[掲示板へもどる]
一括表示

[No.908] 静岡浅間神社 投稿者:   投稿日:2009/01/28(Wed) 10:03
[関連記事

私の幼年時代は静岡市茶町を外しては考えられません。
茶町と言えば当然茶問屋大店の街です。
其処に遠戚の叔母の床屋(理髪店)が在りました。

当時、町内会では春は山行き、夏は浜行きが催されて
山は浅間山の桜、浜は焼津手前の大崩れ海岸の引き網。
四月には二十日会(ハツカエ)祭で賑わいました。

先ず最初にお浅間さんに就いて話す為に下記を御紹介。

   >http://www.shizuokasengen.net/

案外知られて居ないのが残念です。
                    
                         変蝠林(1917-)


[No.909] Re: 静岡浅間神社 投稿者:   投稿日:2009/01/28(Wed) 11:49
[関連記事

昭和37年ころの話ですが
 浅間神社の裏山 賎機山には観光リフトがありました
 一度乗ったことがあります
 今は無いようですね

 静岡の繁華街にニュース喫茶がありました
 喫茶店の中で 常時ニュース映画を上映していました

 クーポールと言う大きな喫茶店があり
 ウェイターの女の子は高い白い三角帽子をかぶり
 その三角帽子の先端からリボンをヒラヒラ
 店内を颯爽と行き来する姿にウットリ(^^)


[No.910] Re: 静岡浅間神社 投稿者:   投稿日:2009/01/28(Wed) 12:48
[関連記事

白兎山人さん

> 昭和37年ころの話ですが
> 浅間神社の裏山 賎機山には観光リフトがありました

ヘエ 其のころから山でしたか・・
私は 其のころ八事山で・・・・・

>  静岡の繁華街にニュース喫茶がありました
>  喫茶店の中で 常時ニュース映画を上映していました

本年初、戦友を訪ねましたが安倍川橋を二つ間違えて・・

                        変蝠林(1917-)


[No.911] Re: 静岡浅間神社 投稿者:ら、めーる  投稿日:2009/01/28(Wed) 15:41
[関連記事

変蝠林さん山人さん、今日は!
浅間神社といえば静岡在住の私もでなければいけませんね。

女学校入学で、先ずつれていかれたのは浅間神社でした。
長谷道りから一本松を歩いて  その頃はい本松から学校がみえました
又お堀端から刑務所の高い塀をみながら長谷どうりに出て一本松を通りました。

昔の兵隊さんの病院、、静岡病院もそこらにありました。

静岡大学や度忘れしましたけれど、有名なむかしの人のお寺もみえました。

> 私の幼年時代は静岡市茶町を外しては考えられません。
> 茶町と言えば当然茶問屋大店の街です。
> 当時、町内会では春は山行き、夏は浜行きが催されて
> 山は浅間山の桜、浜は焼津手前の大崩れ海岸の引き網。
> 四月には二十日会(ハツカエ)祭で賑わいました。

大分御茶屋さんは減りましたけれど、今もありますよ。
4月の二十日会は盛大にやっています。彦左衛門さんもでます。

> 先ず最初にお浅間さんに就いて話す為に下記を御紹介。
>
>    >http://www.shizuokasengen.net/
もうじき櫻の時期になると浅間さんは賑わいます。
文字でかくのは難しいです。
実際に目で見て体験がいいです。
静岡の街は随分変わりました。
私もここ数年行っていません。
昔ちんちん電車も街中をはしっていたのに、、、

変蝠林さんや山人さんの書き込みを拝見して思い出しながら
かかせていただきました。

又静岡オフでもやって静岡めぐりなどもいいですね。
岡部のさんの担当?  あははおこられるかな勝手にきめて。

感冒に気つけてください。


[No.912] Re: 静岡浅間神社 投稿者:   投稿日:2009/01/28(Wed) 16:33
[関連記事

ら、めーるさん、今日は!

