No.351] Re: 風呂事情 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/02/15(Fri) 01:36
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不虻さん

> 昭和26年、やっと我が家を建築したとき、最も嬉しかったのは我が家に
 風呂を作ったことでした。
> 井戸水を薪で湧かしましたが、近所の人も喜んで入りに来ました。

温泉旅館の御曹子が銭湯怖いとは想外ですね。 私の場合は結婚して
先輩に借家を譲って貰った昭和十七年から、台所裏より拾数歩の銭湯
通いが始まった次第です。
神戸六甲道駅東方の踏み切りを渡った柳と言う処の戸建長屋でした。

応召して内蒙古の兵営では、新兵さん入湯は一番最後、温かい泥の海
でした。
暗号兵は四度の討伐行に全部従軍、一回半月程は当然お風呂どころではない。

凱旋して静岡に着いたら、焼野原の予想に反し郊外の田圃の中の二階長屋に借家が待ってました。 先ずは風呂と入らされたのが懐かしのドラム缶風呂。注意されたが出たら背中にタールが。

名古屋転勤、合宿所入り直後に県営住宅に申込んだら見事当選し、御器所に建った二階四戸建て数棟の団地?から又銭湯通いが。
所がトイレは水洗、一案して乙仲にドラム半裁を頼んだら即入手、台所の瓦斯湯沸器からゴム管を伸ばして良い湯だなが続きました。

後日談は何れ又。 ところで石鹸、シャボンって言ってませんでした?

                                変蝠林(1917-)

  


[No.359] Re: 風呂事情 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/02/15(Fri) 17:34
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不虻さん、みなさん

>  慣れるに従い銭湯が好きになりましたが、当時は石鹸が高価品で、先ず「垢すり」という20cm四方くらいの布を持っていき、先ずそれで身体中を擦って垢を落とし、その後で石鹸を手拭いに軽く着けて身体を洗いました。

 手ぬぐいといえば「お風呂」と「手ぬぐい」はつき物でしたが、今は、すべてタオルに変わりましたね。
 上がった後も、かたく絞った手ぬぐいで体を拭きました。

 手ぬぐいは、ハンカチの代わりもしてくれました。


[No.344] Re: 風呂事情 投稿者:瀬里恵  投稿日:2008/02/13(Wed) 20:31
[関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/Avenue-Serie/

白兎山人さん、変蝠林さん、皆さん…。

> 北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。

> 長州風呂なぞと言うものが広まったのは
> ずっとあとだったような気がします

瀬里恵の実家は瀬里恵の生まれる前から(昭和4年生れ)
ずーっと長州風呂でした。

構造から考えると五右衛門風呂が後から出来たのではない
かと推測するのですが…。最も長州風呂も五右衛門風呂と
呼ばれているようですネ…。

でも、石川五右衛門が釜茹でされた処から五右衛門風呂と
呼ばれたと言う事から考えると歴史は相当古い…。

 子供の頃 兄と2人で五メートルほど離れた吸上ポンプ
からバケツで水を運んで風呂釜に水を張った思い出があり
ます。 後にヒノキ風呂に変わりましたが、矢張り思い出は
懐かしい…。無論 戦前のお話です。


  http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/
            瀬里恵


[No.345] Re: 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/13(Wed) 22:41
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「長州風呂」は私の記憶違いで
敗戦後まもなく出回った長府製作所の
木製風呂桶(小判型)と
それ用の 外付け釜(薪)のことを
言いたかったわけです

関東まで広がったかどうかは
私は知りません

昭和30年代には 父がドラム缶で風呂をつくり
裏山で松葉を炭俵に詰めては持ち帰り
燃料にしていました


[No.346] Re: 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/13(Wed) 23:08
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調べて見ると 私の言わんとした風呂は
鉄砲風呂 と呼ばれるもののようです
木製桶の浴槽に鋳鉄製の釜が外付けされているもの

なお 浴槽全体が鋳鉄製のものを長州風呂
周囲が木製で底だけ鉄製のものを
五右衛門風呂と言うのが正しいのだとか


[No.350] Re: 風呂事情 投稿者:Pan  投稿日:2008/02/14(Thu) 23:37
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白兎山人さん、みなさん こんばんは

> 調べて見ると 私の言わんとした風呂は
> 鉄砲風呂 と呼ばれるもののようです
> 木製桶の浴槽に鋳鉄製の釜が外付けされているもの

 鉄砲風呂で思い出しました。 楕円形の木桶でした。
 釜はおけの内側に付いていましたよ。 また別の名前の風呂かな?

