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[No.268] 終戦記念日にあたって 投稿者:藤井 正義  投稿日:2007/08/22(Wed) 00:06
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KYとND(終戦の日にあたって)      2007.8.15

 KYとNDは、最近の女子高生の間で流行っている暗号のようだ。「空気が読めない」、「人間として、どうも」という意味らしい。世の中は複雑多岐になったが、彼女達には瞬間に見抜く洞察力があるようだ。素晴らしいことではある。ただ、暗号ではなく、正々堂々と言って欲しい。

 昨今の自民党幹部や首相にも、言えそうである。依然として自己正当化に追われ国民を見ていない。政索や実績は国民に否定されていない、反省すべきは反省し、直すべきは直すと言っている。いさぎよくない。具体的に挙げないで、本当に反省しているかと疑われている空気が読めない。人間としてどうも、と言われても仕方がない。年金改革もそうだ。思い切って、民主党の長妻氏を厚生労働大臣に据えてみてはどうか。フランスでは野党を閣僚に据えるだけの懐の深さがあるとか。竹村健一氏は森喜朗氏へ提言していた。面白い発想だと思う。天下り対策や政治と金の問題もそうだ。党利党略を超えた政治を望むのが、国民の空気であろう。人心の一新と言っても、短命内閣では閣僚のなり手が少なかろう。ピンチはチャンスでもある。とにかく、軍国時代と違って、政治は国民の支持があってのものだ。当然に私物化できるものではない。

 終戦記念日を迎え、戦争にまつわるドラマや報道が多い。今日の平和や繁栄が多くの犠牲の上にあることを忘れてはいけない。二夜連続のドラマ「はだしのゲン」を見た。広島の原爆で最愛の父と姉弟を失った少年の物語である。人間として大事なことが多く語られていた。現実はもっと目を覆うものがあったろう。これ等の主題は「生きる」である。「生きる」とは何か。人間として、よく考えてみたい。平和や繁栄の陰に危うさを感じるのは自分だけか。悲劇は二度と繰り返したくない。誰でも私利私欲と大勢に流される弱さがある。今でも、戦争体験者や被害者は多くいる筈である。悪夢のように厳しい過去を忘れたい気持ちは判るが、悶々と日々を過ごされているかも知れない。現在と過去を直視して、後世に伝えて欲しい。考えを纏めて発信して欲しい。60数年前の犠牲は貴重な遺産である。無形の世界遺産といってもよい。失敗を遺産として受け止めることが、犠牲者に報いる唯一の供養と思う。歴史は変えられないが、次世代に生かすことは出来る。世界平和と核の廃絶また不戦の誓いを揺ぎなくする為、もっと考え、語りたい。

 自分は昭和15年生まれで戦後初の新制教育を受けた者である。広島の残留被爆で父を失い、貧困の辛酸をなめた。戦後62年、白髪が増え、それも薄くなった世代である。今、旧軍人の手記「レイテ島戦、不参の記」を英語らしくない英語で翻訳している。少しでも役立てばと思い、非力を絞っている。なめた辛酸を成果に変えたいのである。
 
 それにしても、大東亜戦争では一千万に及ぶ犠牲者を出した。大東亜圏制覇という野望は何処から来たのか。完全に言論を封鎖した軍国主義は何処から来たのか。日清、日露戦争の成功で勢いが付き、植民地政策が止まらなくなったのか。国威掲揚の名の元に、異論者は非国民扱いされた。すべて「お国のため」の一色に染まったからだ。しかし、1億・玉砕の軍国主義も米国の物量作戦の前にひとたまりもなかった。ライオンの前にウサギを投げ出すように、人間を物量として使う術しかなかった。国民の悲惨な有様に、当時の閣僚達は何も言えなかった。昭和天皇は惨状を見るにしのびず、我が身の命と財産を投げ打って、無条件降伏のポツダム宣言受諾を下命したという。