> 浅間神社といえば静岡在住の私もでなければいけませんね。

 昔、汽車通と言えば優等生揃いでしたね。 多分、私よりも詳しい筈。

> 又お堀端から刑務所の高い塀をみながら長谷どうりに出て一本松を通りました。

 あの監獄の赤レンガの高い長い壁、消えて仕舞ったのは残念至極。
 赤鳥居も石鳥居も残ってましたが昔の威容は何処。

> 昔の兵隊さんの病院、静岡病院もそこらにありました。

 衛戍病院って言うのですよ。  静岡歩兵第三十四聯隊が消えてからかな。

> 静岡大学や度忘れしましたけれど、有名なむかしの人のお寺もみえました。

 之はしたり、臨済寺を忘れたら不可ません。 今川氏に預けられた家康が
 学問に励んだ処。 昔の修身の教科書に安倍川の石合戦として載った家康。

> 大分御茶屋さんは減りましたけれど、今もありますよ。
> 4月の二十日会は盛大にやっています。彦左衛門さんもでます。

 御練りは何処だ安西二丁目なんて言って各町持ち回り。芸者連総出でした。

> 静岡の街は随分変わりました。 私もここ数年行っていません。
> 昔ちんちん電車も街中をはしっていたのに、、、

 仲町堀端のメソジスト教会は在りましたか?

 オッと、長話する場所ではありませんね。

                             変蝠林(1917-)


[No.924] Re: 静岡浅間神社 投稿者:   投稿日:2009/02/04(Wed) 08:31
[関連記事

変蝠林さん、ら、めーるさん

 こんにちは

> > 昔の兵隊さんの病院、静岡病院もそこらにありました。
>
>  衛戍病院って言うのですよ。  静岡歩兵第三十四聯隊が消えてからかな。

 衛戍病院(エイジュ・ビョウイン)と伺って出てまいりました。

 亡父は、兵隊時代に東京の「衛戍病院」付属の「看護学校」のようなところに行かされたそうです。
 当時(大正の初期)は、女性の看護婦さんが従軍することができなかったため
 男性の看護師の資格を持った看護兵が必要であったからといっていました。
 産婦人科と小児科以外のすべての臨床研修もしたそうです。

 演習のときは、鉄砲の代わりに薬品などの入った箱を肩からかけて「軍医殿」に
 従ったそうです。

 私たちが、子供のころ外で遊んでいて「切り傷」などをこしらえて帰宅すると
 なれた手つきで消毒をして上手に包帯を巻いてくれました。
 (昔の包帯は単なる細長い布切れでしたので、
 ずれないように上手く巻くための「包帯術」という科目があったそうです) 


[No.925] 婦人従軍歌。 投稿者:   投稿日:2009/02/04(Wed) 16:40
[関連記事

まーちゃん、らめーるさん

>  亡父は、兵隊時代に東京の「衛戍病院」付属の「看護学校」のようなところに行かされたそうです。
>  当時(大正の初期)は、女性の看護婦さんが従軍することができなかったため
>  男性の看護師の資格を持った看護兵が必要であったからといっていました。
>  産婦人科と小児科以外のすべての臨床研修もしたそうです。

オヤ? こんな軍歌がありましたよ。
兵隊で火線まで行くのは衛生兵。 赤十字は多分後方勤務?

                            変蝠林(1917-)
   
  婦人従軍歌  加藤義清作詞  奥 好義作曲

火筒の響き遠ざかる 後には虫も声たてず
吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色

わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ
たおれし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり

やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷い行く
天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人

真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り
まくや包帯白妙の 衣の袖はあけにそみ

味方の兵の上のみか 言も通わぬあだまでも
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字

あないさましや文明の 母という名を負いもちて
いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字

日清戦争当時、作詞者加藤義清は出征する友人を見送りに新橋駅に行ったところ、同じ列車で赤十字の看護婦たちが凛々しく戦地へ出発していくのを目の当たりにし、感動してこの詞を作り、奥好義に作曲を依頼してこの曲がうまれました。とかく男子の武勇伝が歌われる事の多い軍歌の中で、それも婦人の地位の低かった明治時代に、このような婦人の働きをたたえる歌ができた事は興味深い事です。


[No.926] Re: 婦人従軍歌。 投稿者:   投稿日:2009/02/05(Thu) 08:21
[関連記事

変蝠林さん

> 日清戦争当時、作詞者加藤義清は出征する友人を見送りに新橋駅に行ったところ、同じ列車で赤十字の看護婦たちが凛々しく戦地へ出発していくのを目の当たりにし、感動してこの詞を作り、奥好義に作曲を依頼してこの曲がうまれました。とかく男子の武勇伝が歌われる事の多い軍歌の中で、それも婦人の地位の低かった明治時代に、このような婦人の働きをたたえる歌ができた事は興味深い事です。

 懐かしい歌ですね。

 しかし、ウェブサイトには、下記のようにも書かれています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 昭和12年、盧溝橋事件により日中戦争がはじまり、
 この時日本赤十字社戦時救護員200名が動員された。
 これが、日本赤十字社の看護婦がはじめて組織的に、
 戦地に派遣された時であろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 私もよく、分かりませんが、少なくとも父が東京の衛戍病院で看護師の
 訓練を受け、看護の仕事をしていたのは事実と思います。