 内側に釜があるため火傷しないように板の仕切りが付いていました。

 燃料は石炭を焚いていました。  石炭に火が燃え移るまでが大仕事で、新聞紙から始めて細く割った蒲鉾の板などに火を移し、良い頃を見計らって石炭を入れますが、失敗すると始めからやり直しです。

 冬の寒い時に野外の焚き口で震えながら焚いたものです。 追い炊きは板切れだけで済ませましたが、市内では入手が面倒で、ミカン箱やリンゴ箱を大切に残しました。

       ***** Pan *****


[No.358] Re: 風呂事情 投稿者:季寿(きよし)  投稿日:2008/02/15(Fri) 16:54
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Panさん、みなさん こんにちは

> > 調べて見ると 私の言わんとした風呂は
> > 鉄砲風呂 と呼ばれるもののようです
> > 木製桶の浴槽に鋳鉄製の釜が外付けされているもの

これと同じようだったと思います

釜に触ると熱いので、注意して浸かりました
親が共働きだったので、風呂焚きもよくしました

これ以前、家に風呂がないときは、銭湯へ行きましたが、いつ行っても
多くの人で込んでいました
当時は(終戦前後)まだ、内風呂のある家は、少なかったのでしょうね
銭湯といえば、時々、背中一面に刺青をした人を見ましたが、子供心に
怖かったですね

    季寿


[No.360] Re: 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/02/15(Fri) 18:29
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 風呂に関する思い出二つ。

その一、昭和35年頃、勤務上広島に住んでいたことがありましたが、借りていた旧家の風呂が五右衛門風呂でした。薄暗い電灯の下で、こわごわ浮いている板を踏み外さないように注意しながら入りました。

その二、昭和30年頃、仙台に住んだ時のことです。当時仙台は直ぐ近くで亜炭が採掘されたので、色々な燃料に亜炭が使用されていました。それで町中が甘酸っぱい様な亜炭の臭いで一杯でした。
当然、風呂も亜炭で湧かしましたが、亜炭は火力が弱いので、朝から沸かし出してやっと夕方入れるようになったと記憶しています。
最近では、「亜炭って何?」と言う人も増えてきましたね。


[No.365] Re: 風呂事情 投稿者:岡部の  投稿日:2008/02/17(Sun) 21:00
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白兎山人さん、みなさん、

> 街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。
> 北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。

私の祖父の家も北九州、今は新門司になっていますが其処も五右衛門風呂
でした。
風呂に浸かる時、浮いている丸い板の中心に乗らないと踏み外して、直接
釜に素足が触ることになります。子供の頃はこれが結構難しかった記憶が
あります。でも、風呂はすぐに沸きましたねぇ。

長男が食べ盛りの頃、何でも口に抛りこんでいたのを「お前は五右衛門風
呂の焚き口のようだねぇ。」と笑っていましたが、傍で聞いていて云い当
てて妙だなぁと可笑しくて・・・息子はキョトンとしていましたが・・・

                    岡部の


[No.424] Re: 風呂事情 投稿者:   投稿日:2008/03/10(Mon) 10:45
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白兎山人さん ツリーのみなさん

 遅いコメントお許しください。

> 街で家庭に風呂がある家の割合はどのくらいだったのでしょうか。
> 北九州の父の生家は町中ですが 五右衛門風呂でした。

 僕が戦前京城(ソウル)に住んでいたとき、五右衛門風呂でした。
浮いている丸く造った板を踏んで入るのだけれど、踏み方に要領があって何時も四苦八苦していました。
どういう理由か、家に五右衛門風呂があるのによく銭湯にも行きました。
大きな湯船の傍に布で出来た大きな網があって、湯に浮いている垢を救って捨ててから入ったものです。夜になると相当に汚い湯になっていました。
 電気風呂なんて物騒なものもありました。湯の中に電気を通しているのです。
湯船の真ん中に入るとなんでもないけれど、両手を広げるとビリビリ痺れる。
どの程度まで広げられるかなんて友達と遊んだものです。
冬の寒い夜なんか、銭湯から帰るときに手ぬぐいの端を持ってぐるぐる回しながら歩くと、家に着くまでには凍って手ぬぐいが立ちました。

 この銭湯で虱を貰い、晴れた暖かい日などは学校の校庭でみんなで虱退治をやらされました。
自分の下着を自分で見たら居ても居ないふりをするからお互いに交換して退治しなさいと先生が指示しました。「あっ居たっ」なんて相棒が大声を出すのが嫌でした。
もっともパンツまでは交換しなかったけれど。
あの虱ってやつは、両手の親指で潰すとプチッと音がするんですよね。
卵を持っている奴だと、その小さな卵も丁寧に潰したりなんかして・・・