 この悲惨な失敗を反省しなければ意味がない。我々には戦前・戦後の歴史を明らかにする責任と義務がある。歴史学者だけに任せる問題でもない。歴史は人生の積み重ねである。つかの間の人生を生きた証でもある。曖昧にしては次世代の将来が危ない。歴史の授業は、時間がなくて、触れないで終わる。若い世代は遠い昔と言うかも知れない。年寄りの愚痴か寝言に思うかも知れない。戦後、年寄りの威厳が急速に低下した。大人や年寄りがものを言わなくなった。年寄りの全てが否定された訳ではないのに。若者達も年寄りの話に耳を貸さなくなった。年寄りは生き甲斐を失い、若者達は目標を見失って、まるで糸の切れた凧のような感がある。

 歴史を明らかにするのは、究極において、我々自身の為である。世のため人のためと言っても、間接的に自分の為である。それでよいと思う。今は直接的な私利私欲が多すぎる。もう一働きした間接的な私利私欲でありたい。他を卑しめては、自分を卑しめる結果になる。

 戦後の個人主義、資本主義や米国依存が、果たして本当の反省になっているか。確かに物質は豊になった。しかし、ウイルスにおかされた如く、中から崩壊していないか。日米安保条約、テロ特措法の延長等によって、米国の軍国主義を正当化していないか。国益一辺倒になっていないか。東南アジアや世界全体を考えたいものである。これが真の国益と思う。ともかく、犠牲を成果にするのが、後世の役目である。

 これは日本に限った現象ではない。必死になって、世界に訴えたいことである。米国の目的は判るが、手段が問題であると。法衣の下に鎧がちらついていないか。目的と手段をよく考えてみたい。世界中の人間が、人間として目覚める時ではないか。乏しい情報と判断でものをいった。完璧を期していては何も言わずに、短い人生を終わると思うからである。戦後体験をした暇人のせめてもの役目と考える。

 このように、大勢や時代の空気を読めば、人間として取るべき道が見えてくる。ただ、大勢の空気が必ずしも正しいとは言えない。作られた場合もある。歴史の判断にまかすこともあろう。人間として考えて打った手ならば、潔く自業自得の責任がとれる。思えば、貝のように黙る時代が長すぎた。戦後60年にして、ようやく言論の自由が芽生えてきた。これは米国から導入された民主主義の成果の一つであろう。米国から導入された全てを否定するつもりはない。そして、マスコミに踊らされてはいけない。しかし、マスコミの情報がなくては暮らせない時代である。その上で、自分の判断と見識を持つことだ。ただ、昨今、全ての不都合を人の所為にして、権利の主張が目立つのが気になる。Monster ParentsやMonster Clientsなどは、自分の為にならないからである。何事につけ、女学生ではないが、明確にKYとNDを問う時代にしたいものである。  


[No.269] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:えー  投稿日:2007/08/22(Wed) 00:15
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藤井さん

ついにご投稿ありがとうございます。

これからも正論をどしどしお願い申し上げます。

                   えー 

誰だかわかりますね


[No.270] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2007/08/22(Wed) 01:52
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> KYとND(終戦の日にあたって)      2007.8.15

藤井 正義 様 えーさん

当欄に相応しき論説有難く拝読致しました。

続稿を期待致します。

                  変蝠林(1917-)


[No.271] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:あんみつ姫(小池)  投稿日:2007/08/22(Wed) 09:21
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藤井さん、ようこそ(^ー゜)ノ

英語版伝承館の英訳にご協力下さって、本当にありがとうございました。
お陰さまで英語版も充実してきて、WSAへのエントリーに遜色ないもの
になってきています(^-^*)/

えーさんのお陰で藤井さんのような方に巡り会えて、これもネットの世界
ならではですね!