 ただ、そういう資格を持った男性看護師は少なかったのではないかと
 思います。


[No.927] Re: 婦人従軍歌。 投稿者:BUP  投稿日:2009/02/05(Thu) 14:52
[関連記事

>  懐かしい歌ですね。 ↓
http://www.youtube.com/watch?v=LttWQanQtTY
http://www.youtube.com/watch?v=Iezks1dVVf4
http://www.youtube.com/watch?v=4u_iVR6pxpY
その他 沢山。
全然、優しく無かったよ、俺の戦友は、看護婦さんにピンタを取られてたよ。


[No.928] Re: 婦人従軍歌。 投稿者:   投稿日:2009/02/06(Fri) 09:37
[関連記事

ご無沙汰しました みなさま こんにちわ

> 全然、優しく無かったよ、俺の戦友は、看護婦さんにピンタを取られてたよ。

そうそう そんな感じ
 予防注射順番待ちで、がやがやしていたら
ピンタは来なかったけど、小言拝聴は直立不動の姿勢で、
答えは最後に「ハイッ!」だけ。


[No.929] Re: 婦人従軍歌。 投稿者:   投稿日:2009/02/06(Fri) 12:22
[関連記事

善兵衛さん  BUP さん みなさま 

>> 全然、優しく無かったよ、俺の戦友は、看護婦さんにピンタを取られてたよ。

大同に駐屯した頃、兵営の隣が病院だったが遂に入院出来なかった。
従軍中一度も女気無し。

> ピンタは来なかったけど、小言拝聴は直立不動の姿勢で、
> 答えは最後に「ハイッ!」だけ。

ビンタは好きだった。
気を付けっ! 眼鏡外せ! 唇を噛め!

あれホントに眼から☆が飛びますよね。

有り難く有りました!! 敬礼。

あれ、もう一度経験したいのだが・・・・


[No.944] 従軍回顧。 投稿者:   投稿日:2009/03/04(Wed) 16:31
[関連記事

懐かしい歌の数々ですね。

> http://www.youtube.com/watch?v=LttWQanQtTY
> http://www.youtube.com/watch?v=Iezks1dVVf4
> http://www.youtube.com/watch?v=4u_iVR6pxpY

                 変蝠林(1917-)


[No.945] Re: 従軍回顧。 投稿者:BUP  投稿日:2009/03/04(Wed) 20:25
[関連記事

変蝠林(1917-) 大兄殿 & 皆様
> 懐かしい歌の数々ですね。
南方(インドネシア)より復員兵士の皆様向け
懐かしい歌の数々
http://www.youtube.com/watch?v=OCja-5B2yN0
http://www.youtube.com/watch?v=QvOWm6Te0gY
http://www.youtube.com/watch?v=qtikhAyEX0I
http://www.youtube.com/watch?v=N9IyYTv40Rc
(俺は迷わず五万円金券で貰いました)


[No.946] Re: 従軍回顧。 投稿者:   投稿日:2009/03/05(Thu) 13:28
[関連記事

懐かしい南国の歌 有難う御座いました。最後の抑留の島「レンパン」では藤山一郎さんも同じ抑留の身で よくブンガワンソロ サプタンガン テランブランなど歌いながら故国を偲んだものです。5年前にインドネシアのソロを訪ねソロの流れも見て来ました。 私も5万円の旅行券を貰い九州へのフルムーンの旅をして来ました。あlps1924


[No.948] Re: 従軍回顧。 投稿者:BUP  投稿日:2009/03/05(Thu) 20:14
[関連記事

3年程前、同級生(同年次兵)の1人が病没しました。
残った3名が葬儀に参列しました、葬議場には、静かに ♪ブンガワン・ソロ の曲が流れ居りました。
此の曲が、其処で流れている理由を知っていたのは、吾々3人だけでした。
葬壇の前に一同整列、 「敬礼」って号令を掛けて、挙手の礼を致しました。
その理由を知っているのは、吾々、生き残った3人だけ、ご家族の方々も恐らく知らないと思いました。
藤山一郎さん、本名 増永丈夫 海軍嘱託(少佐待遇)は、豪北、前線慰問の際、御目に掛かったことが御座います。
小生が復員の際、リバティV-040で、レンバン島に寄航の際にも御目に掛かりました。
”youtube”で、懐かしい歌、曲をお楽しみ下さい。
(俺が死んだときは ♪ Terang Bulan で御願い致します)
                         敬具


