KYとND(終戦の日にあたって) 2007.8.15
KYとNDは、最近の女子高生の間で流行っている暗号のようだ。「空気が読めない」、「人間として、どうも」という意味らしい。世の中は複雑多岐になったが、彼女達には瞬間に見抜く洞察力があるようだ。素晴らしいことではある。ただ、暗号ではなく、正々堂々と言って欲しい。
昨今の自民党幹部や首相にも、言えそうである。依然として自己正当化に追われ国民を見ていない。政索や実績は国民に否定されていない、反省すべきは反省し、直すべきは直すと言っている。いさぎよくない。具体的に挙げないで、本当に反省しているかと疑われている空気が読めない。人間としてどうも、と言われても仕方がない。年金改革もそうだ。思い切って、民主党の長妻氏を厚生労働大臣に据えてみてはどうか。フランスでは野党を閣僚に据えるだけの懐の深さがあるとか。竹村健一氏は森喜朗氏へ提言していた。面白い発想だと思う。天下り対策や政治と金の問題もそうだ。党利党略を超えた政治を望むのが、国民の空気であろう。人心の一新と言っても、短命内閣では閣僚のなり手が少なかろう。ピンチはチャンスでもある。とにかく、軍国時代と違って、政治は国民の支持があってのものだ。当然に私物化できるものではない。
終戦記念日を迎え、戦争にまつわるドラマや報道が多い。今日の平和や繁栄が多くの犠牲の上にあることを忘れてはいけない。二夜連続のドラマ「はだしのゲン」を見た。広島の原爆で最愛の父と姉弟を失った少年の物語である。人間として大事なことが多く語られていた。現実はもっと目を覆うものがあったろう。これ等の主題は「生きる」である。「生きる」とは何か。人間として、よく考えてみたい。平和や繁栄の陰に危うさを感じるのは自分だけか。悲劇は二度と繰り返したくない。誰でも私利私欲と大勢に流される弱さがある。今でも、戦争体験者や被害者は多くいる筈である。悪夢のように厳しい過去を忘れたい気持ちは判るが、悶々と日々を過ごされているかも知れない。現在と過去を直視して、後世に伝えて欲しい。考えを纏めて発信して欲しい。60数年前の犠牲は貴重な遺産である。無形の世界遺産といってもよい。失敗を遺産として受け止めることが、犠牲者に報いる唯一の供養と思う。歴史は変えられないが、次世代に生かすことは出来る。世界平和と核の廃絶また不戦の誓いを揺ぎなくする為、もっと考え、語りたい。
自分は昭和15年生まれで戦後初の新制教育を受けた者である。広島の残留被爆で父を失い、貧困の辛酸をなめた。戦後62年、白髪が増え、それも薄くなった世代である。今、旧軍人の手記「レイテ島戦、不参の記」を英語らしくない英語で翻訳している。少しでも役立てばと思い、非力を絞っている。なめた辛酸を成果に変えたいのである。 それにしても、大東亜戦争では一千万に及ぶ犠牲者を出した。大東亜圏制覇という野望は何処から来たのか。完全に言論を封鎖した軍国主義は何処から来たのか。日清、日露戦争の成功で勢いが付き、植民地政策が止まらなくなったのか。国威掲揚の名の元に、異論者は非国民扱いされた。すべて「お国のため」の一色に染まったからだ。しかし、1億・玉砕の軍国主義も米国の物量作戦の前にひとたまりもなかった。ライオンの前にウサギを投げ出すように、人間を物量として使う術しかなかった。国民の悲惨な有様に、当時の閣僚達は何も言えなかった。昭和天皇は惨状を見るにしのびず、我が身の命と財産を投げ打って、無条件降伏のポツダム宣言受諾を下命したという。
この悲惨な失敗を反省しなければ意味がない。我々には戦前・戦後の歴史を明らかにする責任と義務がある。歴史学者だけに任せる問題でもない。歴史は人生の積み重ねである。つかの間の人生を生きた証でもある。曖昧にしては次世代の将来が危ない。歴史の授業は、時間がなくて、触れないで終わる。若い世代は遠い昔と言うかも知れない。年寄りの愚痴か寝言に思うかも知れない。戦後、年寄りの威厳が急速に低下した。大人や年寄りがものを言わなくなった。年寄りの全てが否定された訳ではないのに。若者達も年寄りの話に耳を貸さなくなった。年寄りは生き甲斐を失い、若者達は目標を見失って、まるで糸の切れた凧のような感がある。
歴史を明らかにするのは、究極において、我々自身の為である。世のため人のためと言っても、間接的に自分の為である。それでよいと思う。今は直接的な私利私欲が多すぎる。もう一働きした間接的な私利私欲でありたい。他を卑しめては、自分を卑しめる結果になる。
戦後の個人主義、資本主義や米国依存が、果たして本当の反省になっているか。確かに物質は豊になった。しかし、ウイルスにおかされた如く、中から崩壊していないか。日米安保条約、テロ特措法の延長等によって、米国の軍国主義を正当化していないか。国益一辺倒になっていないか。東南アジアや世界全体を考えたいものである。これが真の国益と思う。ともかく、犠牲を成果にするのが、後世の役目である。
これは日本に限った現象ではない。必死になって、世界に訴えたいことである。米国の目的は判るが、手段が問題であると。法衣の下に鎧がちらついていないか。目的と手段をよく考えてみたい。世界中の人間が、人間として目覚める時ではないか。乏しい情報と判断でものをいった。完璧を期していては何も言わずに、短い人生を終わると思うからである。戦後体験をした暇人のせめてもの役目と考える。
このように、大勢や時代の空気を読めば、人間として取るべき道が見えてくる。ただ、大勢の空気が必ずしも正しいとは言えない。作られた場合もある。歴史の判断にまかすこともあろう。人間として考えて打った手ならば、潔く自業自得の責任がとれる。思えば、貝のように黙る時代が長すぎた。戦後60年にして、ようやく言論の自由が芽生えてきた。これは米国から導入された民主主義の成果の一つであろう。米国から導入された全てを否定するつもりはない。そして、マスコミに踊らされてはいけない。しかし、マスコミの情報がなくては暮らせない時代である。その上で、自分の判断と見識を持つことだ。ただ、昨今、全ての不都合を人の所為にして、権利の主張が目立つのが気になる。Monster ParentsやMonster Clientsなどは、自分の為にならないからである。何事につけ、女学生ではないが、明確にKYとNDを問う時代にしたいものである。
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