ところで「はだしのゲン」ですが、私はNHKのではなくWOWOW放送のものを
見ましたが、例の玉音放送が流れた時にゲンのお母さんが「天皇様、あなた
はこうして戦争を終わらせる事が出来るなら、なぜ始めるのを止めることが
出来なかったのですか・・・」という件に、涙が止まりませんでした。

「空気を読む」確かに良い大人に、それもヒトカドの人と思える大人の中に、
空気の読めない人が多い事に、最近、私も気がつきました。

自分のすることが一番で皆の見方考え方も自分と同じ、そして自分は歓迎されて
いると思い込んでしまうんですね。
空気が読めないとはよく言ったものです(*'-'*)

周りの空気が冷えているのは自分の所為ではない、周りが悪いんだから謝る必要
はさらさら感じない、と言うより、謝るという行為そのものに潔さを感じないと
いうような人間ばかりが、特にポストを与えられた者に多く見られるのは残念です。

>  それにしても、大東亜戦争では一千万に及ぶ犠牲者を出した。大東亜圏制覇という野望は何処から来たのか。完全に言論を封鎖した軍国主義は何処から来たのか。日清、日露戦争の成功で勢いが付き、植民地政策が止まらなくなったのか。国威掲揚の名の元に、異論者は非国民扱いされた。すべて「お国のため」の一色に染まったからだ。

あれから60年余が流れ、今、様々な歴史の検証が行なわれているようで、8月とも
なるとアチコチのメディアが過去を取上げています。
どれを見ても、日本の情報管理がいかにオソマツで、指揮官の判断がいかに稚拙で
あったか、情報収集が後手にまわって無駄な命を失くしたかが、これでもかという
調子で放送されています。

生きて還るのは恥だという戦争教育が日本人の心に浸み込んだ背景には、日本人の
思想が影響していたのでしょうか。

昭和17年のミッドウエィ海戦以降、インパール、ガダルカナル、マリアナ沖海戦
などの惨敗は隠され、戦渦は過大に報告するという為政者に、唯々諾々と従ったメ
ディアの罪、当時 敗因の検証もせずに次々と戦線を拡大していった将校たちの責任
が問われることなく、あたら若い命が散っていったことを、残された私たちは深く
心に留める必要があるのではないでしょうか。

情報管理、危機管理、情報の徹底収集というようなことに、日本人はここまで無能
なのかと、そして未だその能力はアメリカなどに頼っていることを思うと、これは
もう国民性ではないかと諦めそうになります( ̄へ ̄|||)

それにしても、藤井さんの仰るように、空気を的確に読める、それも世界の空気を
読める人の育成が、これからの平和のためには必要なことなんでしょうね。

世界に広がるネットの時代です。
人に左右されずに自分で考える、人間として持つべき正義の何たるかが正しく理解
でき、人の意見をきちんと聞ける日本人になりたいですね (* -。)モウオソイカ

今後とも、藤井さんのご活躍を期待しています(^ー゜)ノ


[No.273] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:藤井 正義  投稿日:2007/08/23(Thu) 13:59
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 小池会長さんも日本の国民性に触れておられました。小生もそんな気がしています。
 古くは文明開化といって、古きよき伝統をいとも簡単にかなぐりすてて、西洋文明にかぶれてしまいました。散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。等と、一部には反省の声もあったようですが。伝統とは、封建的な悪い所もありますが、それなりに良い所があればこそ、長年の切磋琢磨を経ても、伝わり大事にされたと思います。
 日本人はどうも悪いとなると、全てを否定する、良いとなると狂信的に受け入れる傾向がありますね。小生と同じく直情径行型ですので余り強調はできませんが。精神主義がだめなら、今度は物質主義に走る。その辺が危ないと思う訳です。伝統のある仏教をすてて、キリスト教に走るのもそんな感じがします。ジグザグというより、極端から極端にぶつかるまで走る傾向があるようです。
 大東亜圏制覇という野望も、当時のイギリス、フランス等の植民地政策という世界的な時流に乗りたかったのではと憶測しています。「国家の品格」で藤原正彦氏が指摘されたように、片方だけではダメですね。両者のバランスをとることが大事だと思います。どうも他に振り回され易いですね。柔軟性があるというのか、自信がないというのか、私にはまだ理解しにくい所です。変ることも大事ですが、頑固なまでに守るのも大事ですね。足元の伝統文化を見直して見たいものです。
 国民性は今後も研究課題ですね。この傾向は、日本だけには限らないのかもしれません。でも、60年前に比べると大分良くなった方だと思うのですが。