[No.950] Re: 従軍回顧。 投稿者:   投稿日:2009/03/07(Sat) 16:23
[関連記事

DUPさん・・・私の無線講から日本航空入社まで 文字通り “同期の桜”が昨年久しぶりに会う約束ができ 積もる話を胸に抱き 雪の信州から鳥取に向かいました。
途中姫路に一泊して鳥取に向かう電車に携帯電話が鳴り 応答したところ、息子の声で
「父が今朝亡くなりました・・・」予想もしない出来事に驚愕と悲しさで言葉もなく家に駆けつけ無言の対面と成って仕舞いました。葬儀の式場で私は涙を堪え、弔辞に続けてブンガワンソロを歌いました。それは彼の赴任地がジャカルタであり、常に口ずさんでいた好きな歌であったからです。・・・之で生存している同期の桜は 遂に2人に成って仕舞いました。


[No.951] Re: 従軍回顧。 投稿者:   投稿日:2009/03/07(Sat) 20:33
[関連記事

satyanさん

> 「父が今朝亡くなりました・・・」予想もしない出来事に驚愕と悲しさで言葉もなく家に駆けつけ無言の対面と成って仕舞いました。葬儀の式場で私は涙を堪え、弔辞に続けてブンガワンソロを歌いました。それは彼の赴任地がジャカルタであり、常に口ずさんでいた好きな歌であったからです。・・・之で生存している同期の桜は 遂に2人に成って仕舞いました。

 あれっ。そうだったのですか。
 お寂しいですね。
 
 「ブンガワンソロ」ーーー昨年86才で亡くなった私のパソコンの生徒さんも、
 よく歌っておられました。
 やはり、戦地での思い出の歌だとおっしゃっていました。


[No.913] Re: 静岡浅間神社 投稿者:   投稿日:2009/01/28(Wed) 16:59
[関連記事

ら、めーるさん こんにちは

> 昔ちんちん電車も街中をはしっていたのに、、、

 
  ちょうど私が就職した年の秋に(?)廃止になりました
 同期入社にちんちん電車マニアがいて
 一緒に車庫まで写真を撮りにいったことがあります

 静鉄清水線は今も健在ですね


[No.914] Re: 静岡浅間神社 投稿者:   投稿日:2009/01/29(Thu) 12:53
[関連記事

白兎山人さん こんにちは
 
>  ちょうど私が就職した年の秋に(?)廃止になりました
>  同期入社にちんちん電車マニアがいて
>  一緒に車庫まで写真を撮りにいったことがあります
>
>  静鉄清水線は今も健在ですね  

静岡電鉄の車庫と聞くと思い出します。
  大正十二年九月一日、関東大地震の時です。

  自宅から参百米ほどの所に車庫が在りました。
  一番安全な避難所として車庫に在った電車に寝ました。

  悪戯な大人が居て乗車口のハンドルを持って揺するのです。
  当時の電車は十米程の車の真ん中に四輪駆動が一つでした。

                       変蝠林(1917-)


[No.915] Re: 静岡浅間神社 投稿者:ら、めーる  投稿日:2009/01/29(Thu) 15:52
[関連記事

Re: 静岡浅間神社
画像サイズ: 640×427 (48kB)
変蝠林さん、 白兎山人さん こんにちは
●浅間神社の七不思議
1一つ石…神社の周りに水路があり、この底に面したところが一つ石(一段)になっている。
2叶馬…左甚五郎作と伝えられる。
     安永の火災の折、2頭の神馬が三保に逃げ、1頭はそのまま残り、1頭は戻って3きたのだとか。
水飲み龍…左甚五郎作と伝えられる。
        安永の火災の折、龍が池に下りて水を吐き、御殿にかけたのだとか。
4鳴きうずら…信州諏訪の名工・立川和四郎の彫った”粟穂にうずら”が鳴いたのだとか。
5八方にらみの龍…狩野栄信によって大拝殿の天井に描かれた龍の墨絵。
             どこから見ても龍がこちらを睨んでいるように見えるのだとか。
6山上の不思議…麓山神社に至る参道にある岩の手前を足で踏むと不思議な音がするのだとか。
7四方走りの馬…現在、文化財資料館に展示されている絵馬の中の馬が毎夜抜け出て走り回り田畑を荒らしたので、一筆描き加えて抜け出られなくしたのだとか。

2の白馬は今でも馬小屋にいます。