[No.275] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2007/08/23(Thu) 18:31
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 藤井 正義 様

> 大東亜圏制覇という野望も、当時のイギリス、フランス等の植民地政策という世界的な時流に乗りたかったのではと憶測しています

 御言葉を返す様で忸怩の面も御座いますが私の場合・・・・・

 ABCD経済封鎖の鎖を切って布哇急襲成功の軍艦マーチが流れたあの朝に
 印度を初めとする東洋の各国植民地解放の口火と見て快哉を叫び大東亜開放
 の夢達成の世に言う太平洋戦争を大東亜戦争と呼び勝ち戦であったと思い度
 く存じて居ります。

 話は226事変に飛びますが当時皇軍派と呼ばれた決起部隊を統制派の東條
 一味が昭和天皇をして国賊と呼ばせ近衛軍団を満州に飛ばせて独逸伊太利亜
 の独裁者に憧れた結果の惨敗は返す返すも残念な次第であります。

 近衛文麿のソ連盲信も愚かな結果を齎しました。
 皇軍が光軍に変わった歴史を繰り返さぬ事が生き残った老人の責務と思います。

                                     変蝠林(1917-)


[No.300] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:藤井  投稿日:2007/08/29(Wed) 08:24
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人に左右されずに自分で考える、人間として持つべき正義の何たるかが正しく理解
でき、人の意見をきちんと聞ける日本人になりたいですね (* -。)モウオソイカ

会長さんのコメントを何度も謹んで読み返しています。沈鬱なお気持ちが伝わってきます。それにも関わらず、メロウ倶楽部の運営にご尽力される勇気に感動を覚えます。理屈ばかり捏ね回している自分が恥ずかしく思います。今回の英訳は拙いものですが全力を傾けました。お役に立てれば、小生にとってこの上のない幸せです。今後とも、お役に立てればと思います。死よりも生に、より感動を覚えます。死にも感動はありますが、「生きる」には否定出来ない感動があります。人間本来の感情なんでしょう。生は死の為にあり。死は生の為にあり。人生で一度しかない、生と死を上手く使いたいと思います。もっとも、私の仮説的理論では、人生は繰り返し何度でもあると思っていますが。語る機会があればと思っています。ご健闘をお祈り申し上げます。
                                    藤井拝


[No.272] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:藤井 正義  投稿日:2007/08/23(Thu) 09:01
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この度は、皆様のご好意を戴いて、メロウ伝承館「悠々世代」に投稿できまして、眞に光栄に存じます。
定年退職して、早くも7年が過ぎました。現役時代は考えもしなかったことを、日々悶々と考えています。拙文集「息子への遺産」などをしたため、一時は出版も考えました。財力の不足や、周りの反対もあって諦めました。
この度、投稿の機会が与えられていささか興奮しています。私見ではありますが、少しずつ手直しをして、発表してもいいでしょうか。ご意見や反響を読みながらコントロールしたいと思います。文章は矛盾をさけ、辻褄を合わせるものと思います。従って、現実の自分とは相当にずれたものがあります。文章は重くても、気軽で気さくな一面もあります。今後ともよろしくお願い致します。
ではまた、紙面でお会いいたしましょう。
 どうか、忌憚のない、ご意見やご指導を。


[No.279] Re: 終戦記念日にあたって 投稿者:藤井  投稿日:2007/08/25(Sat) 08:24
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 残暑お見舞い申し上げます。
暑い最中に原爆が投下された。
焦げ付くような暑さであったろう。
草一本生えないといわれた。
今、庭草が取っても、取っても生えてくる。
草も緑の内かとあきらめる。
人間とは何と身勝手で、贅沢な生きものか。